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ロード・オブ・スカーレット

作者: 華猫

 十九世紀、ロンドン。

 新たなミレニアムの訪れまで百年と少しを残し、女王の治世は五〇年に届こうとしている。

 ルネサンスも遠く、産業革命を経て様々な発明発見と実用化が相次ぎ、世界の姿と人々の心の深いところは徐々に変わり始めていたが、陽の沈まぬ帝国を頂点とした欧州の栄光が永遠に続くと思われていた時代。やがて世界をおおう激動と混沌の時代が手ぐすね引いて待ち構えていることを、この帝都はまだ知らないでいる。



 フラム卿が入って来るやいなや、〈ハンガースクラブ〉のサロンで社交辞令やゴシップに夢中になっていた紳士淑女達の間に沈黙の波紋が広がった。

 遠目にも目を惹く若者だ。燃えるような赤い髪に、緋色に金と宝石まで散りばめた東洋風のゆったりした長衣。全身にうっすらと火焔をまとっているかのようだ。いわれてみればどことなく東洋風の端正な顔立ちに神秘的な微笑みを浮かべている。

「……〈ロード・オブ・スカーレット〉……」誰かが小声でつぶやいた。

 〈緋の王〉または〈ダイヤモンドの王〉フラム卿の名は、目下、社交界で噂になっている。滅多に社交の場には姿を見せないが、誰もが名前だけは知っていた。

 以前から彼を知るごく少数の者によれば、彼は元々は東洋のとある王国の王子だが、お家騒動があって欧州に逃げて来たのだという。それももう何十年も昔のことだというが、それ以来ずっと東欧の辺鄙な地に住んでいて、つい半年ばかりまえにロンドンに出てきて居を構えた。しかし、彼はどう見ても三十才を過ぎてはいない。祖国の王家に伝わる神秘術の奥義を極めて不老不死の身になったのだと、まことしやかな噂もある。だから、当代サンジェルマンだの、第二のカリオストロだのという者もいる。

 出自についてはさておき、彼が途方もない財産家なのは確かだ。彼はロンドンに現れると真っ先にナショナルバンクの窓口におもむいて、樽一杯の砂金と大粒のダイヤモンドを百個ほどを担保に借金を申し込んだ。銀行の頭取が血相を変えて出て来て、証書を作る間にこっそりとスコットランドヤードに通報して調べさせたが、さる大貴族が保証人になっていたためにすぐには捜査のしようもなく、銀行が用意できた限りの現金と証書の入った革鞄をさげた従者とともに、彼がドイツ製らしい最新型の自動車に乗りこむのを見送るしかなかった――この一件でフラム卿の名は知れ渡った。トレードマークの緋色とともに。

 そんなわけで、〈緋の王〉の登場はクラブの会員達にとって思いもかけないハプニングだった。

 サロンの奥からこれまたひときわ眼を惹く女が大股歩きで出て来て、フラム卿を迎えた。

「ようこそいらっしゃいました、皆様、お待ちかねでしたのよ」

「今宵はお招きくださいまして、厚く礼を申し上げます」

 彼は不自然なほど流暢な英語で、しかし仕草だけは東洋風に両手の拳を胸の前で合わせて挨拶した。



 出会いは三日前だ。

 その日、〈緋の王〉、いやプライベートな場ではただのフラムは初老の従僕マーカスとともに高級レストランで遅めのランチをとっていた。

 このレストランは各テーブルは衝立で仕切られてこっそりと会合をしたい客同士が予期しない相手と顔を合わせないようになっているのだが、彼に対しては無駄なようだった。

「卿、いい加減憶えてくださいませんか。そのソースはサラダでなくこっちの皿なんですよ……あああ、そんなに胡椒をかけないで!シロップ入れ過ぎですってば――」

 シェフの悲鳴はフラムがチキンソテーにデザート用のショコラムースをのせたあたりで止んだ。気絶したのだ。

 給仕達に担がれて運ばれていくシェフを横目に、フラムは幸せそうに食事を続けた。

「ああ……これで十二軒目ですよ」マーカスがうんざりとした顔でいった。

「そうだっけ?」フラムは平然とビールにひたったベイクドポテトを口に運んだ。

 今日はフラムも、彼にしては地味な服装で、せいぜいケンブリッジあたりの学生がエチオピアの王子の仮装をしているぐらいにしか見えない。

「これで二度とこの店に来られませんね。屋敷のシェフも次々に神経衰弱で入院してしまうじゃないですか。こうなると一種の才能かもしれませんよ」

「それ、もしかしてすごい皮肉?」

「いえ、賞賛してるんですよ。世界味覚闘技選手権なんてのがあったら、間違いなく卿がチャンプですって」

「誉められてる気がしないんだけどな」

「やはりそうですか」

 マーカスはひとつ溜め息を吐いて、「卿の破壊的味オンチはもはや業界では有名ですからね。どんな高給をだすといってもなかなかシェフのなり手がないんです。料理人としてのレゾンデートルが根底から否定されるといって」

