1-1 エウロペ山中は過酷ですわ~前編~
無事にクリスティーナも合流し、アリツェたちは進軍の準備を整え終えた。
向かうはエウロペ山脈、構成員はアリツェ、ラディム、クリスティーナの精霊使い三名に、その使い魔であるペス、ルゥ、ミア、ラース、イェチュカ、ドチュカ、トゥチュカ、そして、護衛役のドミニクだ。
全員がジュリヌの村の入口に集まった。これから、エウロペ山脈の近傍まで通ずる街道に出て、道沿いに南下をしていく。
「いよいよ、出発ですわね……」
アリツェは隣に立つドミニクの手を、ぎゅっと握りしめた。掌を介して、ドミニクの温もりを感じる。
「すんなり大司教を捕らえられると、いいんだけれどねぇ」
ドミニクも、アリツェの手を握り締め返した。
「まぁ、そんなに簡単にはいかないわね。きっと……」
クリスティーナがつぶやきながら、アリツェの隣に歩み寄ってきた。
クリスティーナの向ける視線の先へ、アリツェも目を遣った。目的地のエウロペ山脈の威容が、目に飛び込んでくる。
ジュリヌの村から二日ほど街道を下ったところで、道を離れて山麓に向かう予定だ。街道から離れて半日ほど歩けば、いよいよ本格的な山中行軍が始まる。
「時間も惜しい、出発するぞ」
ラディムは振り向き、アリツェたちの顔をぐるりと見遣った。ラディムも気を張っているのか、眉を寄せ、難しい顔をしている。
晴れ渡る日の多い秋にしては珍しく、厚い雲が垂れ込めている。今のところ、雨は降りだしてはいない。だが、いつ天気が崩れてもおかしくはない空模様だった。
頬を撫でる空気は、かすかに湿り気を帯びている。鼻につくにおいも、雨を予感させた。ぬかるんで足場が悪くなれば、馬も足を取られる。行軍速度が落ちるのは避けたい。急がなければならなかった。
一行は騎乗し、街道に出た。魔獣騒ぎのため、街道に人の気配は全く感じられない。アリツェたちは覚悟を決めると、手綱を握り締め、大司教捜索のための第一歩を踏みだした。
街道を南へ下り始めて、一日が経過した。途中野営を行ったが、問題もなく夜を明かした。
街道から外れる予定地点までは、あと一日。天気も、今のところは持ちこたえている。
「山中に逃げ込んでいるとは申しましても、いったいどのあたりを捜索すればよろしいのでしょうか」
アリツェは右隣りを並走するラディムに顔を向けた。
「ミュニホフから最短距離でエウロペ山中へ逃げ込んだ想定で、今は動いている。そうなれば、この辺りから山に侵入したと予想されるな」
ラディムはアリツェに馬を寄せると、懐から地図を取り出し、広げてアリツェに見せた。
ラディムは一点を指さしている。街道からほど近い、沢筋とみられるようなえぐれた地形だ。
沢とはいっても、春の雪融けの時期だけのもので、この季節は水の気配もなく、歩きやすいとラディムは説明した。この地図を製作したジュリヌ村の木こりたちから聞いたらしい。
「その沢筋を通って、大司教たちは山奥を目指しているの?」
クリスティーナが背後から声をかけてきた。首を伸ばしながら、地図をのぞき見ている。
「どうだろうな……。我々の捜索の間だけ隠れられればそれでいいと考えているのなら、山間のくぼ地に点在している洞窟の一つを目指すのではないかとにらんでいるのだが」
ラディムは地図を懐に仕舞いなおしながら、クリスティーナの問いに答えた。
やはり、木こりたちから聞いた話で、どうやらエウロペ山中には多くのくぼ地――盆地と呼ぶには、せまっ苦しいらしい――が存在し、小さな横穴もあちこちにあるという。確かに、一時的に身をひそめるには、うってつけかもしれない。
「南へ抜けるって可能性は、ありそうかな?」
