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8


自分が特別な人間だと思い込んでいた。


周りの雑多で愚鈍な人間とは違うのだと。

何かの物語の主人公でいる気がした。


自分だけが世界の間違いに気付いていると思っていた。

馬鹿馬鹿しい事に自分だけが流されていないと思っていた。

全てを分かっているから自分は絶対に間違えないと思っていた。

正しくないことなどできないはずがないと思っていた。


そんなことはないのだ、とやっと分かった。

今更になって。


僕だって何も変わらない。

捻くれた、ただのエラー製造機。

塵屑みたいなその他大勢の中のたった一欠片。


救いようがないほど、低能で。

利己的で愚かで平凡なひとつ。

良くも悪くも。

悲しくも嬉しくも。




もう日が落ちて街灯の明かりが目立つ。雨も降ってきた。


ポツポツと冷たい雫が僕のシャツに斑点を落としていく。

それも次第に大降りになっていきあっという間に色が変わる。

傘は持ってこなかったし、財布も忘れた。


その上、馬鹿みたいに余裕が無かった。


眼鏡に水滴が溜まって、全然前が見えなくなってジーンズのポケットの中に突っ込む。小刻みに震えてしまうのは寒いからだけではなかった。


サクラさんの姿を完全に見失った。


逃げて行った方向へ走って追いかけたのだが、狭いビル隙間に入ってしまって振り切られた。急いで反対側をまで行ってもすでにサクラさんの姿はなかった。


「サクラさん!」


濡れ鼠になって、猫の名前を呼びかける。

すでに散歩を行った事のある場所は散々探した。

だけどありえないほどそこにサクラさんはいない。


「サクラさん」


もう一度呼んでみても、猫の鳴き声一つ聞こえない。

サクラさんは外に出るのに慣れていない。

臆病で鈍臭くてお馬鹿で可愛いだけが取り柄の、飼い主に媚び入るしか能のないような生き物。

完全に野生を忘れた家猫だ。

今更逞しくなんて生きていけない。

だから僕が早く見つけてやらなければ。


それにこの雨。

猫は濡れるのが嫌いだ。足を洗うだけでも毎回大暴れしているくらいに。

こんな雨の中、サクラさんがどうやって凌いでいるのか想像もつかない。

ざぁざぁと叩きつけるような雨音が耳に入る。


とても大丈夫だなんて思えなかった。


今日、今見つけなければ、一生、もう二度と帰ってこない気がして。


「サクラさんっ…」


あてなんかないのに彷徨い続ける。

どこかに雨宿りしようとか家に帰るとか、そんな事は考えられなかった。

ただただ怖い。

恐怖に操られたように歩き続けるしかできない。


すれ違う人は皆傘をさしている。

彼らにはずぶ濡れになって独り言を言いがらフラフラ歩き回っている自分はどんな風に見えているのか。

気でも触れたかのように見えるんだろうか。


この辺は家の近所だ。

僕の事を知っている人もいるだろう。

こんな姿の僕を見て、何を思うんだろう。

変な噂話でも立ったりするのか。


まるで他人事のように、何も感じなかった。

羞恥心とか虚栄心とかの構成要素はまるきり抜け落ちてしまっていた。


「サクラさん」


どこにもいない。

何処を探しても、何度名前を呼んでも。


「サクラさん」


もしかしたら。

もしかしたら、と嫌な事を考える。


「サクラさん」


“サクラさんはほぼ確実に僕より早く死ぬんだろうなと思って。“


「サクラさん」


“ある日いつの間にか勝手に僕の前から消えてしまうんだ。拾った恩も忘れて、僕の事などきっと顧みる事なんてしない。“


「サクラ…さん」


“好きなように好きなだけ生きて死ぬんだ。“


だって。まさか。こんな急に。あっけなく。何の前触れもなく。

ありえない。そんな現実認められない。


こんな風に突然放り出されるなんて聞いてない。


「サクラさ…っ」


前方不注意がたたったのか歩道を走る自転車に掠って、その衝撃にあっけなくアスファルトに尻餅をついた。すみません、と言いながら傘を差したまま自転車を漕いで相手はそのままどこかに消えて見えなくなってしまった。