「食料なんてさ、胃袋入ればみんな同じだよ。ぼくにはイチイチ気を遣ってる余裕なんかないワケ」

「卿のお友達は美食家にして料理研究家だったというじゃないですか。その方がいれば……」マーカスは首を振った。

「彼か。なんていったっけね」フラムも記憶を探るような表情をした。「もうずっと前のことだからなあ」

 そのとき、衝立のふちをまわって給仕がやって来た。人形のように無駄な動き一つない。チップを渡すときにでも手の甲を思い切りつねってやろうと、フラムは密かに思った。

「あちらのお客様が、フラム殿下にぜひ、お目にかかりたいと仰しゃってるのですが――」

「テーネス、ミラ・テーネスと申しますわ、どうぞ、よろしく」

 少女と中年の中間くらいの女が、衝立を蹴倒しそうな勢いでやってきてフラムの隣席に強引に腰をおろした。

 上流階級に多くの知人を持つレディ・テーネスの名は有名だ。〈レディ〉といっても実際に爵位を持っているわけではないが、〈お友達〉の皆が〈レディ〉をつけて呼んでいる。

 派手な容姿の官能的な美女で、誰もが振り返らずにはいられない。服装にしろ物腰にしろ、一分の隙もない。

「卿のお噂はかねがね伺っておりますわ。ぜひとも一度はお会いして、私のサロンにもお招きしたいと思っておりましたのよ」

「困ったなあ」フラムはあまり困ってもいないような苦笑いを浮かべた。

「ぼくは今、お忍びなんです」そうは見えない。「腕のいいシェフを探してましてね」

「あら、卿は美食に興味がございますの? それなら願ってもありませんわ。私のサロンは、ことに、美食で知られておりますのよ――」



「やっぱり行かれるんですか」マーカスが支度をしながら渋面を作った。「レディ・テーネスのサロンといったら、かの〈ハンガースクラブ〉でしょう、会員制の社交クラブですよ」

「招待状だって来てるしさ」

 フラムは窓際のデスクに置かれた革の札入れを眺めた。

 そのデスクの向こうの窓から夜闇に沈みかけた二千年の歴史を持つ街が見下ろせる。石畳にガス灯が浮かび、広場をぼんやり照らす。

 どこかの路地から野卑な叫び声が続け様に聞こえた。労働者の集団が酔っぱらってクダをまいているのだろう。まだ夜は浅いというのに。

「レディ・テーネスってそんなに有名?」

「レディ・テーネスの〈ハンガースクラブ〉のお噂を聞いたことございませんかね。表向きは美食を中心として娯楽に興じるクラブですけどね。上流も上流、大貴族や政治家も密かに出入りなさる。女主人がそうとうに遣手で彼らを手玉にとってるとのウワサです。

 だいたい街一番のシェフを抱えてる美食クラブのオーナーがどうして、傘下でもないレストランにいたと思います。卿があの店に来るのを知っていて、わざわざ、偶然いあわせた風を装ったんですよ」

「さすが。マーカス、詳しいね」

「こんなのは新聞や雑誌をジックリ読んでちょっと考えれば、すぐにわかることですよ。

 それにしても見物ですねえ。〈ハンガースクラブ〉の天才シェフと、破壊的味オンチのフラム卿との、ドリームマッチだなんて」



 〈ハンガースクラブ〉のクラブハウス兼レディ・テーネスの館はシティの外れに建っている。さる貴族の邸宅だったのを、どういう手づるを使ったのかレディ・テーネスが借りてクラブを運営している。背後に庭園を備えた豪邸だ。周辺は騒々しい歓楽街だが、この一画は静かだった。

 その広大な厨房で、幾人もの料理人達がせわしくたちまわっていた。彼らのトップであるシェフは、実はまだ、二十歳を過ぎたばかりの若者だった。

 神経質そうな細身の顔に見事なほどの銀髪――今は帽子で隠れているが――をした、レインという青年だ。

 そろそろ晩餐の始まる時間だ。レインはいくつものソースパンにそれぞれ溜まったどろりとした液体を慎重に一つづつ味見していた。

「厨房の様子はいかが」

 レディ・テーネスが顔を出して、レインを探した。

「万事順調ですとも、レディ」

 レインは内心うんざりしながら、彼女の元へ歩み寄った。

「わかってる? 今日はスペシャルゲストが来るのですからね。腕によりをかけてちょうだい」

「オレはいつだってベストを尽くしてますよ」

「もちろん心配はしてないわ。あなたに、手を抜くなんてことができるとは思わないし」

 レディは厨房をぐるりと見渡して、いそいそと出ていった。

 レインはその後ろ姿を見送って、小さく鼻を鳴らした。

 途端、軽い頭痛に襲われた。脳を針で刺すような痛み。以前からしばしば感じる症状だが、この数ヶ月で頻度が増してきたように思う。原因は不明だ。痛みの出るきっかけもわからない。レインは両のこめかみを手で押えて痛みの去るのを待った。

「シェフ、大丈夫ですか?」料理人の一人が気遣って声を掛けた。

「ああ」レインは軽く頭を振った。



「あら、フラムというのはホントのお名前じゃないんですの」隣席の婦人が意外そうにたずねた。

「ええ、あまりに長ったらしいのでただの〈フラム〉で通しておりますがね。正式には私の国の古い言葉で、フレンメ――――――――――――……と申します」

 フラム卿が歌うように節を付けて名乗ったうち、人々に聞き取れたのは最初の一音節だけだった。全体では二十音節を超えていたようだ。英語とはまるで発音もイントネーションも違う異邦の言葉だ。

「お国はなんといいましたかしら」

「カラ――――――――――――――――――――――……」今度は三十音節ほどあった。

 人々は晩餐の席について料理の運ばれてくるのを待っている。

 今夜の主賓はどう見てもフラム卿だった。若く美しく神秘的な東洋の貴公子で、それでいて完璧なキングスイングリッシュを話し、豊かな教養と優雅な物腰と人当たりの良ささえ兼ね備えている。さらに豪華な装束が人目を奪う。その場の主役にならずにはいられない。

