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ハジメマシテ、ジュンクン
灰色の小さなキューブの集合体がだばだばと蠢いて気色悪いと思う。
モザイクだらけの人型がこれまたロボットみたいなダミ声を発する。
イママデタイヘンダッタネ
どこのAVだと一人薄ら笑う。
大きいの中くらいの小さいの、小さいのはあまり状況が分かってないみたいだったけど。というか僕も最初はよく分かってなかったけど。
デモダイジョウブダカラ
何が大丈夫だというんだろう。どうしてあんたみたいな未確認生物がいう事を信じればいいのだ。
キョウカラワタシタチヲホントウノカゾクダトオモッテネ
そうして、モザイク人間の触手が僕の頭に伸びる。
止めてくれ。気持ち悪い、触らないでくれ。
ジュンクン
そうして僕もモザイク人間にしようというのか。
そんなのごめんだ。お前らみたいな化け物になどなりたくない。
ヨロシクネ、ヨロシクネ
嫌だ。
嫌だ。
お前らなど知らない。
僕はお前らの仲間じゃない。
ましてや家族などでもない。
◆
「…君、もと野良でしょうに」
すっかり家猫スタイルが身に付いたサクラさんが一歩アスファルトにぎこちなく四本足で立つ。背中が丸まっている。
夕飯後、早速購入したリードと首輪をサクラさんに装着させて外に出る。
まずは家の前で下ろしてやる。
一歩も動かなかったが、車が通り過ぎて音と大きさに驚いたのか変な方向に突っ走ろうとした。リードがあったから遠くまで行ってしまうことはなかったが。
その後もサクラさんは僕の足元から動かない。リードを引っ張っても、頑としてその場を離れない。
そういえばサクラさんは脱走をしようとしたことがなかった。そんな年寄りでもないのに、妙に落ち着いていて給湯ポットの上に置物のように座ったり、日中窓の淵に乗って外の様子を眺めている。そうでなければ僕の部屋のベッドを占拠しているか。ねこじゃらしを使えば多少遊ぶが、毎日構うと見向きもしなくなる。以上に非活動的な猫なのだ。
もうしょうがないなぁ、と持ち上げて肩に頭を乗っける。
初日だし、外敵の少ない近くの公園までは運んでやろうとすぐに甘やかしてしまって駄目な飼い主だなぁと自己嫌悪。
そこそこ大きな近所の公園は小さな山とかアスレチックがあって昼間は小学生が結構遊んでいるのを見かける。だが、さすがにこの時間には人気が無い。
サクラさんを草原に下ろすと、くんくんとしきりに色んな所の臭いを嗅いでいる。
外に慣れたのか、もう怖がっている様子は見られない。
ゆっくりと関心の示す方へのしのし歩いていく。
その動きはさほど俊敏ではないので、僕も付いていく。これが散歩と呼べるかは微妙だが、最初から上手くいくとは思ってなかったし何だかんだでサクラさんが楽しそうにしているように見えなくもないから来て良かったと思った。
時々、首輪が気に入らないのか前足で弄っている。
普段首輪をしていないから慣れてないのもあるかもしれないが、そもそも窮屈すぎるのかもしれないと少し調節する。
それでもサクラさんは相変わらず首輪を除こうとする。
「…こればっかりは我慢してもらうしかないなぁ」
可哀想だからといって首輪無しで歩かせるわけにもいかない。
こんなことなら普段からさせておけば良かった。
それでも、首輪から抜け出そうとするのを諌めつつ公園を一回りし終えた。
ふんっと満足げに鼻を鳴らしてサクラさんが後ろ足で耳の後ろを掻いた。
途中砂場で何故かゴロゴロ転がりだしたため黒い毛並みが今は少し灰がかっている。これは帰ったら風呂に入れてやらなければと考えていると公園に人が来た気配がした。