とっさに突っ張った腕の関節が痛い。

細かく尖った路面に押し付けられた掌が痛い。

重力と衝撃のせいで迫り出した尾てい骨が。


冷たい。

頭皮に染みる雨粒が。水を含んだがズボンが。首から垂れてきた水滴が服の中に侵入していくのが。


「…嫌だ」


嫌だった。

耐えられないほど嫌だった。



「嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だぁああああああぁあああああああっ」



気違いみたいに泣き叫んでいた。

壊れて調節の効かない声量は阿呆みたいに大きい。

喉から熱いものが混みあがってくる不愉快な感覚。


「一人に、なりたく、ない」


一人になどなりたくない。



必要とされないなんて嫌だ。


誰からも何からも見向きもされないなんて嫌だ。


置いて行かれるなんて嫌だ。


捨てられるなんて嫌だ。


邪魔者役なんて嫌だ。


部外者で終わるなんて嫌だ。



嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。


好かれたい。愛されたい。守られたい。寄り添っていてほしい。傷つけないでほしい。傷つけられてほしい。捨てないでほしい。必要とされたい。特別になりたい。価値を認めてほしい。受け入れてほしい。支えてほしい。温めてほしい。慰めてほしい。殺してほしい。


山のようにある欲求。

積もる一方で満たされなくて、吐き出すこともままならない。

いつしか見ないふりをするようになった。

無かったことにしていた。


そんなことできる訳がないのに仮面の下に忍ばせて、そして案の定破綻する。


黒々とした醜い感情が溢れだす。


飲み込まれて溺れそうになって助けを求めたって、その手を掴む者は一人もいないのだ。



アハハハハハハハハハ



また笑い声が聞こえる。

一体誰の声だろう。どうしてそんなに笑っているんだろう。

耳を澄ませると四方八方から笑い声が聞こえる。


嗤われているのは僕。


ぐちゃぐちゃに壊れた廃棄寸前の塵屑。


うるさい。

苛々して頭を掻きむしる。


アハハハハハハハハハハハ


どんどん大きくなる声に耐えられなくなって立ち上がる。

そのままその声から逃げようと走るがどこまででも追ってくる。


逃げても逃げても追いついてしまう。

隠しても隠しても暴いてしまう。


アハハハハハハハハハハハ


鳴り止まない癇に触る甲高い声。

誰かの声にも似ている。

それは一体誰か。


お母さんの声。

お父さんの声。

拓也の声。

母親の声。

平山の声。

新垣春樹の声。

島崎真琴の声。


全ての、僕に関わった全ての人間の声。


「…うるさいんだよ」


はた、と立ち止まる。

もう逃げることも諦めてしまった。

絶え間ない笑い声に、弾けて脳漿撒き散らしそうになる頭。


クラクションの音がそこに混じる。


ぐにゃぐにゃに歪んでいる視界に、赤い光が映る。

それから白と黒の縞々も。


もういい。

どうだっていい。


どうにもこうにもままならない、決して満たされない世界なら。

たとえ退場を食らっても未練はない。






「なにやってんのよ、バカが」





ふいに強い力で後ろに身体が引っ張られる。

訳も分からないうちに、遠心力が働いて地面に叩きつけられる。


見上げれば飾り気のない紺の傘をさした一人の女の人。


赤縁の眼鏡に、頭の高い部分で括り上げた髪。

切れ長で聡明そうな目。

ややへの字に曲がっている唇。

実際は150そこそこの身長なのに、今は随分大きく見える。


「本当世話の焼ける奴よね、あんたは」


呆れているのか笑っているのかよく分からない声色で。


「情緒不安定、取り扱い注意の危険物。天下一の捻くれ者」


僕の前に乾いた掌を差し出す。

そんなものが無くても立ち上がれる。そもそも男の僕が本気で引っ張ったりしたら倒れ込んでしまうだろう。


いや、そうではないな。

きっとこの人なら倒れたりしない。揺らいだりしない。


「なんか様子のおかしいのが歩いてると思ったら、可愛い可愛い後輩じゃない。しかも面倒臭さ厄介さ共にダントツNo.1の篠原純ではないですか。

偉大かつ優しい先輩は面接練習でくたくたに疲れているのに関わらず彼がなんで雨の中こんな所にこんな時間にフラフラしているのか聞いてあげることにしました。どうしたの?」


