6 祈りをささげ心を整理するか
マリエと別れ、ラディムは宮殿へと戻った。
まだ昼前、ザハリアーシュは自室にいるはずだった。
母の治療にマリエが当たっていることを、ザハリアーシュが口止めしていた件について、ラディムは問いただそうと思っていた。自分の母の病気の問題だ。蚊帳の外に置かれるのは、正直、面白くなかった。
ザハリアーシュの自室の前に行くと、ちょうど扉が開き、ザハリアーシュが出てきた。
「これはこれは、殿下。今日はどうされましたかな」
ラディムの突然の訪問に、ザハリアーシュは首をひねっている。
「いや、ちょっとザハリアーシュに聞きたいことがあってな。もしかして、どこかに出るところだったか?」
「いえ、構いません。たいした用事ではありませんからな。して、私に何の御用でしょうか」
ザハリアーシュは「どうぞ」、とラディムを部屋の中へと招き入れ、椅子を勧めた。ラディムはうなずいて、椅子に座り込んだ。ザハリアーシュも対面に座る。
「母上にマリエを紹介したのはお前だと聞いた。まぁ、紹介自体はいいんだ」
ラディムは一つ咳ばらいをする。
「なぜ、私に黙っていた?」
ぎろりと鋭い視線をザハリアーシュに送った。
ラディムの視線の圧力に、しかし、ザハリアーシュは動じなかった。
「なぁに、大した理由ではござらん。殿下は準成人前の大事な時期でしたからな。余計な気苦労をかけさせたくなかったのです」
ザハリアーシュはひょうひょうと答える。
「大事な母上の話だ。気苦労だなんて、理由にはならないぞ」
ザハリアーシュの軽い態度に少しカチンときたラディムは、語気を強めた。
「いえ、殿下の性格を考えますと、お話しすれば絶対に、ご自身もユリナ様の治療に参加したいとおっしゃるはずです」
「別に、私が参加してもよいではないか」
自分の母親の病気の治療に、なぜ息子のラディムが参加してはいけないのか。ザハリアーシュの言い分には納得がいかなかった。
「ですから、殿下には準成人の儀に備えた準備に、専念してもらいたかったのです。わずかでも余計なことを考えてほしくなかった」
「母上の件が余計なこと、だと?」
聞き捨てならなかった。いくらザハリアーシュといえども、言っていいことと悪いことがあるだろう。母の病気の件を余計なことだとは、ずいぶんな言い草ではないか。
「そういう話ではないのです。殿下は絶対に、マリエの魔術に対抗しようとするはずです。負けず嫌いですからね。そうなると、まぁ、魔術ばかりにかかりきりになり、準成人の儀の準備に支障が出ると、このように愚考したまでですな」
ラディムが声を低くして不満を表すと、ザハリアーシュは少し困ったようなそぶりを見せ、弁解した。
「ぐぐっ、そういわれると弱いな。ザハリアーシュの言うとおりだから、反論できん」
図星を刺された、とラディムは思った。
確かに、マリエの高度な闇魔術を見てしまえば、ラディムは黙っていられなかっただろう。準成人の儀そっちのけで研究に没頭しかねなかった。まさに、ザハリアーシュの指摘のとおりだ。
「何年、殿下の教育係を務めているとお思いで」
「ホッホッホッ」とザハリアーシュは笑い飛ばした。
……ラディムは少し、悔しかった。
「……それもそうだな。うん、わかった。その点については不問にする」
これ以上ザハリアーシュを追及したところで、はぐらかされて終わりそうだった。ラディムは早々に白旗を上げた。
「ご理解いただき、祝着至極にございますな」
ザハリアーシュは深々と一礼した。
「話は変わるが、実は、一つ相談事があってな」
ラディムは頭に響く謎の声について、ザハリアーシュの見解を聞きたかった。
ザハリアーシュは「相談、ですか?」と首をかしげた。
「マリエの薬のおかげで今は治まっているのだが、どうも数日前から得体のしれない幻聴が聞こえている」
「幻聴、ですか……。たんにお疲れだっただけでは?」
やはりザハリアーシュも母と同じ結論を下す。
「母上にもそのように言われたが、どうにもそれだけではないように思うんだよな」
「何か気になる点でも?」
ザハリアーシュは怪訝そうな表情を浮かべている。