「わたくしはアルダスという者ですが。ワールドトレードカンパニーという貿易会社をやっております。東洋、特に清のほうとも商売をいたしておりましてね」

 浅黒い顔をした男がテーブルの対面から声をかけてきた。小柄だが頑健そうな中年男だ。

「その関係でアジアにはよく出向くのですよ。卿はお国を離れてからもう随分になるとか。お懐かしいでしょう」

「ええ……」フラムは声の調子を落として、「今や国がどうなっているのかまるで聞こえてきません。あれから何十年も経っておりますしね」

「何十年だなんて、大袈裟ですわ」隣席の婦人が笑った。「わたくしの息子より年上には見えませんわよ」

「おや、貴女には二百歳になられる息子さんがいらっしゃるのですか? とてもそうは見えない、実にお若い」

「なんてことだ、フラム卿は二百歳近いのかね」誰かが笑いながらいった。

「さあてね、私が知り合ったのは三十年前でね」離れた席から中年男が声をあげた。ウィリスという、前からフラムを知っている数少ない男だ。「それより前のことは知らんよ。この三十年まるで変わっていないがね」

「フラム卿の従者君、君なら知っているだろう、卿の本当の歳を」

「はあ、それが。私にしましても、卿に仕えてからまだ一五〇年ほどしか経っておりませんので」フラムの斜め後ろに控えていたマーカスはすまし顔で答えた。

 料理の先遣の芳醇な香気が漂ってきて、客人達は急にそわそわし始めた。

「皆様、お待たせいたしました」

 レディ・テーネスに先導されて、料理のワゴンが運ばれてきた。

「やあ!」誰かが歓声を挙げた。

 サービスがはじまるやいなや、バンケットホールは奇妙な空気が支配した。

 魚を使った前菜に、極上のコンソメスープ。

 人々の会話が止まる。ワインについてうんちくを語る者もいない。訳知り顔で今年の北海の漁場はどうのといい出すものもいない。

 皆が目の前の料理を味わうことに集中している。

 異様な光景だ。十数人が頬を紅潮させて料理を貪っている。まるで二週間も食事をしていなかった漂流者のように、ビクトリア朝の厳格なマナーなど放り出して喰らっている。

 やがてメインディッシュの肉の大きな塊に緑色のソース。

 それらの料理には魔力があった――比喩的な意味でだが。素材と調理法、スパイスの絶妙な組み合わせが人の官能の源にじかに働きかける。

 社交クラブを称してはいるが、会合に集う人々の目的はほとんど、この料理なのだ。一人の天才シェフが作り出す魔術。ひとたび味わえばたちどころに蠱惑される。寝ても覚めてもその味を忘れることができない。

 他では満たされることのない飢えを満たすために、このクラブの定例の晩餐会を待焦がれる。〈ハンガースクラブ〉、飢餓人の会、というのもわかりやすい名前だ。

 ところがその中に優雅な物腰を崩さない者がいた――もちろんフラム卿だ。フラムは儀礼的に皿に手をつけながら、しゃべり続けていた。

「――赤旗法だなんて正気の沙汰とは思えませんね。ドイツではそろそろガソリンエンジンが実用化されるというのに」

「オットーとダイムラーのエンジンのことでしょう」アルダスが顔を上げた。「わたくしも話は聞いています。まだまだ不充分な技術だとは思いましたが、今後はあのタイプが主流になるのでしょうな。あのろくでもない法律のおかげで我が大英帝国の自動車産業はドイツやフランスにさえ大きく遅れを取っているのは確かだ。表に停まっていた自動車はフラム卿のですね? あれが、その、ドイツ製のガソリン車です? エンジンルームをあんなに小型化できるなんて」

「ああ」フラムは少し言葉をためらって、「あれは外側だけです。動力は電気モーターでしてね」

「電気自動車ですと?」アルダスは意外そうな顔をした。「せいぜい公園で御婦人方や子供が乗って遊ぶくらいにしか、用を足さないと思っておりましたが」

「特製のバッテリーを積んでまして。最新の蒸気機関よりもはるかに高出力でしてね」

「ほう、それは興味深いですな。そんな素晴らしい電気モーターが実用化できてるならぜひとも公開していただきたいものです」

「それは難しい」フラムは皮肉混じりの薄い笑みを浮かべて、「あの車の心臓部に使われているのは私の国の王宮で博士達が密かに伝えてきた、とても複雑で繊細な技術です。あなた方からすれば神秘や魔法としか思えないでしょう」

「それが噂に聞くオリエントのミスティーク、神秘術ですか? ますます興味深い話ですね」アルダスはフラムをじっと見た。社交の場にしては不躾に思えるほど、鋭い眼差しだ。

「わたくしの知る東洋、インドや清はもはや神秘の帝国ではない。我が大英帝国の大事なビジネスパートナーです。アジアの諸国も遠い未知の地域ではなく電信で結ばれて素朴なよき隣人達だ。卿の故国については、失礼ながら、わたくしは寡聞にして存じ上げぬが、いずれ我が国とも国交が開かれ、神秘も神秘ではなくなることでしょう」

 アルダスは大英帝国を背負っているような口ぶりで言った。

「それは願ってもない。私は今は、国に帰りたくても帰れないのですよ。出来るのは待つことだけなんです」

 二人のほかの会員達はディナーに没頭している。家畜の給餌さながらだ。今この瞬間、テーブルを挟んでたった二人の人間が対峙しているような、そんな情景だった。空気が緊張している。

