獣臭い
練習用に書いた短編です。
今日、とうとうクビを言い渡された。元々営業に向いていなかったし、あんなブラック企業いずれ辞めてやろうと思っていたのでさほどショックは無かったが、これからどうすればいいのか考えるといささか頭が痛い。
クビの原因はやはり彼女だ。彼女の獣臭い体臭が僕の体に移り、その臭いがことごとく顧客に悪い印象を与えたおかげで全くを成績を残せなくなくなってしまったからだ。以前は合わない仕事ながらも努力しただけの結果を出していただけあって、少しばかり煮え切らない気持ちが残る。
僕は無駄に歩き回ってクタクタになった足を軽く揉み、アパートの階段を重い足取りで上った。一階の部屋にすれば良かったと酷く後悔している。アパートを借りる時、一階と三階で二つ空き部屋があったのだが、眠る時上の足音がうるさいと困るし、近隣の建物が陰になって日当りが悪いような気がしたので三階にした。たしかに日当りが良くて洗濯物もよく乾くのだが、十五時間ぶっ続けで働いた後の足はたかが階段を上るだけでも骨が折れた。せめて正面のアパートがもう二メートルだけ西にずれていたら一階を選んだかもしれないのに。もっとも、このアパートももうすぐ離れることになるかもしれないが。
僕はやっと三階の廊下にたどり着くと、手すりに寄りかかり荒くなった呼吸を整えた。部屋までのわずか三メートルが歩けそうにない。全身汗びっしょりでふくらはぎが悲鳴を上げている。きっと精神的にも疲れているのだろう。鏡を見たら酷く情けない顔をしているに違いない。
あと少しだけ歩けばくつろげる。そう思い僕は気力を振り絞って足を上げた。そしてやっとの思いで部屋にたどり着くと、明るい室内に虫が入ってこないよう急いで部屋に入り、ゆっくりと鍵を閉めながらため息を漏らした。
「おかえりなさい」
かすかな獣臭と共に小さな声がした。振り向くと、彼女が玄関の傍の廊下でじっとりと僕の顔を見上げていた。
彼女はとてもわかりやすい。感情がすぐ体に出る。顔や声でどれだけ嘘をつこうと、腰から下に伸びる取ってつけたような蛇の胴体を見れば一目で本心がわかってしまう。喜んでいる時はうねうねと波を描き、悩んでいる時や考え事をしている時はとぐろを巻き、怒っている時は上半身を持ち上げるように高く伸ばす。今の彼女は上半身を低く下げ、廊下一面に胴体をだらしなく伸ばしていた。気が沈んでいる証拠だ。わざわざ玄関口で待っていたところを見ると、また何かやらかしたに違いない。
「ただいま。どうしたの?」
僕は少しげんなりした様子で言うと、彼女は申し訳なさそうに指をいじりながら言った。
「あのね……なんかパソコンが変になっちゃったの」
「変って、どんなふうに?」
「なんか、パスワードが出なくなっちゃったの。お願い、ちょっと来て」
そう言って彼女は僕を急かすようにリビングの方に体を向けた。丸一日外回りをして疲れきった僕を気遣う様子はない。僕はため息をぐっと我慢しながらゆっくり靴を脱いだ。せめてお疲れさまの一言でもあればもう少し気持ちよく向かえるのだが、何せ一日中家から出られない彼女にとってインターネットは欠かす事のできない生活の一部だ。それが壊れたとなれば愛する彼氏の体調などどうでも良くなってしまうのだろう。
リビングに入ると彼女は既にパソコンの横に待機していた。ご丁寧なことにデスクチェアを引き、僕がすぐ座れるように準備してある。僕はあえてゆっくりとスーツを脱ぎ、ただ待つしか無い彼女を焦らした。自分でも意地悪だと思う。だが毎日家で暇つぶしして過ごす彼女に少しでもイライラをわけてやらなければ気が済まなかった。
僕は急かすような視線を浴びながら丁寧にスーツをハンガーに掛け、やっとモニターの前に座った。画面には動画サイトのログインページが映っていた。彼女は待ちかねたように上半身をせり出し、画面上を指差した。
「ここクリックしてみて」
僕は言われた通り、指差されたパスワード入力枠をクリックした。なるほど、今まで自動で出てきたパスワードの黒丸が表示されない。
「ほら、出てこないでしょ? 私パスワード覚えてないからどうしようもなくて、ずっとアニメ見れなかったの。なんとかして」
彼女は僕が直して当然と言わんばかりに困り顔を見せた。普段なら可愛らしいと思える顔も今は苛立ちしか覚えない。たかだかアニメを見たいがためにわざわざ疲れている僕を呼び止めたのか。こっちは汗まみれの体が気持ち悪くて仕方が無いってのに。
