ショートカット
《場所小説》の企画に参加させていただきました。参加された他の先生方の作品も是非読んでみて下さい。
あと三十分で、六限目が終わる。
お決まりのように、クラス中がダラけた雰囲気で、ほとんどの生徒が机に突っ伏して昼寝をしている。先生でさえ、どことなく気だるげに見える。
春先の暖かくて柔らかい風が窓からふわふわと入り込む。誰もが堕落してしまうぽかぽかした午後。
「…ショートカットのさぁ」
ふと、隣の席の坂本が呟く。
「うん?」
私は顔を坂本の方に向ける。
「ショートカットの人の髪触る時って、なんか緊張するよな」
坂本は机に肘をついて、私をぼんやり眺めている。
今日は気温が上がったため、学ランを脱いでいる生徒が多い。坂本もその一人で、真っ白なカッターシャツの襟元をだらしなく開けている。
私は坂本の目をじっと見つめる。ばっちり目が合っているのに、ちっともドキドキしない。それは、私が男慣れしているとかでは全くなくて、彼の目がとても細いせいかもしれないし、思考をゆったりさせる生暖かい空気のせいかもしれない。
「どういう意味?」
私はシャーペンをノートの上に置いた。
「いや、長い髪の人なら何気なく触れるけどさ。ショートカットの人だと、緊張するって事」
坂本は頬杖を付いたまま、私から目をそらして机に何やら落書きをし始める。
「そういうもの?」
「そういうもの」
落書きに集中しながら、坂本は小さく頷いた。坊主頭が日の光に照らされて茶色く透けている。
「あんた、そんなしょっちゅう女の子の髪を触ってんだ」
私は再びシャーペンを持って前を向いた。黒板に書かれた古文をノートに写す。だけど、ただ機械的に手を動かしているだけで、思考は隣の席に向いている。
「別に」
坂本は抑揚の無い声で呟く。
私は坂本につられ、ノートに落書きを始める。このクラスの大多数の人間と同じく、黒板を見ることに意味を見い出せない私。
無意識に、ノートには簡単な花の絵が出来上がる。
「…眠くないの?」
私は花を何重にもなぞりながら言う。
「…俺、さっきの時間も寝たもん」
坂本の机には、何かのキャラクターが出来上がっていた。それに無意味な線をどんどん描き足している。
「暇だね」
「おう」
教室には、先生の声とチョークの音だけが響いている。グラウンドから、かすかに笛の音が響いてくる。
「あのさ」
私は再びシャーペンを置いて、坂本の方を向く。
「何?」
「男の子って、髪の長い子が好きなの?」
坂本は頬杖のまま、こちらにゆっくり顔を向ける。
「なんで?」
「なんとなく」
坂本の目を見つめる私は、今どんな顔をしているだろう。フンワリした思考の中を、そんな風な考えがよぎる。
私には彼氏が居た事がないし、モテた事だって一度もない。自分を見られることに慣れた女の子なら、いちいちこんな事考えたりはしないのだろう、と思う。
「…知らね」
坂本は落書きに目を落とし、線を足す。何重にも。
「あ、そ」
私はノートの落書きを消しゴムでゴシゴシ擦る。うっすらと花の形が残る。
「今日の晩飯、何かなー」
坂本はわざとらしく欠伸しながら、シャーペンを置く。
「坂本。今、何が食べたい?」
私は消しゴムのかすを机から払い落とし、何気なく髪をいじる。
「今?」
「うん」
風に髪が揺れて、毛先が頬をサラサラと撫でる。
「…なんでもいい。腹が減った」
面倒臭そうな所在をする。それはとても坂本らしい。
「ふーん……あ、良い物あるよ」
私は筆箱から飴を取り出し、坂本に投げた。
「それあげる」
坂本は手のひらの中のそれを見つめ、
「サンキュー」
と目を細めて笑った。
私は何故か慌てて、思わず窓の外に目をやる。
真っ青な空に浮かぶ呑気な雲の縁は、絵の具を垂らしたみたいにじんわり滲んでいる。なんとなく和んでしまう。春の風って気持ちいいけど、どこか懐かしい匂いがして胃の辺りがキュンとする。
「あ。この飴、お前の匂いに似てる」
坂本がボソッと呟く。
「え?」
「風が吹いたら、お前の方からこの匂いがするよ」
「あたし、飴食べて無いよ?」
私は首を傾げた。
