4.二つの出来事
「ねえ赤堀、ちょっと良い?」
とある日の昼休み。特にすることもなく廊下の窓から学校の外を眺めている雄介に、桂子と明里、そして茜が近づいてくる。
またいつもの事だろうか、と面倒くさそうに彼女たちの方を向いた雄介であったが、桂子や明里の表情が暗いことに気がついた。普段みたいに突っかかってくるような元気の良さが今の二人からは見えてこない。どこか思い詰めたような、話しづらいことを抱え込んでいるような雰囲気なのだ。いつも遠間から冷ややかに眺めている茜も、思い詰めたような目で雄介を見ている。
「ここじゃ、ちょっと話しにくいから、付いてきてくれない?」
*
「し、下着を盗まれた?」
素っ頓狂な裏返った声が校舎裏で聞こえてくる。声の主はもちろん雄介である。
「しー! 声が大きいわよ。三時間目、体育があったでしょ。うちら水泳の授業受けてたんだけど……その、授業受けてた子が何人か、……その、ブラだけ無くなってたのよ」
恥ずかしそうに耳まで真っ赤にしながら、桂子は昼前に起こった事件の一部始終を雄介に説明した。その口ぶりからすると彼女も、明里も、今回の事件で被害者になったのであろう。
校舎の壁にもたれかかっている茜を一瞥する。桂子達はずいぶんと深刻そうな顔をしているというのに、彼女の方は呑気に小さく欠伸をしている。多分この年代の女子独特の、何をするにもいつも一緒に、のような感覚で付き合わされているのだろう。
雄介と同じ体育館で授業を受けていたのだから、茜は付き添い役というわけだ。
「ブラジャーだけ、ねぇ……」
――ということは、今はノーブラなのか? と、不謹慎な考えが一瞬だけ頭をよぎる。
「その顔……、またエロいこと想像したでしょ! ちゃ、ちゃんと部活用のスポブラをしてるわよ、バカ」
女の勘か、はたまた雄介の顔に書いてあったのか。桂子が突っこみをいれてくる。
しかし、そんな事件を赤裸々に語られても、男である雄介にはどう反応して良いのかまったく分からない。慰めるにしても、大丈夫だと励ますにしても、相当微妙な問題である。
「いや、事件は分かったからさ……、その、それと俺がこうやって校舎裏でお前らといるの、何の関係があるんだよ?」
「それが、大変なことになってて……、最初は外部からの犯行じゃないか、って先生達も思ってたんだけど……、盗まれた下着が少ないから内部の犯行かもしれないって……」
桂子は言葉を続けようとしたが、その先が上手く出てこない。何か言ってしまったら、取り返しの付かない状態になってしまうかもしれない。そんな不安が彼女の顔色からも伺える。
「もう良いよ、桂子。赤堀、あんたは三限目はずっと体育館で授業を受けてたんだよね?」
いつもは見ているだけの明里が、桂子に代わって雄介に尋ねた。
「答えて……。ずっといたんだよね? 体育館に」
そこまで聴いたとき、雄介は大体の事情を察した。
「分かったよ、もう話さなくて良い……。つまり俺が疑われてる、ってことなんだろ? 正直に言うよ。俺は一回だけトイレに行ってたよ。それだけだ」
明里の質問に対して手短に返答をして、じっと桂子と明里を交互に見る。
二人とも決して雄介と目を合わせようとはせずに、うつむき加減で彼の前に立ちつくしている。ただ一人だけ、一緒の場所にいるはずの茜だけが横目で彼を見ているだけだった。
雄介は軽く深呼吸をすると、黙ったまま、三人の横をすり抜けるように歩き出した。
「ねえ、どこに行くつもり?」
いつもの、突っかかってくるような威勢の良い声ではない、しおらしい声で、桂子はその場からいなくなろうとしている雄介に話しかける。
「心配すんなって、指導室だよ。疑いは晴らさなきゃな」
一言だけ返事をすると、雄介は駆けだしていった。
*
放課後。図書委員の仕事のため、受付の席に座っている雄介と沙苗であったが、二人の間にはどこか気まずい雰囲気が漂っていた。
