紅茶には木苺の砂糖漬けを添えて
一
祖国を守り抜くことは兵士たるものの崇高な目的である。だが今となってはそんなことはどうでも良くて、本隊に合流して何とか命を繋げたい。私はその一心で、廃墟の街で仲間と共に身を潜めている。
指揮官を失った小隊は蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑い、各班どれほどの人間が生き延びているかは分からない。そもそも本隊というものが存在しているのかさえ分からない。班長も三日前に敵に撃たれ、助かる見込みが無いとして自決した。
通りを進むと、突如銃撃に晒された。瓦礫に身を隠して応戦する。向こうに敵の姿を認めると、我々は退却しつつ石造りの民家へ逃げ込んだ。敵を二人仕留めたが、こちらも八人いた仲間が五人になった。敵も我々と同じく、道路を挟んで反対側の建物へ逃れたようだ。
二
それから日が沈むまで睨み合いが続いた。突撃をかけて来ないところを見ると、敵も大分消耗していると見える。
夜の間は戦闘になることは無い。このユスハリスクでの市街戦において、いつの頃からか慣習的に守られている暗黙の了解である。ひと月以上に渡って続いている泥沼の戦いの中で、現場の兵にとっての束の間の安らぎである。ただし、正式な協定では無いので、呑気に頭を晒そうものなら容赦なく撃たれることになる。
良いものを見つけたと、奥の部屋を物色していた仲間がガルモーシカを抱えて戻ってきた。瓦礫に埋もれていたそうだが、幸い未だ使えそうだ。
焚火の明かりの中で奏でられる調べに、誰からとも無く口ずさむ。故郷の自然と恋人を詠んだ歌だ。ふと耳を澄ませば、敵もこちらの演奏に合わせて歌っているのが聞こえた。言葉は分からぬが、歌詞の意味はきっと同じなのであろう。最後の一つになった蕎麦粥の缶詰を貪りながら、そんなことを考えていた。
三
翌朝、当たり前のように戦闘が始まる。雪が降りしきる中のこと。演奏の腕を披露した仲間が、不意に向こうの窓から顔を見せた敵を撃ち飛ばした。それからまた睨み合いが続く。銃を構える指先が震える。
敵が動いたのは、雪が激しさを増してきた頃であった。敵の中にはこちらの言葉が分かる者がいるらしい。木の棒に括りつけた白い布を掲げ、停戦を提案したのだ。
仲間の一人が目的を問うたところ、死者を弔いたいとの答えが返ってきた。
問うた仲間が、どうするかと私に意見を求めた。敵の言うことは理解できる。こちらも失った三人の同胞が雪に埋もれたままでは不憫でならない。仲間は皆、私と同じ思いであった。
私は敵に叫んだ。こちらには提案を受け入れる用意がある。ただし、先に姿を見せよと。
ほどなくして敵の一人が姿を見せた。両手を上げ、白旗を掲げている。敵が私の要求を受け入れた以上、こちらも姿を晒さなければならない。
私はその役を買って出た。自爆攻撃かも知れない、油断するなと仲間の一人が言った。
私が倒れた時は容赦なく応戦してくれと言い、銃を置いて白いハンカチを敵に向かって揺らした。敵に動きは無い。私は一歩一歩、敵に向かってゆっくりと歩み出た。
四
睨みつけた敵兵は、何だ、我々と何ら変わらぬ顔立ちではないか。醜悪な鬼の形相であると想像していたものだが。
彼もまた私を見据える。足元に転がる同胞を殺された憎悪の念か。息苦しいほどの鋭い眼差しが私を突いた。しかし侵略し、市民を殺し、町を焼いた敵である。それを殺すのは当然のことで、怨まれる筋合いなど無い。
ふと、彼は懐から何かを取り出す。二本の煙草であった。その内の一本を私に差し出し、首を傾げるような、頷くような、そんな仕草をして見せた。
交換しようではないか。彼の意図を理解した私はポケットに手をやる。手に触れたのは残り僅かな銃弾と、くしゃくしゃの紙に包まれた黒パンであった。私は包みを開き、一切れの食糧を彼に見せた。
彼はゆっくりと、黒パンに手を伸ばす。交渉成立のようだ。
私もまた、彼が差し出した煙草を取りにかかる。お互いほぼ同時に奪い取った。
感謝する。私は敵の言葉でそう述べた。
覚えたてのつたない発音であったであろうが、彼は片側の口角を僅かに上げ、小さく頷いた。
五
交渉の様子をうかがっていた敵の男が身を乗り出し、両手を広げて何かを叫ぶ。男は握り拳ほどの塊を私の方へ投げた。
爆弾だ。味方の誰かが叫ぶと同時に銃声が響き、塊を投げた男が倒れた。私は咄嗟に雪の地面に伏せた。幾つもの銃声と、怒声、罵声。
目の前の彼は、少し驚いたような顔を見せた。
私が彼の顔を見たのはそれが最後であった。間もなく、彼の顔は銃弾に撃たれ吹き飛んだ。
彼の身体は私に覆いかぶさるように倒れ込んだ。千切れた皮膚の間から、どくりどくりと脈打つように血が流れている。柔らかい白雪が、彼の体温を帯びた血液で僅かに溶けた。
雪に染みた血の色は、そうだ。母が好んだ濃く煮出した紅茶に似ている。けれど、記憶の片隅の故郷の匂いはこんなに生臭いものでは無い。
六
やがて大きな爆発音の後、敵は我々の家に突入した。静まり返った雪の中で敵の言葉が聞こえた。何を言っているかは分からないが、こちらを罵っているに違いない。敵の罵声に重ねて仲間の絶叫。ジーマ、リョーシャ、サーシャ。三人の断末魔の声を聞く間、私は突っ伏したまま何も出来なかった。
頭を上げる。首無しになって冷たくなった彼の右手には、未だ黒パンが握られたままだ。読めない文字が書かれた、握り拳ほどの大きさの缶詰が目の前に転がっている。ニシンの絵が描かれたラベルが見えた。
雪を踏みしめる音がこちらに近づいてくる。背中の重みが解放されるや、肩を蹴られ仰向けになる。敵の顔がはっきりと見える。感情の無い顔であった。私は握りしめていた煙草を差し出した。死に行く者にはもう、それを吸う時間は無い。
敵はぼろぼろに折れ曲がったそれを奪い取り、懐にしまい込むと銃剣を突きつけた。
鋭い切っ先から目を逸らす。敵は醜悪な鬼の形相であった。私は覚悟した。
脇腹に走る激痛に、思考が途切れそうになる。皮膚がめくれ血が溢れる傷口の色は、母が作ってくれた木苺の砂糖漬けに似ている。けれど、故郷の空気はこんなに息苦しいものでは無い。
幾度も抉られる銃剣の痛みに意識が遠のく。敵の声は聞こえる。きっと、死んでしまえと叫んでいるのであろう。
降り続いている雪は、未だ止む気配は無い。私の身体はこのまま雪に埋もれてしまうのだろうか。誰かが弔ってくれると良いのだが。春先の雪解けと共に腐っていくのだけは勘弁して欲しいものだ。
要らぬ心配事であることを願いつつ、私の意識はそこで途切れた。
完