1-1 わたくし結婚いたしますわ~前編~
エウロペ山中での大司教追討作戦から、五か月ほどが経過した。
すでに冬は去り、このグリューンにも春の足音が聞こえ始めていた。雪に包まれた冬景色から一変、あちこちで新緑が芽吹き、街行く人々の表情も明るい。冬用の分厚い黒の外套は脱ぎ捨てられ、今はだれもかれもが、明るい色を基調とした春物の外套に着替えていた。
アリツェは大きく息を吸い込み、甘い春の香りを存分に肺へと取り込んだ。代わりに、冬の間に蓄積された鬱屈した気持ちを、一気に吐き出す。この日は一面雲もなく、きれいに晴れ渡っていた。アリツェは目をつむりながら空を見上げ、両腕を広げてグッと伸びをしながら、全身にあますことなく陽光を浴びた。心地よい、春の一日だった。
のんびりと領館の中庭を歩きながら、アリツェは目的の場所へと近づいていった。昼を少し回った時間なので、官僚は皆仕事中だ。人の気配はまったく無く、中庭は今、アリツェだけの空間だった。
アリツェは中庭の隅の一角に植えられた一本の木の傍に立ち、幹に片手を置いた。ゆっくりと見上げ、その誇らしげに咲き誇る花を見つめた。
「今年も、美しく咲いてくれましたわ……」
アリツェはつぶやくと、優しく幹を撫でる。アリツェの手の動きに合わせるかのように、木の枝はざわめき、可憐な花を揺らした。と同時に、わずかに鼻腔をくすぐる甘い香りが漂う。
アリツェはこの場所に、強い思い入れがあった。幼いころ、両親から冷たくされた時、この中庭の木の下でよく泣いたからだ。この木の下に座ると、不思議と心が落ち着いた。優しい霊素に温かく包まれる感覚は、はたして、この木の精霊のものだったのだろうか……。
のちに悠太の記憶を得てから、アリツェは知った。この木が、悠太の世界では『桜』と呼ばれる木であると。
「エウロペ山は、いまだ白く閉ざされたままなのでしょうか」
平地のグリューンで、ようやく春らしくなってきたところだ。険しいエウロペ山脈では、まだまだ冬の直中に違いない。かつて歩いた獣道を脳裏に浮かべつつ、アリツェはため息をついた。
「あ、アリツェ! ここにいたんだね」
アリツェが遠くエウロペ山中へ思いを馳せていると、中庭に突然ドミニクの声が響き渡った。
アリツェは閉じていた目を開き、声のした方向へ顔を向けた。領館と中庭とを結ぶ扉の脇で、ドミニクが両手を振っている。するとドミニクは、そのまま小走りでアリツェの元へと駆け寄ってきた。
「あら、ドミニク。……少し、大司教一派のことを考えておりましたわ」
アリツェは桜の木から手を放し、走り寄ってきたドミニクに向き直った。
ドミニクはちらりと桜の花を見遣ってから、アリツェの顔に視線を戻す。
「まもなく春を迎える。奴らが行動を開始するとしたら、そろそろかな?」
ドミニクは桜の木の傍に腰を下ろし、脇の地面をポンポンと叩いた。隣に座れと言いたいのだろうと察し、アリツェは軽くうなずくと、ドミニクに寄り添うように腰を下ろした。
「えぇ、きっとそうに違いありませんわ。……この冬は結局、領の仕事だけで終わってしまいました。わたくしたちも、そろそろ動き始めたいところですわね」
アリツェはジュリヌの村からグリューンに戻って以後の、残務整理やら王都への報告やらを思い出した。
約束を守り冬になる前に戻ったためか、結果は芳しくなかったものの、フェイシア国王からはねぎらいの言葉をもらえた。その後、再びグリューンに戻り、たまった領政の仕事をこなした。ようやく山積みの書類が片付いたかと思った頃には、いつの間にか冬が終わっていた。まさしく、あっという間の五か月間だった。
これからはどんどん暖かくなる。溜まった仕事も、ある程度は処理し終えた。再び大司教捜索に動き始めるには、絶好のタイミングとも言える。
「そうはいっても、冬の間に捜索へ当たってくれているクリスティーナ様からは、色よい報告はないんだろう?」
ドミニクはそう口にしながら、片手でアリツェの肩を抱き、ぐっと引き寄せた。アリツェはそのまま身を任せ、首を少し傾げてドミニクの肩にちょこんと頭を乗せる。
