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『普通じゃなくたって、いい』


耳元で囁く声。鼓膜にキスを落としていくような、少し掠れた優しい声。

目を開ければ、僕の胸の上に彼女がいた。

彼女の掌が僕の肌を這い回り、素肌を押し付ける。確かな重量感に僕は満足した。

何もかもが柔らかくてそのままでいると溶けてしまいそうな彼女は確かに形と重さを持つ人だということが分かって嬉しかった。

クスクスと小刻みに笑い声をあげた彼女。

何か面白いことでもあったんだろうか。

もしかしたら笑われているのは自分なのかもしれない。

でも、いい。彼女にだったら笑われたって罵られたって構わないと思う。


『ここにあの時こなければってずっと思ってた』


冗談みたいに優しい気持ちが胸に溢れてくる。たまらなくなって温かくて滑らかな身体を抱き寄せた。もうずっと前から自分は彼女にそうしたかったのかもしれないとその髪の匂いを嗅ぎながら思った。


『結局違う形で---とは会った気がする。---が、っていうより多分私が、会いたかったのかもしれない』


どうして彼女が僕の腕の中でそんな話をするのかは分からない。

誰の話かも分からない。その名前も聞き取れない。というか聞く必要も感じられなかった。

だって、彼女は今僕のものなのだから。


『どんなに探してもそんな人いない、いるはずない』


そんな事どうだっていいじゃないか、と彼女の瞼と睫毛を唇でなぞる。なぜか自分の背中がうち震える。ぞくぞくと興奮が僕の背骨を駆け上がっていく。

怖くて異様に穏やかで、満たされているのに飢えていた。


『普通じゃないなんて分かってる。でもそれでいい、私はそれでもいいから』


そんなことを言うのなら僕の一人や二人助けてくれたっていい。

だって彼と僕はおんなじ。だったら彼女の愛情を受け取る権利が僕にはある。

なにも間違ってはないはずだ。

絶対的な存在の肯定をしてほしい、許されたい。僕がそんなことを望むのは考えてみればごく普通のことなのだろうし。


彼女の横顔に手を添えれば、彼女は小さな赤い舌で僕の指先を舐めた。

おかしいくらい官能的なその姿に酔ったような眩暈がする。

ざらざらしている舌の感触も気持ちいい。


…ざらざら?




「みゅう」


眩しい光の中、目をしばしばさせていると布団の上に黒い塊が丸まっているのが見えた。


「サクラさん…いつの間に。ってあれ?」


辺りを見渡す。ついでに布団の中とベッドの下とかも覗いてみる。

どこを見ても僕とサクラさん以外の誰もいない。この自分の部屋には。

そもそも、誰かいるはずなどない。

納得のいかないような気分に苛まれつつ認めた現実は。


夢。


確かに夢以外にあり得ない。何から何まで支離滅裂で、どうしてあんなシチュエーションになったのかも都合よくぼかされているし自分の思考まで意味不明だった。


それにしても、なんて馬鹿馬鹿しい夢を見てしまったんだろう。

くしゃ、と前髪を掻き上げた。あーと無意味に呻いてみる。


ばーかばーか。

馬鹿野郎。


さらに、起き上がろうとして下半身に冷たい感覚。いい加減もうポンコツなのかもしれないと呆れると同時にひどい罪悪感に苛まれる。この落差は何。

ああ、それにしても気持ち悪い。



階段を下りて、リビングの様子を覗いてみれば僕以外の3人はすでに食卓に着いている。


拓也は部活で朝が早いし、お父さんも職業柄出勤が早い。テレビで何かのニュースが流れている、その画面の上に流れる星座占いの事について拓也が何か言っている。チャンネルが変えられて、お父さんが拓也に文句をいう。テレビでは最近話題の人気女優の新作映画が紹介されている。お母さんが拓也からリモコンを取り上げる。それから、多分ちゃんと座りなさいとでも言ったのだろう。椅子の上で胡坐をかいている拓也の膝を叩いた。お父さんがお母さんに何か言い、お母さんが戸棚から醤油差しをお父さんの手元に置いた。いつのまにか僕の部屋で寝ていたサクラさんがそこにいて、ピンクの餌箱に顔を埋めてキャットフードをカリカリ音を立てて食べている。