前方を歩くドミニクが、速度を緩めてアリツェの左隣にやって来た。
「その恐れも、無きにしも非ずだ。南の隣国エスタルに協力者がいたとしても、おかしくはないだろう。であるならば、山頂付近を経由して南に抜けるルートを選択しそうではあるが」
ラディムは少し考えこんでから、ドミニクに返した。
「山頂を超えないと、南には抜けられないんですの?」
アリツェは首をかしげた。
険しい山の頂上を目指さずとも、標高の低い場所になんらかの迂回ルートがあるはずだ。わざわざ好き好んで難関ルートを使う必要もないとアリツェは思った。
「残念ながら、無理なんだよ。だから、帝国とエスタル王国とは、交流がほとんどない。なので、私もエスタルの情勢には、あまり明るくないんだ。山頂越えを避けようとすれば、はるか西に回り、バルデル公国の海岸沿いを通るルート以外にないな」
ラディムは頭を振った。
山々の間の標高が低くなっている場所は、あまりにも深い森におおわれており、遭難すること請け合いらしい。地理に明るい木こりも、そのあたりには決して足を踏み入れないとラディムに警告したそうだ。
であるならば、南に抜けるためには、森林限界を超えた標高まで登らざるを得ない。
「ラディムの話を聞く限りだと、南へ抜ける可能性は考えず、山間のくぼ地を捜索ってところかな。大司教たちも、これから冬に入ろうかという今このタイミングで、山頂を抜けていく危険を冒すとは思えないね」
ドミニクは顎に手をやり、考え込んだ。
アリツェもドミニクの意見が妥当だと得心した。大慌てで帝都ミュニホフを脱した大司教一派が、険しい山越えができるほどの装備を準備できたとは考えにくい。登山の経験が豊富だとも思えない。
「それが一番、現実的だろうな。タイムリミットを考えても、可能性の低そうな山頂ルートの捜索は、ちょっと避けたいね」
ラディムの言葉に、全員が頷いた。
さらに数時間進んだところで、突然、クリスティーナは馬を止めた。
「ちょっと待って! あれを見て!」
クリスティーナは前方右の路肩を指さした。
「足跡……ですの?」
アリツェは目を凝らし、クリスティーナの指し示す先を注視した。何者かの足跡らしき、大きなくぼみが見える。
「不味いな。件の魔獣のものかもしれないぞ」
ラディムは低い声でつぶやいた。
足跡は、普通の野生動物の残したものにしては、やけに大きい。ラディムの言うとおり、魔獣の足跡の可能性が高そうだった。
「不意を討たれてもいけないわ。周囲を少し、探しましょう」
クリスティーナは振り返り、魔獣の捜索を提案した。
「クリスティーナ様に賛成だ。できればこの場で、魔獣は始末したほうがいいと思うよ」
ドミニクの同意の言葉に、アリツェもうなずいた。
このまま無視をして先を急ぐ選択肢もある。だが、不意に背後から襲われてはかなわない。魔獣が近くの藪の中に隠れていて、こちらが油断するのをじっと待っているかもしれない。アリツェが噂に聞く限りにおいて、魔獣は得てして知能も発達していた。警戒を怠るわけにはいかない。
しばらく手分けをして周囲を捜索した。だが、幸か不幸か、魔獣の姿は見えなかった。
「見当たらない、ですわね……」
アリツェは周囲の探索を終え、街道に戻ってきた。再度、キョロキョロと辺りを眺めるが、やはり魔獣の姿はない。
「魔獣のものらしき霊素反応も感じないわ。使い魔たちにも探らせたけれど、やっぱりだめ」
クリスティーナはしゃがみこみ、探索を終えて戻ってきた使い魔の子猫三匹の頭をなでた。使い魔たちは鳴き声を上げ、クリスティーナの手に顔を擦り付けている。