動かない僕を見かねたのか先輩が膝を折る。

影が差した代わりに、僕の頭の上に振っていた雨が突然止んだ。


「なんですか、そのわざとらしい説明口調」


睨み上げたって、先輩はただ目を細めるだけだった。


「いつになく荒れてるじゃない。少年」


全く何なのだろう。この人は。

何がしたいのか分からない。全くもって理解不能。


「いつもの何でも出来る器用な篠原君はどこいったんですか?どっかに落としてしまいました?なら一緒に探してあげましょうか」


なのに、こっちの事は見透かされているという不思議。

理不尽だ。不可解だ。全く納得がいかない。

誰よりも明確なかたちを持っているくせに、いつだって正体不明。


「…いいです。ていうか傘もいいです、先輩が濡れますよ」


声がぶっきらぼうになっている自覚はある。そしてひどい顔をしているという自覚も。

もう人を気遣う気力も猫を被る余裕もないのだ。

厚意を無碍にしているとは思うが、そのまま先輩を押しのけて立ち上がろうとした。



「あー、ほんと面倒な男」



だけど逆に何もかもが押し付けられる。

嗅ぎなれない匂いに頭がくらくらした。体臭の薄くて香水の類もしない人だからこんな匂いがするなんて全然気付かなかった。

皮膚に触れた乾いた服の生地がくすぐったい。


本当は単純なことなのよ、と先輩は言った。


「正直に告白して、さっさとフラれでもすれば良かったものを。変にひねって余計な事を考えるからこうなる。余計にこじらせて周りを巻き込んでえらい大事にしちゃって」


落ち着いていて、やっぱり少しも乱れていない声がした。

ひどく近い距離で。


「あんたが部外者だったのは、島崎真琴が好きだっていつまでも認めなかったからよ。そのくせ最後まで諦めきれないで絡め取ろうと画策して。そんな卑怯者が新垣春樹に敵うはずないじゃない。そういう風に道理はできてるのよ、残念ながら」