タイトル「家族」。

今ここで僕がカメラのシャッターを切ればそんな作品ができる。

そこに僕はいないけど。むしろいらないのだけれど。


その世界の中に自分がいなければならない必要性などどこにもないのだ。


その光景全て背を向けて廊下を抜けて洗面所へ。

ザー、とシャワーのノズルから温水が出る。その音以外何も聞きたくなくてレバーを一番上まで引き上げた。

栓をした洗面台にどんどん水が溜まっていく。

このまま水を止めなければこの家は水浸しになるんだろうなと、考えてもしょうがない事を考える。何か見えにくいと思ったら眼鏡をするのを忘れていた。


土砂降りの音が続く。

だんだん砂嵐の音に聞こえてくる。

僕の五感全てにかかるノイズ。


気付けば発狂までのカウントダウンが始まっている。


ご、よん、さん、に、いち



白いノズルは水の中に沈められて水音は消えた。



■■■■



学校に着いてすぐ、うっかり玄関で島崎真琴を見つけてしまった。

まだ新垣君と喧嘩(と言えるかは微妙だが)しているのか一人だった。それがまた良くない。


特に島崎ちゃんが何をしたわけでもないのだが、今朝の事があってなんとなく会いたくなかった。全部僕の都合である。だから見つからないようにそっと自分の靴箱まで行こうとしたのに。