 マーカスが彼自身とフラムにしかわからない言葉でそっと告げた。フラムはなにも聞かなかったように顔色ひとつ変えずにアルダスを見つめ返した。

 緊張を解いたのはレディ・テーネスだ。

「いかがです、今宵のメニューは。アミルの羊を特別列車を仕立てて運ばせましたのよ」

「うむ、いつにもまして素晴らしいね」アルダスがレディのほうを向いて答えた。

「これが噂に聞くアミル羊かね。なんという肉だろう、口に入れた瞬間に溶けていくようだ」

 ウィリスが、口の周りがソースで汚れているのも構わずに、うっとりとした表情で言った。一同がうなずく。

 その顔がフラムの一言で崩れる。

「ああ、これは羊だったのか」つい今までのアルダスとの陰険なやりとりから一変して明るい顔でいった。

「おやおや、君はなんだと思ったのかね」ウィリスが笑いをこらえながらおどけた口調で聞き返した。

「とにかく、魚でないことはわかったんだが」

「相変わらずだな、君は」ウィリスが笑い出した。「レディ、どうかこの失礼な王子を勘弁してやってほしい。卿はまっったくひどい味オンチでね、きっとあまりに長生きしすぎて、舌がミイラのような干物になっているに違いないよ。革靴とフィレミニヨンの区別もつかないんだからね」

「失敬な、それくらいぼくにだってわかりますよ」

「ほう、どうわかっているのかね」

「地面の上にあるのが靴で、皿の上にあるのが肉ですよ、もちろん」

 フラムは大まじめな顔をしていった。ウィリスもまじめな顔で応じた。

「それでは君は、エクストリームケバブを知らないようだね」

「なんだって? 私がエクストリームケバブを知らないって?」

「そうとも。山の上やポロの馬上、ストリートの真ん中、ありとあらゆる場所で肉を焼いて食べるスポーツさ。この数年、ロンドンで流行っているのだよ。つまり、肉は常に皿の上にあるとは限らない、ほらね、そういうことさ」

 その次に運ばれてきたのはプディングだ。

「ほう……これはこれは。新作だね」

 人々は白いぶよぶよした塊をスプーンですくって、幸せそうな顔をした。煉乳とナッツのペースト、ミント、それに……

「このソースはなんだろう」

 暗紅色のソースがかかっている。なにか果物のようだが誰も味わったことがなかった。

「ラズベリーでもない、ルバーブの風味もあるようだが」

「――エジプシャンベリーです」

 驚くべきことにその言葉を発したのはフラム卿だった。彼はじっと皿の上のプディングをのぞきこんでいた。

「エジプシャンベリー?」

 不意にフラム卿がマーカスのほうを振り向いて早口でなにかを叫んだ。またもや他人にはわからない異邦の言葉だが、真剣な顔からして重要なことだとはわかった。マーカスが一礼して退出していく。

「どうかなさいまして?」レディ・テーネスがきいた。

「いえ。少々思い出したことがありましてね」

「エジプシャン……、聞いたことがあるな、アジア原産だとか」

「なつかしい味です。とてもなつかしい」

「苦味が強くて食用に向かないという話では」

「苦味を消すための特別な処理法がありましてね。これを自力で見つけたのなら、レディ、あなたのシェフはよほどの天才でしょう」

「君の口から料理人への讃辞がでるなんて、まるで森が走って逃げていくようだな」ウィリスがからかった。

 ディナーはデザート、コーヒーと進んだあと、男性客らはシガールームへ移っていった。

 私はシガーはやりませんので、と、いとまを告げたフラム卿は、三〇分もしないうちに騒動とともに戻ってきた。

 がやがやと人々の騒がしい声がする。なにごとかと客達はラウンジチェアから腰を浮かせた。

 庭園に面したフランス窓があわただしく開け放たれる。クラブハウスの私設の警備員らが瀕死のフラム卿を担いで運んできた。マーカスがつきそう。フラム卿は緋衣を脱いでいたが、山吹色のシャツの胸は真っ赤に――緋色ではなくもっと濃密な赤に――染まっていた。

 警備員の一人が奇妙なくらいに冷静な態度でレディ・テーネスに事情を説明している。

 このところ、シティでは労働者階級が徒党を組んでデモをしたり、時には暴動じみた騒動を起こしたりしている。それでシティの辺縁にあるこのクラブハウスでも警備を強化していたのだが。

 早めにクラブハウスを切り上げたフラム卿が、どういう気紛れか、クラブハウスの庭園を一人、散策していたらしい。灯火もない暗い庭園に人影を見かけた警備員が誰何したが、フラム卿は警備員にはわからない異国の言葉で返事をしたか、あるいはなにも答えなかった。そこで警備員が手にしていた拳銃を発砲し、その鉛弾が卿の胸に情熱的なキスをした、というわけだ。