僕はこんなつまらないことにかまってられないとばかりにキーボードを鳴らし、さっとログインしてみせた。彼女は小さく「あっ」と言って喜び、ほんの少し身を乗り出した。
「それじゃあ僕は風呂に入ってくるから」
そういって僕が立ち上がろうとすると、彼女は僕のズボンの裾を掴んで引き止めた。
「待って、まだなの。他のページもログインできなくなっちゃったの」
「他も? ……何したの?」
聞くと、どうやら彼女はパソコンの動作が重いので軽くする為に遊ばなくなったゲームや観覧履歴などを消しているうちに、自動でパスワードを入力するキャッシュも消してしまったらしい。大した問題ではなかったので安心したが、知識の無い彼女にこうも勝手にデータをいじられてしまうと非常に困る。
「絶対にデータを消したりするなって前にも言わなかったっけ?」
「ごめんなさい……」
僕が当てつけるように言うと、彼女はしゅんとうつむいてしまった。いつもこうだ。怒られた時だけ反省して、また同じ問題を繰り返す。いっそ彼女からパソコンを取り上げてしまおうかとさえ思う。だがそれは無理だろう。彼女はもう文明の利器から離れられない。
僕は深いため息を吐くと、「わかったよ。後で全部入力しておくから」と言って彼女の頭を撫でた。そうしないと彼女はいつまでも押し黙ったまま許しを乞い続ける。
彼女はかすかに胴体をうねらせ、尚も深刻そうに「ごめんなさい」と言った。本当はホッとしているくせに。僕は彼女に涙目を向けられながら風呂場に向かった。
一応家事だけはしっかりしているようで、狭い浴場はわずかに獣臭いものの清潔で、38度の澄んだ湯が張られていた。僕はさっさと全身の垢を落とすと、やっと湯船で休むことができた。暖かいため息が出る。
このまま二度と動きたくない欲求にかられながら、なんとなく結露した天井を見つめ、思った。
彼女は連れてくるべきではなかった。
僕が彼女と出会ったのはある田舎の山奥だった。仕事に行き詰まり、気分転換に森林浴をしようと登山をしたら、ひょんなことで道に迷い、僕は一人夜の山奥に取り残されてしまった。かなり木々が生い茂っていたが、その日は運良く満月で、不安はあるものの視界はさほど悪くなかった。僕は熊などを警戒して電波の通じないスマートフォンから音楽を鳴らしながら歩いていた。するとその音楽に誘われてか、木の陰から彼女が現れた。
初めはその異形に恐怖した。夜の山奥で下半身蛇の少女が現れたのだ。恐れを抱かずにはいられない。だが彼女は僕の不安と裏腹に、襲ってくるでもなく、日本語で電子機器に対する興味を示してきた。そしてにょろにょろと近寄り、目を輝かせてスマートフォンの画面を覗き込んだ。
その時僕は、図らずも彼女に見とれてしまった。月光を浴びた華奢な体は白く輝き、鱗一枚一枚が艶かしくぬめった。僕の視線は彼女の愛らしい笑顔とピンク色の乳房に吸い込まれて行った。その神秘的な美しさに、つい劣情を覚えた。
僕は彼女をスマートフォンで遊ばせるうちに、家に帰ればもっと面白いものがたくさんあると言い、純粋な彼女を招いてしまった。森の地理を良く知る彼女に道案内を頼み、山を降りた先で借りたレンタカーに乗せ、夜中こっそり僕の家に連れ込んだ。
思えばこれが大きな間違いだった。彼女は山の守り神達の末妹で、つまりは山の生き物だ。その体も、その精神も、本来は山で過ごすものだ。だが彼女は末妹故に仕事にあぶれ、することも無く遊んでいたので僕の誘いにひょいひょい乗ってしまったそうだ。文明の利器は山の遊びとは比べ物にならないほど面白く、彼女は瞬く間にのめり込んだ。彼女のような異形を外に出すことはできないので部屋の中でおとなしくしていてくれるのは助かるのだが、やはり小さなアパートの一室に籠っていると窮屈で仕方が無いようだった。籠の中の鳥のような扱いを受けている彼女を思うと、一時の感情で彼女を縛ってしまったことを酷く後悔してしまう。
僕は湯が少しぬるくなってきたところで風呂を出た。体を拭いていると夕餉の匂いが漂ってくる。
リビングに戻るとテーブルには一風変わった料理が用意してあった。大きめの丼に揚げ物やら焼き鳥やらが高く積み上げられた不格好な丼飯だ。彼女はニコニコと座して待っている。
「何これ?」