「そう?」
「うん」
「…似てるけどなー」
「うーん……あ」
……シャンプーの匂いか。
「ん?」
「なんでもない」
なんだか胸の奥が心地よく高鳴り、私は小さく微笑む。
いつか私に彼氏が出来たら、こんな風な、誇らしいような不思議な気持ちを沢山味わうのかもしれない。そんな時私は自分の価値を分かりやすい形で実感できるのかもしれない。
坂本は私を見て、首を僅かに傾げる。
「ねぇ、坂本」
「ん?」
「今、彼女居るよね?」
「いや」
坂本は口の中で飴玉を転がしながら首を振った。
「居たことはあるよね?」
「……おう」
「ねぇ、もし彼女が出来たら……てゆうか、好きな人が出来たら、その人にどんな事してあげたいと思うの?」
坂本はいぶかしげな顔で私を見てから、何秒間か黙り込んだ。考えているようだった。
「…靴」
とふいに呟く。
「え?」
「とりあえず靴を買ってやる。サイズがちゃんと合ったやつ」
坂本の意外な答えに、私は思わず《え?》という顔をしてしまう。
「なんで靴なの?」
「…こないだ商店街歩いてたら、なんかサイズ合ってない靴履いた女の人が居てさ。しかもかかとの高いやつ。歩く度にガポガポ抜けてんの」
「うーん?」
「いや、それで。危ないなぁと思って」
私は思わず吹き出す。
「変なの」
「そう?」
「うん、変だよ」
私はクスクス笑いながら、商店街の風景を想像する。《もしかしたらその人は坂本の好きな女の子かもしれない》と思った。
女の子をヒヤヒヤしながら見守る坂本。
意外と優しいやつなんだな。
「春だな」
坊主頭は眠そうに目をこする。
春眠暁を覚えず。
「もうすぐ、授業終わるよ」
私は時計を見る。あと五分。坂本のおかげで、退屈な時間が早足で通り過ぎてくれた。
「坂本、このあと部活?」
「おう」
「そっか。頑張れ」
「おう」
グラウンドがザワザワし始める。体育が終わって、生徒が校舎に戻り始めたのだろう。
もうすぐ、校内には放課後の空気が流れだす。
私は家に帰って、ポテトチップスとチョコレートを食べながら再放送のドラマを見る。今日も昨日と同じ。多分、明日も今日と同じ。
「あ、おい」
「え?」
瞬間、坂本の手が私の方に伸びてくる。
心臓が一回、ドクッと大きく鳴った。
その手は、ゆっくりゆっくり私の顔に近づいて来る。スローモーション。私の心臓は止まる。
……触られる。
瞬時に悟った。
私はギュッと目をつむった。
周りの音がすべて消え去る。
私の髪をさわった坂本の指。
髪がサラリと小さく揺れたその刹那。ほんの数ミリ、ふわりと頬に触れる堅い指の感触。くすぐったい。
指が離れた時、やっと心臓が動き始める。ものすごい早さで。
「……何?」
声がうわずる。顔がカッと熱くなる。見られるのが嫌で、私は大きくうつ向く。
「………消しゴムのカス……ついてた」
坂本は小さな声でそう言った。
私は気付かれないように、こっそり坂本の方を向く。
坂本は頭をポリポリ掻きながら反対側を向いていた。
……あ。
私は気付いた。
……耳が、赤い。
「…ありがと」
私はほてった顔を崩して、微笑んだ。心臓が心地よく締め付けられていた。
「……うん」
沈黙が続く。気まずくて、なんだかおかしくて、私は笑い出すのを必死で堪えていた。
「……やっぱり」
坂本が何か言いかけた瞬間、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
先生は教科書を閉じ、教室中の生徒が一斉に顔を起こす。伸びをしていたり、欠伸をしていたり。あっという間に、ザワザワと活気が戻り始めた教室。
坂本は立ち上がり、首をコキコキ鳴らした。
「今日も一日お疲れ」
そう言って、足早に歩き出す。
「坂本」
私は少し声を張って、彼を呼ぶ。坊主頭が振り返る。
「触られる方も緊張した」
言って、私は笑った。
坂本は、きょとんとした後、うつ向いて頭を掻いた。
「おう」
顔を上げ、子供っぽく笑った彼はそのまま走るように教室を出て行った。
扉をすり抜け、入り込んできた春の匂いは、なんだかどこか切なかった。