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サマー・メモリーズ  作者: 遠藤賢治
第一部 鷹野洋子の場合
2/15

1.音楽室にて

 ピアノの音色が耳に心地良く響いてくる。ピンと張られたピアノ線をハンマーがやさしく叩くことによって生まれる独特の残響を伴った音は、聴く者をまるで夢の中にいるような、まどろんだ意識の世界へと誘う。

 春の陽気とは異なり、蒸し暑い、刺すような日差しが照らす七月の気候は、冷房が存在しない学校に通う生徒にとっては非常に過ごしにくい。普段は睡くなってしまうような授業すら、うだるような暑さに目を覚ますほどである。にもかかわらず、このピアノの音色を聴いていると不思議と心が安らいでいくのであった。

 いつまでも続くかのように思えた音の世界が曲の終わりと共に消え去り、放課後の音楽室にいつものような静寂が訪れる。すると、腕を枕にしてうたた寝していた鷹野洋子は、気怠そうに机から顔を上げた。

 欠伸をしながら軽く伸びをして、机に突っ伏していた間に凝り固まった身体をほぐす。

 今この空間には、自分の他はピアノを演奏している人物しかいない。また、この学校の音楽室は教室棟からも職員棟からも離れているため、授業で用のないかぎりはほとんど生徒も来ない。その環境がついつい居眠りしてしまうほど彼女をリラックスさせているのであった。

 洋子は眠そうに目をこすりながら、彼女の腰掛けている席からみて、ちょうど目の前でピアノを演奏していた少年を見つめた。

「目が覚めた? 鷹野さん、よく眠ってたね?」

 よく教室で見かけるような、がさつな感じのする男子生徒とは違い、腰掛けている姿勢もどこか行儀良さが感じられる。顔もそこらの女子にも羨ましがられるような――それこそ制服がなかったら女の子に見間違われるようなほどの可愛らしさである。声もその外見に似て、まだ声変わり前の少年のような高い可愛い声をしている。彼女が安心できるのは、一緒にいるこの少年によるところも大きい。前者のような男子生徒がこの二人きりの空間の相手であったら、こうまで安心はしない。

 聴いた者の礼儀として、この音の世界(寝てしまってはいるが)を与えてくれた少年への感謝を拍手という形で表す。

「ふわぁあ……。相変わらず眠くなるような曲だよな、それ。何て曲だっけか?」

 とはいえ、やはりうつらうつらとしていたためか、あくびを堪えるのが困難であった。そんな洋子に、少年は少しだけ困った笑顔を向けながら答えた。

「ドビュッシーの『夢』だよ。僕のお気に入りの曲の一つなんだけど……鷹野さんはいつも途中で寝ちゃうよね?」

「悪ぃ、つい睡くなっちゃうんだよ。まあ、その曲が気持ちよさそうなのもあるんだけど。何だかんだ言っても上手なんだよ、郁は。だから気持ちよすぎて、ね」

 恥ずかしそうに洋子は頬を掻く。彼女はふと思った、この男子生徒――南郁と現在のような関係になってどれだけ経つだろうかと。

 出会いのきっかけは本当に些細な事だった。

 学校の中庭をなにするでもなくブラブラと歩いていたとき、特別教室棟の方からピアノの音が聞こえたのである。

「なあ、他の曲は弾けないのか? 何ならクラシック以外で頼むよ」

「クラシック以外? ん、いいよ。多分鷹野さんにも聴いたことがあるのが思い当たるから、それをピアノ風に編曲して弾いてみるよ」

 屈託のない笑顔で洋子のリクエストを快諾すると、ピアノに向かって姿勢を整え、鍵盤の上に指を置いた。鍵盤と向かい合うときの郁は、可愛らしい、無垢な笑顔を見せる普段の彼と違い、どこか大人びた顔をする。

 一回深呼吸をした後、計十本の指がなめらかに動き出し、音を紡ぎ出していく。

 洋子の耳に三拍子のリズムに乗せて、起伏の少ない旋律が響いてくる。ピアノの独奏曲によく見られるような、ハーモニーと、起伏に富んだ軽やかさ、劇的な曲の展開は無い。同じような旋律がどこまでも、どこまでも流れていくようだった。

 それは、よく構成された、完成された曲が織りなす劇的な、非日常的世界ではなく、変わらぬこの世界の素朴さ、いつも訪れては去っていく身近な時間――日常的世界を思い起こされるような心象を洋子に与えた。

 そして、この音の世界の中で、洋子はどこか懐かしさを憶えた。

 やがて曲が終わり、音のない世界が教室に再び訪れる。

「それって、『禁じられた遊び』って曲だよな?」

 郁は頷く。

「原題はRomance D'amour、日本語に直すと『愛のロマンス』になるかな」

「しっかし、あの『禁じられた遊び』もピアノで弾いてみるとちょっと雰囲気が違うよな。……けどさ」

 洋子はおもむろに席を立った。

「あれ、鷹野さん、どこへ?」

「ちょっと、音楽準備室へな。たしかギターが置いてあったろ? まあ、待ってなって」

 準備室へと入っていった洋子は、しばらくして少し古ぼけたギターと共に教室へと帰ってきた。

「やっぱ、禁じられた遊びはギターじゃねえとな」

 弦を調律しながら、洋子は言った。

「鷹野さん、ギターが弾けるの?」

「え? ま、まあな。小さい頃に父さんから教えて貰ってたんだ」

 指の腹で弦を弾きながら、洋子は答える。

 郁に手伝って貰ってようやく調律が済むと、適当に見繕った踏み台に左足を乗せる。

 普段とは違い、高い位置に足が乗るため、スカートによって普段は隠れてしまっている太股が露わになってしまう。あまりスカートの乱れは気にしない方なのだが、なぜか郁の前では、何だかいけないものを見せてしまっている気になってしまい、さりげなくスカートの位置を直してしまう。