 騒然とした客達をよそに、フラム卿は奥へと運ばれていった。

 寄木細工の床の上に血溜りが点々と残される。その中になにかがキラキラ光るのに気づいた者がつまみ上げてみると、それは卿の緋衣からこぼれたダイヤモンドだ。



 医者でなくても重傷だとわかる。弾丸は若者の胸のド真ん中を貫通して背から抜けていた。

 フラムは休憩用の小部屋に運ばれてカウチに寝かされた。苦しげに浅い呼吸を繰り返している。

「医者を」

 レディ・テーネスが呼びに行かせようとするのを、フラム自身がかすれた声で止めた。そのとたん、口から血の塊があふれる。

 扉の向こうでは紳士や淑女達に従業員達までもが騒いでいる。

「卿、しっかりしてくださいよー」

 マーカスは声を掛けながら、フラムの赤い上衣から、ちょうど長さも太さも鉛筆のようなガラス管を数本とりだした。

 それがどうやら注射器らしいと周囲の者達が気づくより早く、いきなり、マーカスはチューブのとがった先端をフラムの首筋に突き立てた。

 続けさまに二本。

 人々は固唾をのんで目の前で奇蹟が進行していくのを見守った。

 胸の傷から勢いよく吹き出して包帯がわりの布を朱に染め続けていた血が止まり、傷口が見る間にふさがる。

 苦しげだった呼吸が徐々に静かなリズムに戻っていく。苦痛にゆがんでいた顔も端正さを取りもどした。いつのまにか首筋の傷も消えている。

 じきにフラムは昼寝から目が覚めたように目を開けて、ゆっくりと上体を起こした。

「ひどい目にあったな」そして咳き込んで肺に入っていた血をはきだした。

 遠慮の静寂を拍手で破った者がいる。

「素晴らしい、実に」レディ・テーネスだ。隣にはいつのまにかアルダスが立っている。「失礼ですけど、わたくしはもうてっきりダメだと思いましたわ。さしもの神秘の貴公子も、心臓を撃ちぬかれては助かるまいと。ですが奇蹟をこの目で見られるなんて。これがミスティークの奥義ですのね。卿が不老不死だというのも、信じられそうですわ」

 フラムは謎の言葉で悪態をついてから、「そう手放しで喜べるようなものじゃないんですよ、これは」

「なぜ? 不老不死なんて、誰もが願ってやまないのではなくて?」

「こんな詩を知りませんか――あまねく人の一生に降りそそぐ 歓喜の恩寵に量の多寡はなし 短く激しく燃え尽きる生もあれば 長く穏やかな生もある どのみち全ての人の幸福を集め合わせたところで 朝の光の一条に満たず」

「ずいぶんと悲観的なロマンチシズムですのね」

「この詩は内向的なアイロニーなんかじゃなく、真実だったのですよ。私は生の時間とひきかえに、生の喜びを手放すことになりました」フラムは陽気な美貌をかげらせ寂しさをこめて独り言のようにいった。「しょせん人の技では、神の御手をかいくぐることなどできないのです。音楽はただの雑音としか聞こえず、目に映る世界は色褪せ、類い希なる美女を前にしても胸の高鳴りは消え、香しいはずの薔薇の匂いすらもはや、わたくしの鼻腔をくすぐることもない。肌に触れる風はイラクサのように刺すばかり。それになりより――どんな料理を口にはこぼうと、砂をかむのと変わらない。

 副作用は他にもあります。このエリクサーの効果は永続的ではない。今のように致命傷を負ったときにはユニットを追加しなければならない――そして効果が現れるまで、死にあたいするだけの苦痛を味わい続けるのです。おわかりでしょう? エリクサーで生き続けることもできるのに、なぜ、そんな人がいないのか。永遠に苦痛のみを味わう、そんな生にどんな意味があるというのでしょう? わたくしはそれでも、いつかわたくしの国に帰るために、生き続けねばならないのです」

 レディ・テーネスも、そのほかの者もみな、黙ってしまった。

「――ところで、なにかあたたかい飲み物をいただけませんか」

 フラムは元通りの明るい表情に戻ってたずねた。

 すぐさま厨房からエッグノッグが運ばれてきた。料理長のレインみずからが銀のトレイにカップをのせて持ってきた。

 レインは、いましがたの騒動の一部始終を、扉の向こうから見ていた。頭が混乱気味だ。フラム卿にいわれた言葉が脳裏で飛び跳ねている。

 一時間近く前のことだ――



 ディナーのサービスが一段落したとき、レインはすっかり打ちのめされていた。敗北感に。

 それに、レディ・テーネスに。

「役立たずだね、おまえは」

 レディ・テーネスがスカートをつまんで裾をすこし持ち上げたかと思うといきなり、レインのすねを蹴りつけた。不意を突かれてレインは敷石の上に倒れる。

 厨房の勝手口から裏庭にでたところに呼び出され、お小言をちょうだいするとは予感していたが。

 いきなり癇癪だ。

 倒れたレインの脇腹を、さらにレディ・テーネスはつま先で蹴った。

 あいにく、レインは高雅な性的嗜好を持ち合わせているわけではなかったので、痛みにうめいただけだった。

「二年前に拾ってから、おまえのその腕にはいろいろと役に立ってもらったけども。なにより肝心なときに役に立たないとはね」

「よしなさい」

 アルダスが苦笑しながらレディ・テーネスをとめた。

「彼の落ち度ではない。少々甘く見ていたようだ。あの緋の王の――味オンチをね」

 アルダスはレディ・テーネスを押しのけて、レインの傍らにかがみこんだ。

「次の機会がもしあったなら――これを使いなさい」そういって小さな瓶をレインの目の前にかざした。「緋の王の口にするものに、これをたっぷりとね。君の料理の魅力を、いっそう、高めてくれるよ」

「これは……なんのスパイスですか?」

「これ自体はほとんど無味無臭さ」アルダスは小瓶をレインに握らせながらいった。「いや、すこし、苦みがあるけども。まあそんな些細な味なんかどうでもよくなる。これは、私の魔法なのだよ」