僕は不思議なものを見るような目で言うと、彼女は自信満々の笑顔で言った。
「知らないの? ツリー丼。今日テレビで見たの。スカイツリーの傍のお店でやってるんだって」
「ツリー丼……? ああ、そういうことか」
僕は「またか」と思い、素直に食卓に着いた。いつものことだ。彼女は外に出られない不満をこうして観光名物を模した料理にして僕に見せつける。つまりは当てつけだ。もちろん彼女の名物を味わってみたいという欲求も詰まっているのだろうが、本心では色んなところに旅行したいのにさせてもらえない苛立ちを訴えているのだ。
僕は文句も言わずそれを彼女と取り分けて食べた。彼女の熱心なスカイツリー談義や、油の向こうから漂うかすかな獣臭さが少し鼻についたが、半年料理を続けた彼女の腕前はなかなかのものだった。
僕は満腹になった腹を擦ると、鞄の中からタバコを取り出し火をつけた。毒だとは知りつつも食後の一服は欠かせない。僕が旨そうに煙を吐いていると、彼女がそれを物欲しそうに見つめていた。
「どうかしたの?」
「その……一本だけもらって良い?」
「もしかして今日の分全部吸っちゃった?」
彼女は申し訳なさそうに頷いた。一日一箱までと決めて与えているのだが、ここのところ僕が帰るまでに消化してしまうことが多い。タバコ代も積もれば馬鹿にならない。正直なところ我慢しろと言いたいところだが、教えてしまった手前、この辺り僕は甘い。僕は残り数本のボックスを渡すと、彼女はパッと笑顔になり僕の傍に寄った。そして僕に胴体を巻き付けながらタバコを一本取り出し、言った。
「ありがとう、ごめんね」
そうして彼女は火をつけ、僕の吸い方を真似るように煙を吐いた。
思えばこれも僕が悪い。数ヶ月前、どこかでタバコが毒だと知った彼女があまりにしつこくタバコをやめるよう言ってきたので、その時どういうものか試しに吸ってみればと勧めてしまったのだ。そんなもの無視していればよかったのに、おかげで今ではタバコ代が倍以上になってしまった上、更に彼女を自然生活から遠ざけてしまった。
僕がそんな思いに心を曇らせていると、不意に二人同時に灰皿に灰を落とし、手と手が触れた。その拍子に何となく彼女を見ると、彼女も僕を見ていた。彼女はじっと僕を見つめると、クスと笑って僕の肩に頭を乗せた。なぜか僕は急に彼女がこそばゆくなって、タバコを一口吸い、遠くを見ながら彼女の胴体を撫でた。そうすると彼女は僕の体を少しだけ強く締めた。
彼女の胴体は出会った頃よりかなり太っていた。幸いなことに華奢な上半身は当時のままだったが、蛇の部分は明らかに二周り、いや、三周りは太くなっていた。だが、そんな胴体に巻かれるのは厭じゃなかった。どちらかというと、今の方が心地よい。
やがて時計は十二時を周り、僕は明日に備えて寝ることにした。ベッドに潜り込み、彼女に電気はスタンドライトだけにするよう頼んだ。夜型生活が板についた彼女は深夜までモニターの前に座る。そして僕が朝出かけた後、入れ替わりに僕のベッドで眠る。暗い中でモニターの光を見続けるのはいささか目に悪いような気もするが、一間しか無い部屋でこの二人が暮らすにはこれしかない。
彼女は僕の言う通り部屋の明かりを消した。
「ありがとう。おやすみ」
そう言って僕は眠ろうとした。すると彼女はスタンドライトをつけず、モニターの電源も消した。
「どうしたの?」
僕は気になって彼女を見ると、彼女はベッドのすぐ傍までにじり寄ってきた。そして僕の顔をじっと見つめ、胴体を器用に使って布団の中に潜り込んだ。
「好き」
そう言って彼女はキスをした。急のことだったが、僕は元々そうすると予定されていたかのように彼女を抱き寄せ、お互いに唇を求めた。そして触れ合い、二人の間を遮る衣服を脱がし合った。僕らは体を巻き付けるように肌を擦り合わせ、熱い吐息を交わらせた。濃い獣の匂いがした。
僕らは情熱の時を終えると、もう一度キスをした。
「おやすみなさい。愛してる」
「僕も。おやすみ」
そう言ってしばらく抱き合い、僕の意識が朧げになる頃に、彼女は汗まみれのままシャツを羽織り、デスクに向かった。カチッとスタンドライトをつける音がする。
ベッドには彼女の汗から発せられる強烈な獣の臭いが残り、そうしてそれが僕の肌に染み込んでいく。僕の体が彼女の匂いになっていく。
意識が溶けていく中、かすかにタバコの臭いがする……
明日もまた、獣臭いと言われる。