公共の施設だし、誰が来てもおかしくないのだろうけど何となくこんな時間にこの公園に何をしたのか気になって振り返った。
その人はまっしぐらに水飲み場に向かい、水を飲んだ後は首にかけたタオルで顔ごと拭う。
白いぶかぶかのスポーツウェアが薄暗い中でも目立つ。
小柄な体躯に短い髪の少女だった。
零れそうな大きな目が印象的な彼女は知り合いだった。
「あ…篠原」
この場を立ち去ろうとした瞬間、気付かれて名前を呼ばれる。
そうすれば返事をするしかない。
「やぁ、井澤さん。精が出るね」
彼女は井澤美咲。
うちの学校の女子陸上部の部長にしてエース。
「まぁね、高体連も近いし」
ロードワークをしているところなんだろう。部活も終わったらしいのに熱心なことだ。しかもここは学校から結構距離があったはずだ。
体育系の部活じゃ当たり前かどうかは知らないけれど見ていて眩しいほどの努力家。
少なくとも僕よりはずっとマシ。感心するよ、ほんと。
「新聞部としても期待してるよ、また取材に行くかもしれないのでその時はよろしく」
そう言ってサクラさんを抱え上げてさっさと公園を出て行こうとした。
いわば別れ文句のようなもののつもりだったのだ。
「篠原、待って」
何故か彼女は僕を呼び止める。
一体何の用が僕にあるというのか。
「…何か?」
「あんた、まだあの二人に構ってるらしいじゃない」
大きな目に外灯の光が映りこんで静かに光る。
いつ聞いても明朗な声だからどうしたって一字一句その言葉を聞き取ってしまう。
あの二人に構っている?
それは多分島崎真琴と新垣春樹のことなのだろうけど。
僕はそんなつもりはない。
もう彼女を助けることも諦めたし、執着している訳でもない。
一体彼女は何を勘違いしているのか。
「大概しつこい。これ以上邪魔するようなら私が許さない」
生真面目に眉毛を吊り上げて此方を睨みつける。
しつこい?誰が?僕が?
「ねぇ、意味が分からないんだけど…」
「もう諦めなよ、どんなにあんたが真琴を好きでも新垣がいる限り敵わないんだから」
僕があげた言葉は井澤美咲の一言で掻き消えてしまう。
そうして僕に向けられた言葉は、なんて下らない内容。
馬鹿馬鹿しすぎて、幼稚で、笑ってしまう。
実際、耐えられずに声を上げて笑ってしまった。
「なっ、なによ!こっちは真面目に…」
ごめんごめん、と気色ばんだ井澤さんに謝ってみせる。
だってそんな的外れな言葉を言うから。
随分下らない妄想をされていたんだな、と分かってしまって。
僕が、島崎真琴を、好き、だとか。
確かに状況的にはそう捉える人がいてもおかしくないとは思う。
僕が島崎ちゃんが好きで、彼女を奪おうとしたと見られてもおかしくない。
だけど。
「でも、君と一緒にしないでくれるかなぁ」
ずり落ちてきそうなサクラさんをもう一度抱き直す。
うにゅ、と短く腕の中で鳴き声がする。
「目的も放り出して、恋愛に溺れて暴走したどこかの誰かさんと一緒にしないでくれるかな。僕はちゃんと自分の立場が分かってるし、彼女を自分のものにしようとしたことなんて一度もない」
この気持ちは恋愛感情ではない。
しいて言うなら友情よりも少しだけ特別で、他人よりほんの僅かに関心があるというだけ。
たとえ好きだとしてもだ。
僕は知っているのだ。彼と彼女の絆を。
彼女の気持ちを、彼女にとっての彼がどんな存在か分かってる。
好きになっても勝算などほとんどない。
そんな女の子を好きになるのは、よっぽどの夢見がちか状況判断が壊滅的な人間だろう。
さすがの僕もそこまで愚か者じゃない。
「勝手な想像を振りかざして偉そうに説教とかしないでもらえるかな、虫唾が走るから。そういう余計なことを考えてる暇があるなら陸上の事に頭の容量を回してあげなよ。近いんでしょ、大会」