「薬のせいで今はぼんやりとしか思い出せないのだが、女の声で、精霊を肯定する言葉を私にささやくんだ」
脳裏におぼろげに浮かび上がる、精霊を善ととらえる女の様子。不快さでわずかに吐き気を催す。
精霊は世界を滅ぼしうる絶対悪で、否定されるべきものだ。肯定はありえない。ラディムの信念を否定する女の声に、ラディムは怒りがこみ上げる。
「それはまた、奇怪ですな……」
ザハリアーシュも困惑を隠しきれない様子だった。
「お前も知ってのとおり、私はギーゼブレヒトの人間として恥ずることのないように、精霊についてはとにかく否定をしてきた。そんな私が、たとえ夢といえども、そのような馬鹿げた考えを起こすだろうか」
無意識であったとしても、精霊を肯定するような考えを持ちたくはなかった。持ってしまえばそれは、全帝国臣民に対する裏切り行為だ。今までコツコツと積み重ねてきたラディムの努力のすべてが、崩れ去る。
「幻聴であるならば、結局は、私の脳が生み出しているものに変わりはないはず。であるならば、私の心の奥底に、そのような願望があったということだよな? 私はひそかに、精霊に憧憬を抱いていたと、そういうことなのか?」
ラディムは顔をしかめた。どうしても幻聴だと思いたくはなかった。
「殿下、考えすぎですぞ!」
思考の底なし沼に引きずりこまれそうになったラディムを、ザハリアーシュの一喝が止めた。
「しかし、私はわからない。どうしたらいい、ザハリアーシュ」
考えすぎといわれても、悪い考えが次から次へと湧き出ては、ラディムの感情をこれでもかこれでもかと揺さぶってくる。ザハリアーシュなら、何か妙案があるかとラディムは思ったのだが……。
「……でしたら、教会で祈りをささげてみてはいかがかな?」
ぽつりとザハリアーシュはつぶやいた。
「教会? 教会で祈って、どうにかなる問題なのか?」
誰かに助言を求めるでもなし、ただ祈るだけ。いったい何の解決になるのだろうか。
「静かな場所で落ち着いて、ご自身の心のうちを覗くのです。教会で、神の前にひざまずくことほど、その目的にかなう行為はありませんぞ!」
ザハリアーシュは確信を持っているのか、はっきりと言い切った。
「お前がそこまで言うのなら、試してみるか」
試すだけならタダだ。ほかに案もなし、やるだけやってみよう、とラディムは決めた。
「では、私から教会に一報を入れておきますので、夕方にでもお尋ねくだされ」
ザハリアーシュはすぐさま教会に連絡を入れるため、部屋を後にした。ラディムも続いて退室し、いったん自室へと戻った。
夕方、ザハリアーシュに言われたとおり、ラディムは世界再生教の教会へと足を運んだ。
幸か不幸か、この時間にマリエはいなかった。
マリエと会って話したい気持ちもあるが、今は神への祈りに集中したかった。マリエ不在は、ある意味好都合ともいえた。
「ザハリアーシュ様からお話は伺っております、どうぞこちらです、殿下」
中年の男性の司祭が声をかけてきた。いつもの女性司祭ではなかった。
司祭に導かれ、ラディムは礼拝堂の奥、ご神体の飾られた祭壇の前に来た。
「私は裏に控えておりますので、終わりましたらお声がけください」
司祭は言い残すと、その場を去っていった。
ラディムは耳を澄ませ、司祭が礼拝堂から退出する様子を扉の開閉音で確認した。そして、ゆっくりと祭壇の前でひざまずいた。
(主よ、私はどうすればよいのでしょうか……)
両手を胸の前で組み、静かに目を閉じて祈った。
(今はおぼろげにしか思い出せません。ですが、あの夢に出てきた女が、何か重要な事実を言っていたようにも思えるのです)
精霊の存在は決して悪ではない、むしろ善である、とあの女は言っていた気がする。
だが、精霊とは、大地から生命エネルギーを吸収し、世界を枯らす存在のはずだ。この事実の、いったいどこに善たる要素があるのか。
それとも、世界再生教の教義自体が誤っているのだろうか。
……いや、それは馬鹿げた考えだ。数百年間延々と続いてきた伝統ある宗教。その世界再生教が、まさかでたらめを広めようとしているはずがない。
(精霊とは、本当に邪悪なものなのですか? 私が今まで信じてきたことは、間違いなく真実なのでしょうか?)