 アルダスは紳士然とした穏やかな笑顔でそういった。

 レディ・テーネスと彼が連れ立って邸内に戻っていってから、レインはよろめきながら立ち上がった。

「なにが魔法だ」小瓶を見つめて小さくつぶやく。

 レインはレディ・テーネスの雇われ人だが、彼女の一番の〈お友達〉、アルダスのことは多少なりとも知っている。アルダスは表向きは退役軍人で中堅の貿易会社を運営しているのだが、扱っているのは繊維や食料と、さらにその数倍の規模の阿片や武器弾薬だ。軍部とのコネも太い。アジアやアフリカ各地の植民地での住民の抵抗組織を制圧する、非正規の傭兵団にも関わっているらしい。大英帝国を陰で支えている裏産業の一人、というわけだ。

 ならば彼のいう〈魔法〉の正体もなんとなく知れる。

 熾火のような怒りを抱えたまま自分も厨房に戻ろうとしたとき再び頭痛がおそってきて、レインはこめかみをおさえた。

 足音がする。はっと顔を上げると、生け垣の暗がりから人影がそっと出てくるところだった。

 今さっきまで話題にしていた〈緋の王〉その人だ。緋衣は脱いで腕にかけているが、その夜目にもめだつ赤毛は隠しようもない。

「フラム卿……」

 レインは驚いて声がうわずった。

 そのフラム卿がレインに歩み寄ると、いきなり、抱きついてきたのだから、なおさらだ。

「やっと会えた――」

「ちょちょっと!な、なんです!?」

 レインは動揺して必死に手足をふりまわしフラムを引き離した。

 今度はフラムのほうが意外そうな顔をしてレインをみつめた。

「ぼくのことを憶えてないのか?」

「すみません、オレ、二年前より昔の記憶がないんです。気がついたら、ベイカーストリートの真ん中で雨に打たれてて――レインて名前のほかはなにも思い出せなくて。そのあとレディに拾われて、オレにはどうやら料理の才能があるらしくって、でも、どこで修行したかもわかんないんですけど――卿は、オレがどこのだれか、知ってるんですか?」

「ホントになにもおぼえてない? ――じゃあ……何から話せば、信じてもらえるかな」フラムは困ったような顔をして、ためらいがちに話を続けた。「ええとね、レイン、君とぼくは、同じところから来たんだ。ロンドン中、いや世界中探しても、君とぼく、二人だけ」

「卿は東洋から来たのではないんですか?」

「方便てやつだよ。そういっておけばみんな納得してくれるからね。ここの人達は東洋についてろくに知らない。ぼくらの国はもっとずっと遠いところだよ」

「東洋より遠いって――」レインは夜空を見上げてふと、先日、フランス人の給仕頭の男が読んでいた小説を思い出した。

「月世界、とか――?」冗談のつもりだったが。

「おしいな。実際の月は岩と砂のほかは空気も水もなくて、生き物なんか住めやしないよ――ぼくも自分で行ってはいないけど」

「月でもなくて、地球上のどこよりも遠いところって……?」

 フラムは額に手を当てて、しばし黙った。なんと説明したらいいか、考えているらしい。

「……月世界はヴェルヌだけど――ウェルズは知ってるかな。ハーバートGウェルズ」

「ええ、我がイギリスの作家ですね」

「その彼が『タイムマシン』て書いたろ」

「科学者が自作の機械ではるか未来に行ってしまう話でしたか」

「それと似てるんだけどね。それとは逆に、ぼくたちは未来から来たんだ。いや、八〇万年後なんて先じゃない、たぶん、二千年か三千年くらいだと思う――このへんは意見がわかれてて、はっきりしないんだけどね。五千年から一万年て説もあるくらいだ」

 レインには彼の話が飲みこめない。フラムは真剣な顔をしていた。

 事故だったんだ、といらついた口調でフラムは続けた。

 フラムは科学者で、時間と空間に関する新たな理論の実験をしようとして、そのとき事故が起き――実験室ごと時空のかなたに弾き飛ばされてしまったのだと。

「竜巻に巻き込まれたみたいに、気がついたら見知らぬ土地に放り出されてたんだ。けっきょく、ぼくが着いたのは今から三百年くらい前のアジアだった。

 君も事故に巻き込まれたのはわかっていたし、状況を分析して君がこの一八〇〇年代のイギリスにいることは推測できた。ようやく再会できたってのに、君はすっかり忘れてるなんて。三百年かかったんだぜ。ぼくはあのプディングですぐに気づいたんだけどな」

「……すみません、ほんとに憶えてないんです」レインはいったん謝ってから、「でも、三百年なんて。未来の人間はそんなに長生きなんですか」

「ぼくの専門は生物分子工学でね」フラムは長衣の内側から透明なペン軸のようなものを取り出した。中空のチューブで液体が満たしている。

「ぼくは〈エリクサー〉ていってる。中身は分子ロボット、人工の微生物だ。これが加齢や病気やケガなんかによる組織の損傷を即座に修復してしまう。いわば不老不死という病気にかかってるようなものなんだ」

「すごい――未来にはそんな技術まであるなんて」今のレインには、フラムの説明の細部はちっともわからなかったが、とにかく、それがすごい技術だということはわかった。

「いや――」しかしフラムは暗い顔をした。「これはまだ不完全で不確かな技術なんだ。とりあえず三百年は有効だったけども、三千年はどうかはわからない。だいたい、この地球が三〇億年かかって作りあげた生命の機構を、たかだかぼく一人の研究で覆せるとは思えない――ぼくにはなにもわからないんだ」

