3 領都を脱出するべきでしょうか
三か月の試験勉強期間が終わった。
翌日に試験を控え、アリツェは最後の仕上げをしていた。
『霊素』や『精霊術』に関しては完ぺきだった。だが、布教をするために覚えなければならない精霊教の教義や世界の一般常識に関する分野については、悠太の知識では対処できなかった。アリツェ自身の力で、記憶しなければならない。
しかし、高い知力と『読解』の技能才能が光るアリツェだ。単なる暗記など、お手の物だった。
「オーッホッホッホ! 簡単ですわ、さすが、わたくしですわ!」
今は夜、悠太の人格が表に出ている時間だ。
悠太はできるだけアリツェの言葉遣いをトレースしようとしていた。だが、何かがおかしい。
(あの、悠太様……。その高笑いは、いったい何ですの?)
「この笑い方のことですの? ウフフッ、せっかくお嬢言葉を使うんですもの、もちろん、『悪役令嬢』を参考にさせていただいておりますわ」
悠太は意味不明なことを口走った。
悠太はこうやって、たまに訳の分からないことを話す。たいてい、このような理解不能な単語は、悠太の所有する知識のなかでも特に、アリツェが自分のものにできなかった深い領域の中にある。
アリツェにとっては、頭をひねり無理に思い出そうとしなければ、決して引っ張り出すことのできない領域にある知識だった。
悠太のあらゆる知識を、アリツェは当然に知っているはず。これが、悠太の認識だった。だから、悠太は遠慮なしに自分の知っている単語を使ってくる。
最近の、アリツェの悩みの種になっていた。
(あくやくれいじょう……? とは何ですの)
こういった場合、時間をかけて悠太の知識の深層から無理やり理解を引き出そうとするよりも、悠太本人に直接聞くほうが早い。
「オホホッ、アリツェ様、ご存じありませんの? 巷で人気の、『悪役令嬢』を」
手に持つ扇子を――いつの間にか持っていた!――広げて口元に当てながら、得意げな顔を浮かべる悠太――顔はアリツェだが。
(人気、なのですか? わたくし、まったく知りませんでしたわ……)
「オーッホッホッホ! お気になさる必要はありませんわ。巷とはいっても、この世界ではなく、横見悠太の世界での、巷ですわ」
自身が非常識だったのかと不安に思ったアリツェだが、どうやら違うとわかり安堵する。
それにしても、横見悠太の世界では、随分とおかしなしゃべり方が流行っているものだと、アリツェは思う。
「さて、明日の準備も、これぐらいにしておきますわ。わたくしの実力なら、試験など物ともいたしませんもの。ねぇ、アリツェ様」
実際に試験を受けるのは昼間担当のアリツェだ。自身の人格が受けるわけではないためか、悠太は気楽なものだった。
(なんだか他人事のようですわね。もし、わたくしが緊張で何かを失念しているようでしたら、きちんと助言をくださいね。あなたはわたくし、わたくしはあなた、なのですから)
「はいはい、もちろんですよー。っとと、まずいまずい。……ええ、もちろんですわよ」
地の口調が出て、悠太は慌てて訂正する。
悠太の軽い対応に、頼りになるのだかならないのだかよくわからない、とアリツェは頭が痛かった。
翌日、アリツェの心配も杞憂に終わり、試験は無事に終わった。『霊素学』、『精霊術学』はもちろんのこと、悠太の知識にないために新規に暗記を要した『精霊教教義』、『フェイシア王国史』、『中央大陸地理』も、特に詰まるような部分もなく、拍子抜けするほどに順調だった。
その場で合格が言い渡され、アリツェは晴れて見習い伝道師となった。
(だから、試験なんて物ともしないって昨晩言ったじゃないか。楽勝すぎてあくびが出そうだったな)
悠太の言うとおりだった。
朝から緊張しっぱなしでいた自身が、アリツェは少し恥ずかしかった。
「これで、わたくしも見習い伝道師ですわ。指導を受けることになる伝道師様は、いったいどのようなかたになるのでしょうか。楽しみですわ」
教会の神官には、指導担当の伝道師との顔合わせを一週間後に行うと言われた。それまでは旅装を整えるなどして待機、という話だった。
「明日からはいろいろ買い物を済ませて、旅支度をしなければなりませんわね」
今日はさすがに気疲れをしたのか、アリツェに買い物の気力は残っていなかった。まっすぐに孤児院へと戻ることにした。
(おい、あそこの人込み、何だろう?)