理由は一つだけ、つまり昼休みの一件である。
三限目にプール更衣室で発生した下着盗難事件について、雄介は疑いをかけられたわけである。それについて釈明に行ったのだが、状況は彼にはなはだ不利なものであった。
一つは、彼が授業の半ば、トイレに行くために一人だけ体育館を長い時間離れていたことである。雄介は実際にトイレに入っていたのだが、それを証明する人間はいない。
第二は、被害にあった女子生徒のことであり、なぜか下着を盗まれた生徒五人は、桂子、明里をはじめ皆共通して一年生の時に雄介と同じクラスだった。そんなの偶然じゃないか、と抗議することも出来ないわけではないが、自分が下着を盗んだ、という疑いを完全に否定することは難しい。
結局の所、自分の持ち物を全部持っていき、物的証拠が何もないことをはっきりさせて、何とか解放してもらったのである。指導部の教員達の方も、状況証拠だけで内部の犯行と決め付けることには躊躇があったようで、雄介を教室に帰すことにしてくれた。
問題はその後だった。
ちょうど指導室から退室したところで、雄介は沙苗とばったりと会ってしまったのだ。
とはいえ、指導室の前でばったりと会うなんてことはそうそう無いだろうから、雄介のことが心配になって来たと見るのが正しいのだろう。箝口令が敷かれていると教師達は言っていたが、何の効果もなかったようだ。多分、当事者がうっかり喋ってしまったり、断片的な情報だけが勝手に拡散したりしたのだろう。なんともアテにならない措置である。
沙苗が気まずそうに雄介を見たり、目をそらしたりを繰り返している。
「沙苗先輩……、あの」
「! ご、ごめんなさい!」
と、雄介が「心配しないでほしい」と言い終わる前に、拒絶されるようにその場から立ち去られてしまった。
そして、現在――図書室に至るわけである。
「先輩、昼休みのことなんですけど……」
雄介が小声で話しかけるも、沙苗は無視を決め込んで、受け答えをしようとしない。
そのまま、雄介は沙苗に声をかけることが出来ずに、時間の流れるままに任せるしかなかったのであった。
閉館時間となって生徒が全員退室した中、沙苗と雄介は図書の整頓と清掃を黙々と続けている。あれから雄介が何度話しかけようとしても、沙苗はなかなか取り合ってくれなかった。
そんな彼女の態度が雄介をより一層不安にさせた。今まで自分を可愛がってくれた先輩が昼休みのたった一つの騒動だけで離れていってしまうことが怖いのであった。しかも、自分にかけられた疑いは、女性ならば嫌悪感を抱く類のものである。
軽蔑されたのだろうか。最悪の結論が雄介の頭をよぎる。沙苗は上級生であり、今年から知り合った間柄である。付き合いの長い桂子や茜たちとはそこが決定的に違う。彼女たちは雄介に突っかかってくるが、一方では彼のことをよく知っている。校舎裏で彼女たちが見せた態度がそれを如実に示しているのである。
雄介は、踏み台に乗って、高い場所の棚を整理している沙苗をじっと見る。
――もう一度、話を聞いてもらおう。
こんな形で沙苗に嫌われるのは嫌だ。その気持ちが彼が抱いている不安を少しの間だけ打ち消した。
ゆっくりと、沙苗が作業している場所に歩み寄っていく。
「あの、先輩!」
沙苗の作業する手がぴたりと止まった。振り返り、数秒ほど雄介を見下ろすように見つめるが、返事をすることなく作業に戻ろうとする。
「お願いですから、俺の話くらいは聞いてください」
作業しようとする手が再び止められる。相変わらず顔を背けたままではあるが、雄介はその態度をOKのサインと受け取った。
「先輩とは昼休みの時、指導室を出たところで会いましたよね? あれは、俺のことを心配して来てくれたんですか?」