 フラムは「わからない」を連発した。

「そんな不確かな技術を自分で試したんですか?」

「ほかにどんな方法があるって? あの時代に帰るのに。そりゃあさ、たいした時代じゃないかも知れないよ。この歴史時代とどっちがマシかって。だけど、ぼくはどうしてもあの時代に帰らなきゃいけないんだ。君もいっしょのつもりだったけど、君があの時代のことをなにも憶えてなくて、この時代の人として生きてく気になってるのなら――」

「オレはほんとに、未来から来た……?」

「君は料理の天才だろ。ぼくらの時代の学習法だよ。君は古い時代の文化、とくに食文化について研究していた。ぼくらのいた時代は文化的にはサイアクでね。この歴史時代と、ぼくらの時代のあいだのどこかで、なにか、とてつもない、とんでもないことが起きたらしい――なにが起きたのかもよくわかってない。だから歴史時代のことはあまり知られていない。書物とか断片的な資料しか残ってないんだけど、データを高効率に集積して、資料をまるごと記憶する。そういう知識はいわば焼き付けたものだから、とても頑丈で滅多には壊れない。だけど自分が実際に体験した記憶は生ものだから意外とヤワで――だからきっと事故のショックで記憶を失ってしまったんだろうな」

「オレの記憶を取り戻すことはできますか?」

「それはわからない……器質的な脳の障害かも知れないし。徹底的に調べれば原因がわかるかも――だけど脳にもっと大きな損傷をあたえてしまうかも。それでも試すならぼくの屋敷に訪ねておいで」



 フラム卿が警備員に銃撃されたのは二人がわかれたすぐ後だ。

 レインはフラムのいったことに半信半疑だった――自分は全く憶えていない、全てはフラムがいっただけだ。レディ・テーネスには話していない。なにを話せばいいのかもわからない。

 テイラーレーンのフラム卿の屋敷を訪ねてみたいとも思う。だがわけも話さずレディ・テーネスが許可をくれるとはおもえない。

 そんなわけでレインが思い悩んでいた三日後のこと、今度は真っ昼間にフラム卿がレディ・テーネスの元をおとずれた。

 紺碧の優雅な車体から、ルビーのような赤毛に赤と金の豪華な東洋風の衣装をまとった卿が降りてくる。陽光を浴びて昼なお全身が煌きに包まれて見えた。

 レディ・テーネスが表面上はにこやかに出迎える。急な訪問に驚き、よりもむしろ警戒をして、しかし顔にはシワひとつ感情を表さない。

 アフタヌーンティの時間にはやや早いがティルームに通されたフラム卿はテーブルに着くなり切り出した。

「レインを私の屋敷で雇いたいのです。ちょうど腕のいい料理人を探しているところでしてね」

「あら、卿はなにも味を感じないのではなくて」

 レディ・テーネスはフラム卿とレインに関わりがあることを勘づいていた。あの会合の夜、二人が話しているのを遠くから見た。会話の内容まではわからなかったが。

「私の屋敷で食事をするのは私だけではありませんよ。並大抵の料理人ではすぐに逃げてしまうんです、どういうわけか」

「急な話ですわね。〈緋の王〉ともあろうかたがたかが料理人一人になにをこだわるのかしら」

「実をいえば、レインのことは前から知っているんです。彼が記憶を失う前からね。できれば彼を引き取って治療をしたい」

「そうでしたの。それにしてもレインは〈ハンガースクラブ〉の名物ですのよ。あなた方がどんな関係であれ、彼を手放すなんてできませんわ」

「そうおっしゃると思いました。あくまでビジネスライクに、引き抜き料をお支払いしましょう」

 フラムは懐から折りたたまれた絹のハンケチをとり出し、その中からなにかをつまみだして無造作にテーブルのうえに置いた。

 エンドウ豆ほどの大きさの無色透明の宝石だ。

 レディ・テーネスの肥えた目には一目で見て取れた。丁寧にカットされた大粒のダイヤ。テーブルのうえに置かれているのを見るだけでも上質の品とわかる。アジアの皇帝の冠についていそうな――

「そうね、年若の使用人にしては充分すぎる品かしら。でも彼は私の大事なスタッフなの」

「これでは不充分ですか?」

 フラムはハンケチの中身をテーブルにぶちまけた。

 十個ほどのダイヤがちらばる。いくつかは勢いあまって床にこぼれた。どれも最初の石と同等の大きさと質の石ばかりだ。

「彼の腕が金銭ではかれると思って?」さすがにレディ・テーネスの声が震えた。

「うーん、レディ・テーネスはダイヤはお気に召さないみたい」

 急にフラムがくだけた口調でいって、指を鳴らした。


 レディ・テーネスは気付いていなかったが、そのとき、レディの館の庭園の反対側の木の陰にはフラムの執事のマーカスが潜んでいた。

 直線距離でおおよそ五十メートル。

 マーカスは肩にカービン銃を構えて、外連好きの主人の合図をじっと待っていた。照準は主人の手元のすぐ先に合っている。スコープなんか彼には必要なかった。

 遠くで指を鳴らす音。

 マーカスは電子トリガーに触れた指に軽く力を込めた。

 彼が構えているのは外見は武骨なカービン銃だったが、中身は全く違っていた。その銃身には金属筒のバレルではなく光共振器が仕込まれていて、高出力の赤外線を発するようになっている。