「篠原?」


なんで見つけてしまうのかな、こういう時に限って。結構鈍感なキャラだったでしょうが、君は。

溜息を吐き出したいのを堪えて、おはようと笑って見せる。

大丈夫、まだ彼女を前にしてもいつも通りの篠原純でいられる。


「新垣君はどうしたの、今日は一緒じゃない?」


「昨日勝手に尾行されていたから、次勝手に付いてきたら絶交って言ったら来なくなった。…なんか小学生みたいなやり取りだけど」


そうだね、と彼女の言葉を肯定しつつも新垣君にしてみれば一番怖い発言なんだろうなと想像してみれば滑稽で笑えた。

新垣君が彼女に近寄れないのに、僕はそれを許されているのに優越感。その心根の暗さには分かっているつもりだ。だから絶対誰にも見せたりなどしない。


「それで新垣君が分かってくれるといいね」


いい人ぶりながら、もし彼女が助けを求めるなら手を貸してもいいと心の隅で思いながら。

彼女がどうなってもいいと言っておきながら性懲りもなく。

その矛盾をどうでもいいと吹き飛ばす。

いいのだ、僕は。

島崎ちゃんが僕を求めてくれるのなら何度だって。

しかし、その決意も彼女の一言で簡単に裏返ってしまうのだから全く頼りにならない。


「でもさ、なんか変な感じだね…春樹いないと。最近一緒にいすぎて感覚がおかしくなってるのかも。変なの、ちゃんと付き合ったのなんてつい最近からなのにね」


はにかんで、もうすっかり見慣れた困り顔になる。それを何ともいえない気持ちで見遣る。

そして、女の子ってやつはこんなに残酷で勝手な生き物なのかとこっそり絶望した。


くっだらない。


ほんと下らないよね。


「寂しいんだ、自分から言い出したことなのに」


つい漏れ出てしまった毒。

しかし彼女はそれを毒だと分かっているのか、あっさりと「うん」と答えた。自分自身で自覚済みなのかもしれない。だからといってどう変わるってことはないけれど。


「篠原が言うみたいに寂しいのかもしれない。離れてくれなくて困ってたのは本当のはずなのに、いざ本当に側にいないとなんでこんなに不安になっちゃうんだろ」


知らないね、そんな事。

知ったこっちゃないし、本音を言えば聞きたくもないんだけど。


「結局、私は春樹の傍にいたいんだなぁって思い知った。そのくせ衝動的にふっかけてしまった手前、変に意地を張ってどうすればいいのか自分でも分からなくなっちゃって」


馬鹿だよね、とへらりと顔を崩す。

そうだね。

そうだね。

君は馬鹿で残酷で優しい生き物だよ。


「多分それを新垣君に言えば全部丸く収まると思うよ、じゃあ僕はこれで」


もう構ってなどいられない。

僕は僕の方が大切だ。これ以上自分が乱されるのなど御免だ。

無理、耐えられない。


「あ、待って篠原」


呼び止められて反射的に立ち止まってしまった。小さく舌打ちをする。感じの悪さなど上等。それで僕になど二度と近づかないでくれればいいのに。


島崎真琴は僕が歩いた分だけ距離を縮めてしまう。

何にも考えていないであろう無防備な視線でこちらを見上げる。


「なんか今日いつもと違うなと思ったら…ちょっと屈んでみてよ」


無邪気な言葉に抗う術がなくて。

なんでそんな事しなくちゃいけないわけ、とかどういう訳か彼女には言えなくて。

どうしてか突然また変な痛みが襲ってきて。胸の奥が痛くて。

無性に泣きたくなって。


そんな僕のことなど多分何にも気にせずに島崎真琴は僕の頭に手を伸ばす。そして何を思ったか後ろ髪を引っ張ってくる。

まるで白昼夢。

意味不明な彼女の行動にまだ今朝の夢のような気がした。

彼女の匂いを濃厚に感じて目を瞑る。彼女の顔がすぐ近くにあるのを忘れたくて。


「ほら、これでいつも通り」


あっさり離れた彼女は満足げな顔をしていた。

何だろうと思って自分の後頭部を探れば布ゴムで括られている髪。


「初めて見たかも篠原が髪解いてるの。どうしたの、寝ぼけて忘れてた?」


今の今まで全然気付かなかった。自分が髪を結び忘れていたこと。

島崎ちゃんにそんなに弱みを握ってやったぞみたいな顔をされるほどの事ではないと思うけど。


「これ…髪ゴム、どうしたの?」


「ああ、いつも持ってるには持ってるんだよ。体育の時に使うから」


そうなんだ、と答える。

そうとしか言葉がでてこなかった。この場面でいつもの篠原純だったら適当な事を言って茶化してしまうのが正解。あるいはうまく言ってそれを彼女に返すか。そうすれば彼女と僕の関係は崩れたりしない。事実、台本にはそう書かれていた。

なのに、僕には言えなかった。

彼女の前では、どんな事があろうと篠原純であり続けなければならないのに。

そうありたかったのに。


「あり…がとう」


絞り出した言葉に、うん、と返事が返ってくる。

自分がした事で僕が感謝していると信じて疑っていないその純粋さが憎い。

憎らしくて堪らない。


なんで、なんでそんな嬉しい顔をしてしまう。

無防備に僕なんかに近づいてしまう。

胡散臭い僕の言葉を信じてしまう。


要らないんだ。要らない。そんなもの要らない。

そんなもの全部あの駄犬にくれてやればいい。そうすれば尻尾を振って喜ぶだろう。何でも言う事を聞くだろうし何からでも守ってくれるだろう。そうすれば寂しいなど思わないだろう。僕は知ってるよ、君にはそれ以上欲しいものなんてないんだろう。


だから、此方など見ないでほしい。


僕をその目に映したりするな。僕の事など二度と呼ぶな。触るな。構うな。近づくな。



正直言うと、あんたを友達だと思ったことなど一度もないんだ。





ゆらゆら、ゆらゆら。


あーあ。


どうしてこんな事になってしまうんだろう。


急に堕とされた曖昧な世界。

薄暗くって水の中みたいに何もかも歪んだ形を取っている。


自分の実体すらよく分かんなくなって、皮膚が溶けて肉と骨すら分解して元素になって飛散していきそうで。


それでもいいと思った。


篠原純など消えてしまえばいい。


消えて消えて消えて消えて消えて消えてきえて消えて消えて消えて消えて消えて消えてきえて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えろ。


消えてしまいたいのだ。消してしまいたいのだ。



―――――もう諦めなよ


黙れ。


――――どんなにあんたが


黙れ。黙ってくれ。頼むから。

何も言わないでくれ放っておいてくれ。


――――どんなにあんたが真琴を好きでも新垣がいる限り敵わないんだから。


何を自分一人全て分かったような顔で言う。

そんなの僕だって知っている。あんたよりずっと近くで見ていたのだから。


だから嫌だったんだ。

傷を負うのは知っていた。


僕だって、好きになりたくなかった。

彼女を好きだなんて認めたくなかった。


だって認めれば全部自分の欲望のままに行動したことになってしまうから。


彼女を助けようと思ったのは全て言い訳で、本当は自分のものにしたかったんだと認めることになるから。


そして、彼女はただの穢れた欲望を向ける対象になってしまうから。



違う。


篠原純はそんな人間ではない。

違う、違う、違う。


じゃあ誰だ。お前は誰だ。

篠原純のふりをしているお前が一体どこの誰。



よろめいて誰かにぶつかる。

誰もいないと思っていたのに、そこに確かに生身の人間がいる。


それは、その人は、長い睫毛をふっと上げる。

恐いくらいに迷いのない黒目。


そして僕に向かって嗤う。

全部何もかもその人には分かっているんだと、その瞬間気付いてしまう。

恐怖に全身が小刻みに震えだす。口を押えて、掌の中に悲鳴を吐き出した。


「だから言ったのに」


何のつもりで細めた目なのか。その揺らがない声色は何なのか。

想像するのも怖くて逃げ出したくなる。

何もかも曖昧な世界の中、当然のようにその人だけは影も形もくっきりとしていた。



「だから壊れるって言ったのに、ねぇ篠原」



三日月型に歪む赤い唇がただただ恐ろしかった。


ごめんなさい、6話じゃ終わらないです…。フィーバーしすぎました。

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