感情質屋
ある日残業が長引き、会社を出たのは二十四時を過ぎた頃だった。
別に珍しい事ではない。週の半分はこんな感じだが、まったく金が溜まらない、とんだブラック企業に入社したものだ。今年で入社三年目、転職しようかと本気で考える。
翌日は珍しく休日だった事もあり、どこかで一杯呑んで行こうと駅前を歩いていると、妙な看板を見つけた。
感情質屋
やたらと古臭い看板には矢印が描いてあり、それは薄暗い路地裏を指している。興味を引かれ足を運ぶ。
少し進むとラーメン屋の屋台のような店があるが、暖簾が掛かっていて中を伺うことは出来ない。
「お兄さん、こっちにいらっしゃい」
男の声が俺を招く。変な店だと思いながらも、冷やかしのつもりで暖簾をくぐる。
中に入るとカウンター越しにスーツの良くに合う白髪の老人が座ってる。屋台の中に品物は無く、至る所にメモが貼ってあるが、走り書きなのでなんと書かれているかは判らない。
「今日は何をお探しで?」
「何を、と言われても。初めて来たんだ。何売ってんの?」
「はい、当店では感情を扱っています」
「感情? 何かの比喩でなく本物の感情かい?」
「その通りで御座います、こちらが品書きです。今日大量入荷しましたので、お安くしときますよ」
すると老人は、やたらと古い紙を取り出す。なになに? 安堵感一千万円、好奇心二千万円だと?
「他にも、死にたいという感情を除いて、大抵の感情を取り扱っております」
「何で死にたいって感情は扱ってないの?」
「売りたがる人はとても多いのですが、買いたがる人はいないもので。在庫がそれで、埋め尽くされてしまいますから」
「おいおい爺さん、いくらなんでもジョークにもなってない、あんた頭おかしいんじゃないのか」
「ジョークでも道楽でもありません。現に私はこの商売を四十年以上やっていますが、衣食住に困ったことはありません。この前も肥満に悩む方が満腹感を三千万円で買って行きました」
「そいつは馬鹿な金持ちだから買って行ったんだよ。俺はそんな大金出せない」
「それでしたら何かお売りください。あなたの感情。買い取らせてください」
「そうだな、じゃあ今残業終わりでくたくたなんだ。俺の疲労感、買い取ってくれ」
「はい、それでしたら五百万円で買い取らせていただきます」
老人は拳を握る。すると微かに発光する。間も無く開かれた手には、水色のガラス玉のようなものがあった。
「確かに、頂戴しました。こちらがお代になります」
こうして俺は疲労感を売った。
路地裏を抜け、大通りに出た時には疲れは取れ、足も軽くなった気がする。これで金が手に入るのだからなにも損はない。
翌週からまた仕事がはじまる。
凄い、全く疲れない。催眠術か何かだろうか。朝早くから終電ギリギリまで働いても何ともないのだ。素晴らしい取引をしたものだ。どれだけ仕事をしても頭が冴える、ミスも無くなりいい企画も思いつく。三ヶ月も経つと周りの評価も上がり、最近よく同期の出世頭になるだろうと言われる様になっていた。
気がつくとベットで寝ていた。知らないベットだ。体を起こし周囲を確認する。白を基調とした部屋だ、そして鼻につく刺激臭。腕に点滴のチューブが刺さっているのを見てここが病院だと気がつく。
「内臓がかなり弱ってます。どうしてこんなになるまで、放っておいたんですか?」
医者が眈々と診断結果を話しだす。様々な数値が危ないこと。とりあえず長期入院になること。
何の前触れも無くこんな事になるとは。疲労感が無くなっても、体には今まで通り疲れが蓄積していたのだ。
なんでもっと健康に気をつけなかったんだろう。このまま疲労感が無いのはマズイ。絶対安静と言われたが、看護師の目を盗み病院を抜け出し、あの日の五百万円をカバンに入れ、例の店に向かう。
今日はまだ日が高い時間だが、あの日と同じように営業していた。
「おい爺さん。疲労感、買い戻しに来たぞ」
「おやおや、貴方はいつぞやの。いいですよ二千万円です」
「はあ? あの時は五百万円だったろうが」
「はい、疲労感は買い取り価格は五百万円ですが、 売り値は二千万円で取引させて頂いております」
そんな金は無いが、かと言って疲労感がないのは困る。なんとか金を都合しなければ。
「爺さん、感情なら買い取ってくれるんだな」
「はい、死にたいという感情以外でしたら、何でも」
感情を売ろう。しかし下手するとまた問題になるかもしれない、今度は真剣に考えよう。
「劣等感、劣等感ならなくとも困らない。いくらで買い取る?」
「劣等感は八百万円です」
まだ足りない、他に何かないのか。
「じゃあ羞恥心だ、あれも無くなっても困らない」
