2.男子の部屋
翌日の放課後、郁と約束を取り付けた日の放課後、洋子はなぜか郁の家の玄関にいた。昨日の約束通り、郁と音楽室で落ち合った洋子だったが、いつものような時間を過ごした後、彼から「ちょっと一緒にきて欲しいところがある」という誘い文句を受けた。
その言葉に従ってついて行った結果、到着したのが郁の自宅だったのだ。
学校から徒歩十五分ほど離れた、市街地にごく近い場所に建つ高級マンションの一室に彼の自宅がある。マンションの存在自体は洋子も知っていたが、自分の同級生がここで暮らしているというのは初めて知ることであった。
そしてそれ以上に、自分がそのマンションに足を踏み入れることになるとは、想像もしていなかったのだ。
「さ、どうぞ、上がって」
何気ない仕草で郁はスリッパを差し出す。
しかし、差し出された洋子はまだ自分の置かれている状況を上手く整理できないでいた。
よく手入れされて、上品な光沢を放つフローリングの廊下と、中央に敷かれている高級そうな質感を持った絨毯、それだけで自分の家とは違う生活ぶりが見て取れてしまう。
そこがもう既に、玄関を開けたさきに台所兼食卓があって、後は居間兼母の部屋と、自分にあてがわれた六畳間ぐらいしかない、典型的な借家住まいの自分の家とは全く違う。それゆえにこの場に自分がいるのが、とんでもなく場違いに思えてしまうのだった。
まるで別世界みたいなものだから、ついジロジロと周りを見渡してしまう。それはもしかしたら失礼なことなのかもしれないが、そうせずにはいられないのだ。
「どうしたの?」
「い、いや、別に! ……上がって、良いのか? 本当に」
「? 上げるつもりがなかったらここに連れてきていないじゃない。遠慮しなくて良いよ。ほら、僕の部屋に案内するから」
「か、郁の部屋?」
彼の言葉に、洋子はさらに動揺してしまった。
同級生の男子の家に上がり、しかも自室に招き入れられるなど、ついぞ経験していない。基本的に外でぶらぶらすることが多く、特定のグループに属したりもしていないため、そもそも他人の家に上がることもあまりなかったのである。
「いらっしゃい」
緊張気味の洋子に、郁は優しく声を掛ける。
「……お、お邪魔します」
郁に促されても、しばらくの間グズグズと渋っていた洋子であったが、ちょっと照れくさそうに挨拶をして家の中に上がった。
廊下を突き抜けた先にある、だだっ広いリビングの奥に伸びている短い通路を挟んで左手の部屋に案内される。
ドアノブを回し、部屋の中に入ると、そこには洋子の部屋の倍近いほどの広い白亜の色に包まれた空間がさらに広がっていた。壁際にはアップライト式のピアノが据え置かれ、大きめのサイズの勉強机と、その隣には高級感の溢れる本棚が立てられ、中にはたくさんの楽譜とCDが収納されている。
玄関でも驚いてしまったが、室内はそれを上回るものがあった。
同年代の男の子の、しかもプライベートな空間。それは普段自分が嗅いでいる、埃と畳のい草の香りに包まれた、所帯じみた匂いとは対照的で、石鹸の香りにも似た、気品を感じさせるものだ。何となく、金持ちの生活というのは露骨な高級志向で、贅沢に色々なインテリアが見せびらかすように置かれたケバケバしいものであるというイメージを洋子は持っていたが、そんなイメージとは違い、上品な高級感が感じられた。しかし、一方で普段の自分の空間で感じているような生活の匂いとはかけ離れているようにも思えた。
「すげえ、綺麗な部屋だな」
「ありがと、じゃあ、ちょっとお茶を入れてくるから、適当にくつろいでいてよ」
「お、おう、ありがと」
お茶といっても、茶渋が染みついたボロの湯飲みに入れられて出される日本茶ではなく、ティーカップに入れられた紅茶のことをさしているのは洋子にもすぐに分かった。本当に何からなにまでも、自分とは違うのである。
郁が部屋から出て行って、この広い空間に洋子一人だけが取り残される。
「くつろげ、っていわれてもなあ……」
思わず唾を飲み込んでしまった。くつろげと言われても、どうくつろいで良いのだろうか。自分の部屋とは造りも匂いも違うこの空間では、むしろくつろげと言うのが無理な話だ。立ちつくしたまま、どうして良いか見当もつかない。
とにかく、どこかに座った方がよいのかもしれないが、その点にも問題があった。
床にカーペットは敷かれているが、畳のように直に腰を下ろすような場所ではないように思われる。
では勉強机の椅子に座るか、これも不自然に見えるし、図々しい女に思われはしないか不安になる。大体、勉強机には持ち主の最もプライベートなものが置いてあるのが常なのだ。