沙苗は答えない。代わりに、本を入れ替えようと伸ばした右手が微かに震え、本を抱える左腕には力が込められている。
それがまるで何かに対して必死になって抵抗しているように雄介には見えた。
「先輩、俺……」
「赤堀君、やめて、それ以上は言わないで……」
沙苗の口から溢れた言葉に、雄介は愕然となった。拒絶の言葉なのか、それとも自分を信じているが故の言葉なのか、彼には分からなかった。
「先輩、それでも俺は聞きたいんです! あの時、先輩は……」
「やめてって言っているでしょ!」
耐えかねた沙苗の怒声を雄介は浴びた。しかしその直後に沙苗を乗せた踏み台がぐらつき、彼女は大きくバランスを崩した。
沙苗の体が台から離れて、全身ごと床に向かって倒れ込むように落下していく。
雄介の体は無意識に沙苗を庇うように動いていた。
気がつくと、正面で向かい合うように、沙苗の体が飛び込んできた。雄介はそれを逃さぬようにしっかりと抱き留める。
しかしタイミングが良くなかったのか、彼女の体重が掛かったときにバランスを崩し、彼も一緒に倒れてしまったのであった。
「いててて……」
背中を強かに打ち、鈍い痛みが体に走ったが、不思議と嫌な気持ちはなかった。むしろしっかりと女性を怪我から守った。そんな誇りを秘かに抱いていた。
「ごめん、赤堀君。大丈夫?」
「へへ、これくらい平気ですよ、平……!?」
しかし、そのような騎士気取りの気分も、冷静に状況を判断できるようになれば一瞬でかき消えてしまう。少しだけ冷静になった彼を驚かせたのは、二人の衝撃的な体位であった。
雄介と沙苗、二人は今、お互いに正面から抱き合うような形で床に倒れているのだ。
そして雄介の顔は、沙苗のその豊かな胸の谷間に押しつぶされるようにして埋まっているのだった。
同学年の女子ではあり得ない大きさのその部分は、少年の顔を包み込むように、その形に合わせて柔らかく潰れて、同時に程よい弾力で押し返してくる。相反する二つの力の作用が作り出す、吸い込まれるような筆舌しがたい独特の感触が顔全体に伝わっていく。
雄介の心臓が早鐘を打つように鼓動を打つ。今まで自分を悶々とさせていた部分が今、制服越しに自分を包んでいる。まったく思いもよらない形で経験した出来事に、彼の思考は停止してしまった。まだ倒れてから数秒ほどしか経っていないにもかかわらず、雄介にはそのほんの数秒がとても長い時間のように感じられるのであった。
「ご、ごめん! 大丈夫だった?」
雄介にのし掛かるようにして倒れている沙苗は、慌てて身体を起こして雄介を覗き込む。彼女から見た雄介は、夢から覚めたばかりのような虚ろな目をしている。頭を強く打ったかと少し心配もしたが、後頭部をさすった限りでは目立ったコブもなく無事なようだった。
「しっかりして、赤堀君」
引き起こすと、可愛い音を立てるような強さで少年の頬を平手で叩く。沙苗の平手打ちに効果があったのか、雄介の眼には徐々に光が戻ってきた。
「あ……、そ、その、すみませんでした……」
雄介は介抱をしてくれたことに対して礼を言いながらも、息づかいが聞こえるほど近くにいる沙苗を正視することが出来ない。
事故とはいえ、かなり過激な肉体的接触をしてしまったことも、理由の一つではあった。
しかし、もっと彼の中で大きな割合を占めていたのは、別の所にあった。
「ねえ赤堀君、明日の夕方、時間空いてないかしら?」
「え? 明日は当番でもありませんし、特に用事もありませんけど」
「そう、じゃあ明日、わたしに付き合ってくれないかしら?」
「つ、付き合うって」
――デートですか?
そう言いかけた雄介の唇は、沙苗の人差し指に押さえつけられる。
「詳しいことはその日に話したいから。……で、付き合ってくれるの?」
瞬き一つもせずに見つめてくる沙苗に対し、少年が出来る返事は一つしかなかった。
「……はい、大丈夫です」