「はい、残念ながら……。行方は依然としてつかめないようですわ。いまだにエウロペ山中にいるのか、それとも雪に閉ざされる直前に山中を脱し、どこかへ隠れ潜んだのか」
アリツェはため息交じりに答えた。
何度かルゥを伝令役に立て、ヤゲルの王都ワルスにいるクリスティーナとやり取りをかわした。だが、大司教発見の報が返されることはなかった。
「手掛かりがないんじゃ、ボクらも動き出しにくいよね。やみくもに探すわけにもいかないし」
ドミニクの言うとおりだった。この中央大陸は広い。大陸中央部に当たるバイアー帝国、フェイシア王国、ヤゲル王国だけでも、馬車行では端から端まで二か月くらいはかかりかねないほどの距離がある。当てもなく虱潰しに、というわけにはいかなかった。
さらには、エウロペ山脈を南に抜け、大陸南部のエスタル王国に抜けた可能性まである。今はとにかく、情報が必要だった。
「領の統治も、必ずしも順調というわけではありませんし、もうしばらくはクリスティーナにおんぶにだっこでしょうか……」
アリツェは再びため息をついた。
溜まった領政の書類を片付けている際に、アリツェは気付いた。今のプリンツ子爵領の経済状況では、結婚後に加増される予定の王国直轄領を、うまく統治しきれないのではないかと。
加増予定の領地は、王国直轄とはいっても、何の産業もない辺境の田舎ばかりだった。現プリンツ子爵領の村々と比べて、お世辞にも栄え富んでいるとは言えなかった。その王国直轄領の村々を、他のプリンツ子爵領の村々並みまで引き上げるための余裕資金が、今のプリンツ子爵領にはない。
せっかく新たに領民に加えるのだ。他の村々との格差からの不平不満を、持ってもらいたくはなかった。インフラ整備から特産品の開発まで、やらなければならない事業は多い。だが、先立つ予算がなければ、いかんともしがたい。頭の痛い問題だった。
当面は領の経済状況をさらに良くし、余剰資金を溜める方向に全力を投じなければならない。現実は、大司教の捜索をしたくとも、なかなか難しい状況になっていた。
「今身軽なのは、クリスティーナ様だけだしね。ただ、彼女も乗り気だから、アリツェがそこまで気に病むことはないと思うよ。アレシュを引っ張りまわしながら、結構楽しくやっているみたいじゃないか」
不安を漏らしたアリツェを元気づけるかのように、ドミニクはけらけらと笑い飛ばした。
「アレシュのヤゲル王国留学って、この夏まででしたっけ? それまでは、クリスティーナに散々におもちゃにされそうですわね」
クリスティーナに強引に連れまわされるアレシュの姿を脳裏に浮かべ、アリツェも思わず笑みがこぼれた。
「あの二人の正式な結婚は、まだまだ先だしね。まぁ、アレシュにもいい経験だろうさ。それに、クリスティーナ様も、結婚をしてしまえばフェイシアの王太子妃になる。もう自由に動き回れなくなるから、今のうちにあちこち、自分の目で見て回りたいって気持ちもあるんだろうね」
「確かに、おっしゃるとおりかもしれません。今はクリスティーナのほうが、わたくしよりも自由に動き回れる立場にありますが、数年すればその立場も逆転いたしますわ。……大司教捜索は、完全にクリスティーナにおまかせしても、いいのかもしれませんわね」
クリスティーナは大司教捜索という名目での旅行三昧で、ある意味、独身時代の最後の自由を謳歌しているともいえる。であるのなら、その自由を存分に謳歌してもらうのも、悪くはないのだろうとアリツェは思った。
クリスティーナとアレシュとの結婚は、アレシュの成人を迎えてから行われる。アレシュはアリツェやクリスティーナの一つ年下なので、二人の結婚式はアリツェとドミニクの結婚式よりも一年遅い。その結婚式までの残り一年半を、クリスティーナは今、存分に楽しんでいるのだろう。
「そういうこと。それに、ボクたちはこの夏に一大イベントを控えているんだ。領を離れるわけにはいかないよ」
ドミニクはにかっと笑った。
「うふふ、そうですわね!」
アリツェも笑い返し、大きくうなずいた。
夏の一大イベント――アリツェとドミニクの結婚式だ。たしかに、領政の問題もあるが、自分たちの結婚の件もある。当面の間、領を離れる暇はなさそうだった。