「羞恥心は七百万円です」
よし、これで疲労感を取り戻せる。
「それでいい、取引だ」
老人は例のガラス玉を取り出すと手に持ち握る。前回よりも強く光る、間も無く手を開いた手には、紺と赤の二つのガラス玉があった。
「確かに頂戴しました」
こうして劣等感と羞恥心を売った。
大通りに出た時には全身が鉛のように重く、ろくに歩けない。仕方が無いので這いつくばるように道を行く。何だ? やたらと人の視線を感じる。
暫く療養してまた仕事に復帰する。また朝から働き詰めの毎日だがちゃんと疲れる。この疲労感が心地いいくらいだ。
しかしまた倒れると面倒だ。朝だるければ、欠勤する。身体が重ければ早退する。よく遠くから陰口を言われているようだが気にならない。
まったく、何で毎日スーツを着るんだ面倒臭い。動き辛いし暑い。なにも着ないで出社する。すると警察が飛んできた。
「君、裸でなにやってんの! ちょっとこっちきて」
パトカーに乗せられ、警察署に連れて行かれる。俺が何したってんだ。
逮捕され罰金刑、会社は解雇の報せが届く。
それはいい、問題はそこではない。
「あんたにプライドや羞恥心はないのか?」
取り調べの最中、警官から羞恥心というワードが出てハッっとした。あの時売った二つの感情にせいで犯罪者になってしまった。
きっとこのままではもっと大きな事件を起こすかもしれない。何とかしなければ。
釈放されたその足で俺はあの店に行く。
「俺の劣等感と羞恥心、返してもらおうか」
大声をあげながら暖簾をくぐるが、老人は眉一つ動かさない。
「二つで六千万円になります」
また感情を売ると、変なことになりかねない。仕方が無いので金を借りたいが、無職で前科持ちになった俺に銀行はそんな大金貸してくれないだろう。
「大丈夫ですよ、私はこう見えて金に困った事は御座いません。何ならお貸ししましょうか?」
俺の考えを察したのか?
「タダってわけじゃないんだろ? 何が欲しいんだ?」
「いえいえ、ただ担保としてあなたの感情のすべてを差し出して頂きます。毎月十五万円づつ返して下さい。もし返済が滞ることがあったら…… お分かりですね」
仕方が無い、他に金のアテがないのだから。
「分かったそれでいい、早く感情を返してくれ」
店から出た時今までの自分の行いを恥じた。なぜおれはあんな格好で人前に出れたのだろう。もう絶対感情は売らないと心に誓う。
次の日から職探しだ。何でもいいから働いて金を手にいれなくては、どんなに身体が重くともあちこち走り回る。恥ずかしかったが、土下座もしたが仕事が見つからない。まったくどうしてこんな事に、自分の浅はかさに呆れる。
それから二ヶ月、未だに職は見つからない。最初の返済は、知り合い数人からなんとか金を借り用意出来た、しかし二回目は金を用意できなかった。悪い噂が流れているせいで、今の俺の信用は失墜している。誰からも借りることは出来なかった。
俺は泣けなしの金を掴み逃げ出す。
とにかく遠くに行こう。そう思い電車に飛び乗る、とにかく遠くに逃げるんだ。
終点に着くとそこは知らない街だ。
あの店からはだいぶ離れたが、あの得体の知れない爺さんのことだ。まだ安心できない。
また電車に乗り終点に着くと乗り換える。
また電車に乗り終点に着くと乗り換える。
また電車に乗り終点に着くがなかなか電車は来ない。
時計を見ると二十三時三十分、次が最後の乗り換えだ、電車が来るのは三十分後。
金は全て運賃に使ったせいで今日は何も食べてない。腹が減る。
最近はまったく眠れなかった。眠い。
この一月誰とも遊んでない。人肌が恋しい。
背後から閃光が瞬く。
明日はどうしようか。
行く当てはないが、腹は減ってないし、眠くない、一人でも何とかなる。
おかしいさっき思った事と違う。
「今日が返済期限でした。いえ日付が変わりましたから昨日ですか」
振り向くと、あの爺さんが両手一杯のガラス玉を持って立ている。
「なんで、なんでここにいるんだよ?!」
「約束通り、あなたの感情を頂きに参りました」
「勘弁してくれよ、感情全て取られたら俺はどうやって生きて行けばいいんだ?!」
「大丈夫ですよ、最初に言ったでしょう。死にたいという感情は扱っていない、と」
そして最後の感情も電車のブレーキ音と共になくなった。
「いらっしゃいませ。今日商品が大量入荷しましたので、お安くしますよ」
「………申し訳ございません。警戒心の入荷はありません」
「………もしよろしければ何かお売りください。あなたの感情買い取らせてください」
「………はい、それでしたら五百万円で買い取らせていただきます」