そう言い捨てて井澤さんが何か言うのを待たずに公園を出て行く。
どうしてもまだ言いたいことがあるなら、彼女ならば追ってでも言い続けるだろう。
そして結局井澤さんは追ってはこなかった。
まだ公園にいるのか、もう走りに出たのかは今になってみれば分からない。
しばらく歩いた所でつい呟く。
「…僕も、なにムキになってんだか」
なんであんな事くらいで腹を立てさせてしまったのか自分でもよく分からない。
ハイハイそうだね~と軽く受け流せたはずだ。いつもの篠原純なら。
やっぱり最近変だ。なにかが崩れてしまっている。
以前はできたことができない。
疲れているのかもしれない、と取り合えずの判断を下した。
■■■■
「あ、篠原」
週明け、話しかけてきたのは彼女の方だった。
廊下で島崎真琴を前に立ち止まる。
おい、とその背後から男の声。そして彼女の顔に手が伸びる。
「おはよう。なんか久しぶりかな?」
「そうだね、ほんと最近あんまり会わないよね。篠原屋上来ないし、部活忙しい?」
さすがに行けるわけがないでしょう、と心の中で言い返す。
この小娘はまったく鈍いのかなんなのか。
彼氏をぺったり背中に貼り付けておいてそういう事を言ってしまうのか。
晴れてそういう仲になった二人の前でどんな顔して間に入って行けというのか。
そもそも、この間みたいにグロテスクな光景など見たくない。身の毛もよだつ。
「まぁ、そんな事。後輩の指導とか添削とかもしてやらなきゃいけないし」
大変だね、と真に受けて神妙な顔をする島崎ちゃんが可愛らしいと思った。
どうでもいいけど新垣君の手がさっきから島崎ちゃんの顔を触っているのに、不自然に彼女はそのことに反応しない。
なんだかいつもと様子が違う。
「真琴」
構ってもらえず彼女の耳元で新垣君が声をかける。
それでも島崎ちゃんは何も答えない。まるでそこに新垣君がいないように振舞っている。
「いい加減にしないと怒るぞ」
と言っているがすでに眉間に二本皺。
島崎ちゃんは今度は露骨に新垣君と反対方向を向く。無言で。
「真琴!ふざけるな、冗談でも許さないからな」
耐え切れなくなったらしい新垣君が島崎ちゃんの横顔を掴んで無理矢理自分の方に向かせた。そしてそのまま顔を寄せようとして。
べち、と軽い音がしたと思ったら新垣君の口元には島崎ちゃんの掌。
「人前でこういう事しないでって何回も言ってるんだけど」
むっつりといつもより低く強い声で島崎ちゃんが言い放つ。
なんだかいつもと印象が違うので少しびっくりする。
「…私だって怒ってる。そもそも最近春樹はべたべたしすぎだと思う、学校でも家でもちょっと人目を気にした方がいい。一昨日の事もあるし、春樹はもっと私から離れてもいいんじゃないの。普通付き合ってるからっていってこんなにべったりにはならないよ」
そうだよね、篠原。と僕に振らないでほしい。
なんだか島崎ちゃんは怒っているらしい。
喧嘩だろうか。こんなに島崎ちゃんが怒りを露にするのも珍しい。
「い、嫌だ…」
こんな表情をする新垣君も多分滅多にお目にかかれないと思う。
「嫌だじゃない、ほらもう離してってチャイム鳴るし次選択でしょ。一回教室に戻らなきゃいけないよね。いつまでもこんなことしてたら動きにくいから」
新垣君は暫く黙っていたが、やがて屈して島崎ちゃんから手を離した。
さっと彼女はそのまま先に歩いていく。教室へ戻りに。
ずんずんと大股で。その後を新垣君が付いて行って「来ないで!自分の教室に戻って!」と叱られる。
なんだか豆鉄砲を食らったような気持ちでその光景を見ていると、歩いて行った彼女が振り返った。
「そうだ、篠原。今日とか部活帰りでもいいから、もし時間あるならどっかで会えないかな。話したいことがあるんだけど」