中央噴水広場の近くを通りがかると、悠太が何かに気づいた。悠太に言われ、アリツェは足を止める。
目を凝らしてみると、どうやら何かお触れが領館から出されているようだ。文字の書かれた立て看板と、それを護る兵士が立っていた。周りにはお触れを確認に来た群衆が、幾重にも取り囲んでいる。
「わたくしたちも、見に行きますわよ」
人ごみに近づこうとアリツェが一歩踏み出すと、慌てたように悠太が止めた。
(おい、ちょっと待て。不用意に近づくな。領館からのお触れだぞ。もしお前の指名手配なり捜索願だったら、どうするつもりだ)
言われてはたと立ち止まった。
たしかに、領館からのお触れということは、領政だけではなく、子爵家の私的な案件の可能性も、なくはない。そして、子爵家の案件であるならば、アリツェに関する物だとしても、おかしくはなかった。
どうにもアリツェはこのあたりの警戒心が薄かった。まだ心のどこかに、拭い去ったはずの両親への想いが、信用したいという願望が、残っているのだろうか。アリツェは自分でもよくわからなかった。
「ですが、わたくしの指名手配だとすれば、なおさら確認しないわけにはいきませんわよね……」
(まぁ、そうだよなぁ。手配されているのを知らずにホイホイ街中をうろついていたら、どうぞ捕まえてくださいと言っているようなもんだ。手配されているならされているで、きちんと対策を取るべきだしな)
もうすぐ見習い伝道師として街を離れるつもりとはいえ、実際に街の外に出るまでは用心するに越したことはない。
旅装の準備のための買い物をしている際に、いきなり、「あ、手配書の人だ!」なんて叫ばれでもしたら、もう逃げきれない。
「手配書でなかったらなかったで、それは安心できる材料になりますわね」
しかし、確認しに行くにあたり問題が一つあった。
「大した変装もなく、お触れに近づくのは危ないですわよね」
(だなぁ……。どうするか)
お触れの周りは多くの人でごった返している。アリツェ自身が今近づくのは、どう考えても得策とは言えなかった。
いったん孤児院に戻り、エマなり院長なりに内容を確認してもらうべきか。
『それなら、ペスにお任せだワンッ』
と、脇でお座りをしていたペスが立ち上がり、しっぽを振った。
『ボクが見に行くので、ご主人はボクの目をとおして内容を確認してほしいワンッ』
そういうと、ペスはスタスタとお触れの元へと歩いて行った。
黙っていればただの子犬、周りは誰もペスを気にしていない様子だった。
(どうやら指名手配の類ではないようだな。だが、これは……)
お触れの内容を見て、アリツェも悠太も絶句した。
『
プリンツ子爵領 領令 第百二十条
領内での、『精霊教』の一切の布教を禁ずる。
領内での、『精霊教』の教会、修道院、孤児院等関連施設の建設の一切を禁ずる。
領内での、『精霊教』の既存の施設の破棄を命ずる。
領内での、『精霊教』の信仰の一切を禁ずる。
現在『精霊教』を信仰するものは、『世界再生教』への改宗を命ずる。
領内では、『世界再生教』のみを、唯一の宗教と認定する。
令を犯した者は、奴隷身分への降格もしくは死罪とする。
領令の施行は、このお触れが出てから一月後とする。
以上
フェイシア王国 子爵 マルティン・プリンツ
』
精霊教の禁教化だった。
「なんで、ですの……?」
唐突な禁教化だった。アリツェの知る限り、前触れはなかったはずだ。今日の伝道師試験の際も、教会関係者は何も言っていなかった。
(精霊教の上層部も知らないうちに、急に決定されたのか? 精霊教関係者が知っていたのなら、もっと教会内が騒がしくなっていたはずだ)
このままでは、精霊教に所属するアリツェはこの街に留まれない。もともと旅に出るつもりとはいえ、いずれは帰ってくる予定だった。だが、これではもう二度と、グリューンの街に足を踏み入れることはできないかもしれない。かといって今更、おせわになった精霊教を捨てるという選択肢も、アリツェには考えられなかった。
指名手配云々どころではない、もっと深刻な状況に陥っていた。
「いったいお父様たちに何があったのかしら。確かに、お二人とも『世界再生教』に傾倒しておりましたわ。でも、他の宗教を弾圧するほどに、妄信はしていなかったはずです。この二年の間に、きっと何かあったのですわ」
(それにしたって、性急な処置だ。なんだかキナ臭いな)
悠太の言葉に、アリツェもうなずいた。
「こうしているわけにもいきませんわ。孤児院も精霊教関連施設。このままでは、みんなが路頭に迷ってしまいます。急いで院長先生と、今後を相談しませんと」
アリツェはペスに戻ってくるよう伝え、すぐさま孤児院へと向かった。
孤児院へ戻ったアリツェは、すぐさま院長とエマを呼び、事の次第を説明した。
「まったく、青天の霹靂だよ。どうなっちまうんだ、この子爵領は」
エマが憤慨している。
「正直、困りましたね。教会側からもまだ何も指示が来ていません。おそらくは、教会内部でもかなりもめているのではないか、と」
院長も頭を抱えていた。
廊下から、幾人かの子供が不安げな表情を浮かべてのぞき込んでいる。
「我々大人はともかく、子供たちは改宗さえすれば命は助かるでしょう。ただ、孤児院がなくなってしまえば、彼らはスラムで生活をしていかざるを得ません」
ちらりと院長は、廊下の子供たちに目をくれた。
子供たちの大半は、まだまだ幼すぎて一人で自分の食い扶持を手に入れることはできないだろう。であるならば、このままでは彼らはスラムの悪党たちにいいようにこき使われ、ぼろ布のように捨て置かれるだけの未来が待っている。そんな未来は、アリツェには許せなかった。
「ここ以外に、孤児院はないのですか?」
院長は首を左右に振った。無いらしい。
無かったからこそ、『精霊教』が初めて孤児院や修道院を作ることで、民衆の心をつかんでいけた、とは院長の談だ。
「わたくしたちだけでどうこうできる次元の話では、ありませんわね。院長先生、明日、わたくしとともに教会まで行きましょう。今後の身の振り方を、考えなければいけませんわ」
今日の明日だ、教会内部も、もめにもめているかもしれない。だが、内部で舌戦を繰り広げている暇はない。神官たちの尻を叩いてでも、今後の方針を早急に決めなければならなかった。猶予は、ほとんどない。
「そうですね……。頑張って、子供たちの未来を閉ざさないようにしなければ。今、子供たちの命運は、この私の双肩にかかっているんですよね」
自らの両肩を強く握りしめ、院長は力強くうなずいた。
「大丈夫ですわ。『精霊王』様の加護が、きっと、わたくしたちを明るい未来へと導いてくださいますわ」
覚えたての精霊教の教義を思い出し、アリツェは伝道師らしい励ましの言葉を院長にかけた。
中央大陸歴八一二年九月、プリンツ子爵領は激動の時を迎えようとしていた――。