とその時、上空からルゥが滑降し、アリツェの肩に静かにとまった。アリツェは念話で、ルゥから手早く周囲の状況の報告を受けた。
「ルゥに上空から見廻ってもらいましたが、同様ですわね。この周辺には、どうやらいないようですわ」
ルゥからの報告では、周囲一キロメートルほどの範囲には、それらしい物影はなかった。噂に上っていたほどの巨体なら、ルゥが見逃すはずはない。やはり、この近辺にはいないのだろう。
「足跡の様子を見ても、それほど新しいものってわけじゃなさそうだ。見つからないんじゃ、どうしようもないね」
ドミニクが手に抜き身の長剣を構えながら、戻ってきた。
「あら、残念だわ。今晩は採れたて新鮮なクマ鍋を、と期待しておりましたのに」
クリスティーナは立ち上がると、おどけるように笑い声をあげた。
魔獣が件の噂のものであれば、ベースの生物はクマのはずだ。クマが霊素を纏って異常進化した姿、それが今回の魔獣だとアリツェたちは考えていた。
「食いでがありそうだね。でも、纏っている霊素のせいで、肉を噛み切れないんじゃないかな」
ドミニクはクリスティーナの冗談に合わせ、ケラケラと笑った。
「魔獣は剣をも通さない霊素の膜で、全身を覆われているんですよね。実際に口にしたら、歯が折れそうですわ」
噛みしめて歯が折れる場面を想像し、アリツェはぶるっと震えた。きっと、金属片に噛み付くような感触に違いない。
いかな健啖持ちのアリツェとはいえ、噛み切れないものはさすがに食べられない。ゲテモノでもなんでもござれとはいえ、飲み込むのも困難な料理は、勘弁してほしかった。
「あら、さすがに死んだ後なら、霊素も消滅しているんではなくって?」
クリスティーナは微笑を浮かべつつ、「きっと、野性味あふれておいしいに違いありませんわ」と口にした。
クリスティーナの意見にアリツェは納得し、「確かに、それならばいけそうですわ!」と、手を叩きながらうなずいた。じわりと込み上げてくる唾液を、ゴクリと飲み込んだ。
悪食アリツェの本領発揮だ。魔獣クマの鍋物も、悪くはないとアリツェは思い始めていた。なんだか、滋養強壮に効果がありそうだ。
そのまましばらく、アリツェはドミニクやクリスティーナと一緒に、やいのやいのとクマ鍋の話で盛り上がった。
「ほらほら、バカな話をしていないで、先を急ぐぞ」
さすがにしびれを切らしたのか、ラディムがさも呆れた風な表情を浮かべながら苦言を呈した。
アリツェたちは互いに顔を見合わせると、頭を掻き、苦笑いを浮かべあった。さすがに、バツが悪い。
「しかし、ここで魔獣を退治できないのであれば、帰路で疲労困憊のところを襲われる可能性も、考慮に入れなければいけませんわね。あまり考えたくはないですが……」
アリツェはため息をついた。
まだ気力体力が万全な今、魔獣と対峙したほうが都合がよかった。これからの厳しい山中行軍で、どれほどの疲労がたまるか想像がつかない。帰路には、捕縛した大司教一派というお荷物を抱えている可能性も高い。そのような状況で、得体のしれない巨体の魔獣に襲われるのは、なかなかに危険だ。
「アリツェの心配ももっともだけれど、おおかた、冬に備えて冬眠にでも入ったんじゃないか?」
ドミニクはアリツェをちらりと見遣り、「クマなんだしさ」と呟いた。
アリツェたちの想定どおりのクマベースの魔獣であれば、ドミニクの指摘のとおり、冬眠の習慣が残っていたとしても、それほど不思議ではない。
「だとよいのですが……」
アリツェは力なく頭を振った。
天候の問題もあり、これ以上の長居は都合が悪い。一抹の不安を胸に抱きつつも、アリツェたちは先を急いだ。
それから小一時間後、恐れていた雨が降り出した――。