ラディムは神に問う。精霊は悪なのか。ラディムたち皇族を含めた帝国国民の信仰は、誤っているのか。
すると、ラディムは不意に、ふわりと何か暖かなものに包まれたような感覚を覚えた。すべての悩みが霧散するのではないかと思うほどの心地よさが、ラディムの全身を駆け巡る。
あまりの神秘さに、ラディムは恍惚として何もかも考えられなくなった。
――どれほどの間、ラディムは酩酊していたのだろうか。気が付いたら、すっかり礼拝堂の中は闇に包まれていた。すでに日が暮れ、ステンドグラスから入り込む光が、完全に途絶えていた。
今、ラディムは礼拝堂の闇の中にいる。だが、心の中は光で満ちていた。今までの悩みは何だったのだろうかと思うほどの晴れやかさだった。
(私は愚かな迷いを捨て、帝国臣民のために命を懸けなければいけない。そういうことですね、主よ)
進むべき道がはっきりと示されたと思った。もう、流されるようなことはないと。
「殿下、少しはお心が軽くなりましたか?」
背後で扉が開く音がし、コツコツと足音が近づいてきた。
ラディムが振り返ると、ランタンを持った先ほどの司祭が立っていた。
「ああ、私がなさねばならぬことを改めて思い返し、原点に戻れた気がする。主が私に導きを与えてくれた」
ラディムは晴れ晴れとした気持ちで笑った。
司祭は、「それはよかったです」と頷いた。
「では最後に僭越ながら私から一言、殿下にお伝えいたしましょう」
司祭は少しもったいぶったように咳払いをした。
「この世には、やさしい顔をして近づき、何食わぬ顔でだまそうとする人間がいます。得てしてそういった人物は、相手に自分がさも味方である、自分は無害である、と信じ込ませることがうまい」
確かに、ベルナルドにもザハリアーシュにも似たようなことを言われた記憶がある。権力者の元には、取り入るためにやたらと人懐っこそうに接近してくる邪な人間がいる、と。
「ですから、殿下にはよく考えていただきたいのです。誰が本当に殿下のために行動をしているのかを。聡明な殿下なら、お分かりになるはずです……」
鋭くラディムを見据える司祭の目は、鋭かった。
「わかった……。お前の言葉、しかと心に刻んでおく」
ラディムは大きくうなずいた。
(司教の言葉で、やはり私の心は固まった。本当に私のためを思い行動をしてくれる人物……。陛下やザハリアーシュ、エリシュカ、そして、マリエ……)
考えるまでもなかった。実の子ではないのに、跡取りとして厳しいながらも愛情をもって接してくれるベルナルド。幼いころから教育係として様々なことを教えてくれたザハリアーシュ。ラディムのいたずらに嫌な顔をせず付き合い、心の支えになってくれたエリシュカ。魔術の良きライバルとして、常に新しい刺激を与えてくれるマリエ。
皆、ラディムの大切な者たちだ。そして、彼らもラディムを愛してくれる。
(皆のためにも、私は精霊教を倒さねばならない!)
ラディムは決意を新たにし、こぶしを強く握りしめた。
司教は静かにラディムの顔を見つめ、満足そうに口角を上げた。