 太股のギターの胴を当てる部分にハンカチを敷いて、ギターを構える。

「久々だから、ちゃんと弾けるかは分かんねえけど、とりあえず聴いてくれよな。いつも聴かせて貰ってるわけだし。今日は特別さ」

 恥ずかしそうに頬を掻きながら、洋子は少年を横目で見つめた。

 洋子はスッと軽く息を吸い込んでから吐き出すと、弦を指で弾きだす。

 先程郁が演奏したのと同じ曲、同じメロディーが、人間の指によって弾かれるナイロン弦と、音を受け止める木製の共鳴胴の中から飛び出して教室の中に響いてくる。ピアノとは違う、幻想的とはほど遠い、人の生活の匂いをそのままに感じさせるような素朴な響きを持ったギターの音色は、この曲が持っている哀愁をより際だたせる効果を持っている。

 演奏が終わると、彼女のギターを聴き入っていた郁は、拍手を送った。

「な、何だよ拍手なんかして。別にそんなに凄くねえよ。は、恥ずかしいじゃねえかよ」

 少年から送られた拍手に対して、自分ではさほど上手に演奏したとは思っていない洋子は戸惑いを隠せないでいる。

「ったく、な、何で拍手なんかすんだよ。正直下手ッぴだったじゃねえか」

 郁は首を横に振る。

「ううん、ギターを弾いている時の鷹野さん、とても楽しそうだったよ。それが僕には良いと思えたんだ」

 洋子は気恥ずかしさのあまり息を飲み込んだまま吐き出すことが出来なくなってしまった。顔を真っ赤にしたその様は、狼を思わせるような野性味の溢れる長めのショートヘアと、キツさのある目を完全に壊してしまっている。普段の人を寄せ付けなさそうなギスギスとした尖った雰囲気は影も形もない。

 素で言っているのか、それとも狙って言っているのか、洋子には既に分からなくなっていた。ただ、今の彼女の心に浮かぶのは、目の前の線の細い少年の屈託のない笑顔が「とても可愛い」ということだけであった。そう思うだけでもう、郁の顔を正視できなくなってしまう。

「ちぇっ、ずるいぜ、何か」

 柄にもなく拗ねたような態度を取ってしまう洋子に、郁は特に気にする様子も見せずに語りかける。

「そうだ、鷹野さん。また明日も音楽室に来てくれるよね?」

「……お、おう。良いけど、何だよ突然に」

 不思議に思ってつい質問し返してしまうが、郁はその質問に答えることなく、手際よくピアノを手入れして、元の状態へと戻してしまう。

 郁が質問に答える気がないことを察した洋子も、準備室にギターを返しに行った。


        *


 帰宅した洋子は、押入の奥にしまいこまれてホコリを被ったギターケースを引っ張り出してみた。随分と放ったらかしにされた楽器は、どこかに置き忘れてしまった、大切な何かのようにも見えた。

 少しの間、汚れてしまったギターを思い詰めるようにして見つめていた洋子であったが、万年床と化している敷きっぱなしの布団の上に腰を下ろして、ギターを丁寧に置いた。その後、楽器を丁寧に拭き、ホコリを除くと、古くなった弦を取り外して、帰りに楽器店で購入しておいた新しい弦に張り替える。

 弦を張り替えている最中、薄い壁越しに隣の部屋から男女の騒がしい声が聞こえてくる。

「また兄妹喧嘩かよ……、よく飽きないな」

 声の主は隣の部屋に住んでいる兄妹の声である。家庭の事情で、洋子は高校入学と同時にこのアパートに越してきたのだが、ここの住人はどうも賑やかに過ぎる嫌いがある。隣部屋の兄妹の妹の方は妙に彼女に懐いているのだが、一人っ子の洋子には、それがほんの少しだけ鬱陶しかったりする。

 隣の騒ぎをよそに、洋子は古ぼけたギターを思い詰めるような目で見つめた。その表情はどこか影がある。何か、このギターを見ることによって、懐かしさと寂しさの両方を感じているようにも見える。

 しばらく物思いにふけってから、洋子は張り替えた新しい弦を指で弾いてその音と感触を確かめるように、音をつむいだ。

 柔らかな、温かみのある音が六畳間に響き渡る。

「ああ、やっぱりこの音だ……」

 もう一度、弦を親指の腹で弾く。

 その残響を確かめるようにして、再び洋子は音楽室で郁に聴かせた『愛のロマンス』を奏でる。

 けれども演奏をしながら、彼女は自分が涙で目をにじませていることに気がついた。それを否定しようと目蓋を閉じるが、却って溢れかえった涙が両頬を伝っていき、逆に泣いていることを彼女に解らせてしまう。

 涙を目元から滲ませながらも、洋子は『愛のロマンス』を弾き続けていた。

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