と、なると……。
洋子がゆっくりと視線を送った先には、窓際に置かれた、皺一つ無く丁寧にメイクされたキングサイズのベッドがあった。
恐る恐るベッドに近づいていく。
郁がここで毎日寝起きをしていると思うだけで、緊張で胸を打つ心臓の鼓動も自然と早くなる。分厚いマットレスを包む清潔感のある純白のシーツと、肌触りの良さそうな落ち着いた光沢を放つダークグレーのカバーに包まれた掛け布団のコントラストは、華奢で童顔な郁のイメージに比して大人びたデザインであった。
「い、いいんだよな? 嫌、良くねえのか?」
万年床を座布団代わりにするのはいつものことなのだが、ベッドを置いている人はどうなのだろうか。なんとなく、ベッドの側にしゃがみ込んで掌をマットレスに置いてみた。それだけで吸い込まれるように柔らかく沈みこみ、包むように跳ね返してくる。センベイのようにペッタンコになった自分の布団との違いに、洋子は少しだけ驚いた。この感じだと座り心地は良さそうだ。
ベッドに顔を近づけたことによってシーツから放たれる洗剤の香りと、そこに微かに混じっている持ち主のものと思われる少し甘酸っぱい残り香が洋子の鼻腔をくすぐる。それが何だかいけないことをしているような、後ろめたさと快感が入り混じった不思議な気持ちを彼女にもたらした。
「おまたせ」
郁のちょっと高い声が耳に飛び込み、洋子はドキッとしてその場に固まってしまう。
男の部屋、ベッドの傍らにしゃがんで顔を寄せて、撫でるようにして触っている挙動不審な女。一番見られてはいけない変態的な構図だ。
恐る恐る振り返り、郁を見る。
「遠慮しなくて良いよ。僕も横着してベッドを腰掛け代わりにしちゃうことは結構あるから」
意外にも気にした様子が見られず、少しホッとしたが、やはりベッドに腰掛けるということをするにはチョットだけ躊躇いが出来てしまう。
「……じゃ、じゃあちょっとだけ借りるぞ」
洋子は勢いに任せてベッドに腰を下ろした。先程漂ってきたベッドの香りが直に彼女を包みこむように香り、体重でスプリングが軽く軋む音を立てる。けれど、あまりの弾力に腰がふわふわするような感じがしてちょっと落ち着かない。
「そろそろ聞かせてもらえないか?」
落ち着き無くベッドを揺すりながら洋子は尋ねた。
「何のことかな」
「い、嫌、何かってそれは……、何で家にあたしを呼んだのかってことだよ。それこそビックリしたんだからな」
「うん、実は鷹野さんのギターを聴かせて貰った時に考えたんだ。鷹野さんに是非聴かせたい曲があるんだ」
「な、何だよ、音楽のことだったのか。びっくりしちまったぜ、ハハ……」
どうやら郁が自分の部屋に洋子を招いたのは
「で、どんな曲なんだよ? それは」
「うん、今から弾いてみるね」
郁は馴れた動作で鍵盤蓋を上げ、椅子に腰掛ける。
ほどなくして部屋にはいつも音楽室で聞くピアノの音色が響いてくる。その曲はゆったりとしたテンポで、「禁じられた遊び」にも似た、どこか懐かしいような、牧歌的なメロディーだった。幻想的なピアノの音に乗せられているが、これが元はギターの曲であろう事は容易に想像できた。
洋子はベッドに腰掛けたまま、俯いてしまった。曲を聴きながら、何故か胸を締め付けられるような気持ちに駆られてしまったのである。そんな彼女の気持ちにも構わず、流れてくる曲は淡々と進んでいった。
四分ほどで演奏は終了したが、その短い時間が洋子にとっては走馬燈のようにとても長いものに感じられた。
「……なあ郁。今の曲、何て曲なんだ?」
「これはUn dia de noviembre――十一月のある日っていう曲だよ。……で、どうだった?」
「何だろうな、上手く言葉に表せないけど……、もうとっくに過ぎちまったことを突然思い出すような感じの曲だったな。それに、……いや、何でもねえ」
洋子は何かを言いかけて、まるで自分の気持ちを誤魔化すかのように口をつぐんだ。
「で、あたしにこの曲を聞かせた理由は何なんだ?」
「うん、昨日鷹野さんのギターを聴いたとき、とても素朴な感じがして、情感がこもってたから、この曲を聴いて欲しかったんだよ。……それで、鷹野さんにこの曲を演奏して貰いたかったんだ」
郁の終わりあたりの言葉を聞いたとき、洋子は何かを悟ったかのように、無言のままベッドから立ち上がった。そして、郁の傍らに歩み寄って彼の肩にやさしく手を置いた。
「ごめん。郁の気持ちは解るけど、あたしにはできないよ……じゃ、今日はさよなら」
洋子は視線を落としたまま悲しそうに告げると、彼女の返答を耳にして呆然と立ちつくす郁の横をすり抜けていった。