 誘導放出で増幅されたコヒーレント光線が、ほぼ瞬時に空気も窓ガラスも突き抜けて標的とされたダイヤモンドに到達する。

 この時代の人間には、LASERの原理について説明しても理解できないだろう。アインシュタインがまだ十代なのだから。



 刹那の間をおいて、テーブルの上のその小石のひとつがいきなり小さな炎をあげまたたくうちに燃え尽きた。

 なにがおきたのか、手品にしか思えない。

「……わ、わかったわよ。あの子をどこへでも連れてきなさい」

 レディはテーブルの上のダイヤをかき集めながら、くやしまぎれにいった。

「たかだか使用人一人に、こんなバカげた身代金を払うなんて、大した御大尽ですこと!」

「それはこちらの台詞です。彼の身がたかだかダイヤで引換えにできるなら安いものですよ」



「卿、ありがとうございます」

 廊下でレインはフラムに向かって頭を下げた。

「他人行儀だな。ぼくの知ってるレインはもっと、クールだったぜ」

「オレは憶えてないんですってば。それに、あのダイヤ……オレにあれに釣り合うだけの価値があるとは思えませんよ」

「あれは人造だよ。石炭から作ったんだ。あの程度のサイズならわけもない」

 二人はつれだって館のエントランスから外へ出た。

 紺碧の車体が二人の前に停まる。いつも通りの何食わぬ顔をしたマーカスが、運転席から降りて扉を開けた。

 乗り込もうとして、ふと、レインは背後の建物を振り返った。

 二階のバルコニーにレディ・テーネスが立っている。手摺に手をかけてこちらを見下ろしている。

 その彼女が笑ったようにみえた。レインは直感的に危険を感じた。彼女の元にいて、彼女があんな表情をするのはきっとなにかをたくらんでいるときだというのがわかっていた。

「卿……じゃない、フラム、気をつけて――」

 そういいかけたとき、銃声がした。

 喉からかすれた叫び声を発してレインが崩れ落ちる。

「レイン!」

 フラムが慌ててレインの身体を抱きかかえた。マーカスが駆け寄った。

 フラムはとっさに建物を仰ぎみたが、すでにバルコニーには誰もいない。

 レインの胸に小さな銃創ができて背中から抜けている。傷口は大きくない。弾速の速い長銃――軍用ライフル銃か。

「クソっ、マンネリな連中め!」

 フラムは悪態をつくとエリクサーのチューブをつかみだした。

 それを目にしてレインは、苦痛とショックで遠のく意識の底から必死に叫んだ――つもりだが実際にはかすれた声でうめいただけだ。

「やめろ……オレの感覚が……」

「うるさい、そんなこと言ってる場合じゃない」

 チューブが首筋に突き立てられる――その痛みは一瞬で、火のように熱い液体が注ぎ込まれ全身に広がっていくのを感じる――その熱に脳まで焼かれるような感覚がしてレインは気を失った。



 競馬場の観覧席に向かう途中、アルダスは首筋に突然、刺すような痛みを感じて反射的に手でおさえた。はじめはハチに刺されたと思った。

「どうした?」

 並んで歩いていた友人が声をかけた。

「あ……」のどが焼けるようにかわいて声にならない。

 振り向くと鮮やかな赤が視界に入った。

「フラム卿……」

 フラム卿は、今日は頭のてっぺんからつま先まで完璧に英国紳士の正装で固めていて、トップハットとフロックコートにドラゴンの握りのついたステッキまで手にしていた。アルダスはその杖が特殊な仕掛けのあるものだとすぐに気がついた。彼自身がそのような仕掛けをしばし使っているからだ。隠されたトリガーを引くと隠された射出孔から小さな針やその手のものが飛びだして対象に刺さる。針にはきっとなにかの薬物が塗られているのだろう。あるいは目の前の敵が得意とする、得体の知れない東洋の秘薬か。

「ご安心を。それはそのままならなんの影響もない」

 フラム卿がそっと歩み寄って耳元でささやいた。歌うような異国の旋律で、あくまでも優しく。

「でもそれは私の気分次第。それは私の魔法。もしもあなたがお望みならば、たちどころにあなたの心臓を止めてさしあげますよ」



 夢のなかで、果てしない砂漠をどこまでも歩いていた気がする。



 レインの意識が戻ってまっさきに目に飛び込んできたのは、緑の洪水だった。

 鬱蒼とした木立……蒸し暑い大気……そのまん中に置かれたソファのうえに寝かされていた。

 温室だ。キューガーデンのパームハウスのような。

 レインは頭を振りながら立ち上がった。胸の傷は完全にふさがっている。

「お目覚めになりましたか」マーカスが声を掛けた。

「ここは――」

「ぼくの屋敷の書斎兼温室だよ。気分はどうだい?」

 部屋の向こう側、巨大な葉をつけた木の根本にデスクが置かれて、フラムが座っている。

「なんともありません……爽快そのものですよ、でも、」

「けっこう。エリクサーはぼく以外にも有効だとわかった」

 フラムは満足気な顔をした。

「あの連中もあれであきらめてくれるかな。思い知ったろうし。ぼくみたいなマッドサイエンティストを怒らせたらどうなるか、ね」

「ご自分でおっしゃいますか」

 マーカスがレインにホットウィスキーのグラスを差し出しながら、あきれた口調でフラムにむかっていった。

「だけど……オレはもう、料理はできない……」

「あ――あれか」フラムは少々口ごもって、「あれ、ウソだよ」

「え? じゃあ、味がわからないってのは」

「卿の味オンチは、生まれつきの天然モノですよ」

「そこまで君が憶えてないなんてひどすぎるな。エリクサーも完璧な薬じゃないし、副作用があるのは確かだけどさ。まあちょっとだけ禁断症状がでるとかね」

 その、「ちょっと」という部分が気になったが、詳細はたずねることができなかった――怖くて。


―――― 了  

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