多分、この人には最初から全部分かっていたんだと思う。

始まりも結果も全て。

それは僕を見て笑っていたはずだ。


まるで道化だ。

滑稽極まりなかっただろう。

愚か者の観察はさぞ面白かったはずだ。


「もっと笑って下さいよ、馬鹿でしょう?可笑しいですよね?いいですよ、いくらでも馬鹿な事をしてあげますよ」


ハハ、と笑い声をあげようとしたのにただの嗚咽が込み上げてきて口を噤んだ。

だけれどそんな時に限って先輩は何も言わずに僕の首にもう一方の腕も回した。支えを失った傘が大きく傾いて地面に落ちた。

いつの間にか雨はごく小降りになっていた。



「……猫が、いなくなったんです」



そんな事をこの人に言ってどうしようというのか、僕は。


「嫌なんです、一人になるのは」


これ以上惨めな姿を晒したくなんてないのに。


「一人になりたくないんです、怖いんです、怖くて仕方ないんです。死んでほしくないんです。いつまでも側にいて欲しいんです。置いてかれたくないんです」


こんな成りの自分がしがみ付いてしまったら大惨事になるなんて分かっているのに、そうせずにはいられなかった。


「部外者も邪魔者も嫌なんです。無視されたくない、気にも留められず全部なかったことになんてされたくない」


吐き出す支離滅裂な言葉に、うん、と一回だけ相槌が返ってきた。

何でかそれだけでまた泣きたくなってしまう。


こんな事言いたくなかったのに言わされてしまう。

本当の気持ちなど誰にも聞かれたくなかったのに。


この人はいつもこうだ。

何もかも見破られて、いつのまにか掌の上に転がされていて。


だから怖かったんだ。

こうやって受け止められてしまうのが怖かったんだ。


「佐倉先輩」


名前を呼べば、何?とすぐに返事が戻ってくる。


「貴女が嫌いです」


嫌いなのだ。

すごく、すごく嫌いで苦手なのだ。


僕を理解してしまう人間など嫌いだ。

全身棘だらけの僕をたやすく受け入れてしまう人間なんてきらいだ。


大嫌いだ。


「悪いけど、私の方はあんたが結構好きよ。篠原」


面倒くさいとか厄介だとか好き勝手言っておきながら、そんな事をあっさり吐き捨ててしまう所も。


全部。全部。


なのに、僕の腕は勝手に力が籠る。

折角手に入れたたった一人を離さないよう縋り付く。



この人の前では、こんなにも情けないほどに恰好悪くなってしまう僕はもっと嫌いだ。







■■




「…なにやってんの、サクラさん……」


一応家に戻ってみると玄関先に黒い毛玉を発見した。

呑気に毛づくろいをして、僕に気付くと「うにゅ」と鳴いて首を傾げた。

抱き上げると一応雨に降られたらしく毛並は湿気っていた。


あっはっは、と隣で先輩が豪快に笑い声を上げた。


「猫の方がよっぽど賢いわ。篠原よりずっと」


悔しいがその言葉に否定はできなかった。

サクラさんが意外と結構図太く生活能力がある。

甘やかされた箱入り猫だと見くびっていたのは僕の方。


まぁ、なんにせよ無事で良かった。


気を取り直して玄関のドアノブに手をかける。


「先輩もどうぞ、着替えとか貸しますよ。風邪ひいたら困るんで」


濡れさせてしまったのは自分のせいだし。

忘れがちだが佐倉先輩はこれでも受験性なのに。


お母さんの服はサイズが合うだろうかと思いながら家の中に入ると、何かの炸裂音がした。



「ハッピーバースデー!純お兄ちゃん!」



パンパン、と続いて弾けるような音。火薬の匂い。

身体に絡みついた色とりどりの細長い紙。


「……え…?」


頭の中が真っ白になる。

目の前には、お父さん、純君、お母さん。

それぞれ一つずつクラッカーを握りしめている。

もう既にボール紙の円錐と化してしまっていたけれど。


「帰ってくるのおっせーよ、俺すごい腹減ってるんだけど」


拓也が足踏みをしながら言った。


「おいおい、ずぶ濡れじゃないか。雨降ってきたならさっさと帰ってくればよかったのに。17歳にもなってなにやってるんだよ、お風呂沸いてるから早く入ってこい。早くしないとケーキ先に食べるからな」


お父さんが呆れた顔をしていた。既にお父さんはお風呂に入っているようでTシャツとステテコ姿になっていた。


「純君、大丈夫?お父さんの言った通りお風呂入って温まってきたほうがいいわ。あら、こちらは?」


タオルを持ってきたお母さんが先輩を見て不思議そうな顔をしていた。



おかしい。変だ。


室内のはずなのになんでタイルの上に雫が零れてしまうんだろう。

どうして喉が詰まっていて言葉を発することがかなわないんだろう。

痛いほどに目頭が熱いんだろう。


お手軽だ。こんな薄っぺらな事になんて感動なんてしてやらない。幸福感なんて考えてやらない。


そう思うのに僕の頬に滑り落ちていく意味不明の液体。

否、ただの生理食塩水。



ああ、これじゃあ馬鹿みたいじゃないか。

また笑われる。情けない姿を晒してしまう。


でも心のどこかで、それでもいいじゃないかという声がした。

篠原純が完璧人間じゃなくたっていいじゃないかとそいつは言ってのけた。


それは驚くほど単純な答えだった。


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