1
ぺたぺた、と顔を柔らかい何かが額にくっ付く。
まだもう少し眠いので、そのまま無視してやりすごそうとしたら今度は顔にのしかかりだしたので慌ててそれを持ち上げる。
「…おはよう、サクラさん」
虚勢してからメタボまっしぐらな黒猫が前足を持ち上げられて、みゅう、と鼻声のような高い声で鳴いた。
彼女はサクラさん、今年で一歳と少しになる同居人。
「なに、お腹すいたの?この間動物病院でダイエットしなさいって言われたでしょうに」
サクラさんをベッドの上に下ろしてチェストからシャツを取り出して着替える。ついでに机の上の眼鏡をかけて後ろを振り返る。
聞こえなーい、とでも言いたげにサクラさんはシーツの上に頭を押し付け、伸びをした。
猫相手に話しかけてるなんてちょっと危ない人のような感じかもしれないけど、ペットを飼ってる人間ならそうしてしまうのは必然だろう。
真っ黒な腹を晒してサクラさんは糸目になる。
「女の子がそんなあられもないポーズしちゃって…」
野生などとうに忘れたサクラさんのお腹を撫でると、彼女は気持ちよさそうに唸った。
つくづく甘え上手な彼女にまんまと転がされている気がしてちょっと悔しい。
サクラさんを構い倒していると部屋の入り口から人の気配がした。
コンコン、と間もなくドアをノックする音がした。
あーあ、とその音にげんなりする。
また、新しい一日が始まってしまったのかと自覚させられて。
「純君、ご飯できてるから降りてきてね」
今日も僕は演じなければならない。
この話の主人公、篠原純という16歳の少年の役。
彼は屈託のない性格で、人見知りも無く四年前に出来た新しい家族にもすぐに慣れて上手くやっているという設定。
「ああ、はい。起きてますよ」
明るく答えて立ち上がる。
持ち上げて肩にサクラさんを乗っける。ずし、とかなりの重量がある。
「やっぱ散歩とかしようか、サクラさん…」
みゅ、とサクラさんはひと鳴きした。
実は人語を理解してるんじゃないのだろうかとか思ってみる。なんて、うちの子日本語喋るんです、とかテレビ言ってる猫馬鹿有名人と同じレベル。
「やだ、拓也ったら」
サクラさんと一緒にリビングまで降りて行くとと、笑い声が溢れていた。
お母さんが弟の拓也を見て笑っている。お父さんも拓也に何か言っている。
「おはよーございます」
サクラさんを下ろしてテーブルに付けば、お母さんがご飯をよそってくれた。
ふと、隣の弟の頭がすごいことになっていた。
「…なにそれ、デビルマン?どうやって寝たらそんなんなるの」
随分豪快な寝癖だ。さては髪を乾かさないで寝たな。
違げーし、と浅黒い顔の少年はむっつり答える。
「ワックスだよ、寝癖じゃない」
「ああ、拓也君が前に呼んでた『この秋はこれで決まり、男子のモテ髪2013』ってやつ?大分アレンジきいてるけど、うん、お兄ちゃんはいいと思うよ?かっこいい、かっこいい」
「なっ…ばっ読んでんじゃねーよ!」
真っ赤になって怒鳴る。いや、色黒だから赤くなってもよく分からないけど。
最近の中学生は中々早熟だなと思う。自分の中学生の時はどんなことを思っていたか、と思い出そうとして止めた。
「年頃だねぇ、拓也君」
味噌汁をずず、と啜って年寄りを気取る。
うっせ、と口を尖らせる弟も僕にならってお椀を持った。箸が逆さなのはつっこんだほうがいいのかなと思ったり。
「拓也は純君みたいに顔、きれいじゃないもんね」
サクラさんに餌をあげながらお母さんが言う。
あーあ、と口の中で呟いてしまう。そんな事を言ってしまう、この人は。
ハハハ、と呑気に笑い声を言うお父さん。
男は顔じゃねー、と拗ねる拓也。
そんなことないですよ、というと多分厭味だから言わない。
大丈夫、篠原純という人間はそういうことにちゃんと気を遣える人間。
いかにも困ったように笑うのが正解。それで世界は壊れずに済む。
ふと、サクラさんの方を見るとお母さんにもらった猫缶に食いついている。
また甘やかされちゃって。肥満猫用のキャットフードあるんだけどな。あと、毛玉出ないようにするやつも。買ってあるんだけど全然食べないし。そーだよね、それ不味いですよね。そっちの高級マグロのほうが美味しいですよねぇ。
そりゃ太りますよ、サクラさん。
あんまりそういうのあげないで欲しいんだけどな。普通のエサ食べなくなるし、それにたまに人間のご飯あげてるよね、それ一番だめですから。塩分や油分の高さが猫に良くない。
一回それとなく言ってみたんだけどな。
聞いてなかったのかな。覚えてなかったのかな。
「サクラさん、今日猫用のリード買ってくるからね」
覚悟しなよ、このデブ猫。
■■■■
このお話の主人公、篠原純はまだ16歳のクソガキである。
世間一般の青少年と同じように高校に通っている高校生という身分でございまして。
電車に揺られて変わっていく景色を眺めながら、高校に行かなきゃ理由はなんだろうとふと考える。
面倒臭い、別に特に勉強は自分ですることだってできるし、友達だって他でもできる。部活はもう完全に惰性でやっているようなものだし。
それでも週5日高校生をタダ働きしているのはなんでだろ。
と、いっても答えは既に出てる。ただの悩みたがり。
たぶん世間体とか集団心理とかそんな下らないもののせいだろう。
あー、本当俗物でやんなっちゃう。
とか思ってる自分が可笑しくて一人笑ってみる。
傍からみれば、ちょっと気持ちの悪い男。
そんなことを言ってるうちに電車がいつも降りる所に着いた。
「う…」
学校に着いてみれば、ますます学校に通う意義を考え込みたくなるような光景があった。
神様。
なにか僕って悪い事しましたか。
校門を抜けてすぐ前方を歩く身長差のある男女二人。
仲良く手を繋いで、イチャイチャと小突きあったり立ち止まってなにやってんの。
それに、僕が男だからそう思うんだろうか。
男の方の手つきが、ねっとり絡み付くようで妙にいやらしいように思う。
朝っぱらからこんなもの見せられるなんて、げろげろ。あー、最悪。
「おはよう、お二人さん。公衆の面前で今日もご苦労様です」
堪らなくなって、二人の前に躍り出れば僕の言葉に現実に引き戻されたのか女の子の方が頬を染めて俯いて男から少し距離を置いた。が、横暴な男にすぐに引き戻されてしまう。
「…おはよう、篠原」
ぼそぼそとやっぱり恥ずかしそうに彼女は答える。
彼女の名前は島崎真琴。気の弱そうな顔をしている僕の友達。
「こいつと口なんてきくな」
そう言って島崎ちゃんを抱きつぶしたのはその彼氏の新垣春樹。ちょっと他じゃ見ないような美青年、あと色々超人的。性格に難ありなだけで。
折角のイケメンフェイスが余裕なく敵意剥き出しに僕を睨んでいるせいで台無し。あー、怖い怖い。
口なんてきくな、って幼稚な台詞に笑える。アンタ一体どこの小学生。
本当にこの男は島崎ちゃん関連ではダメダメ。欠点だらけの欠陥男。
島崎ちゃんもこんな男のどこが良いんだろうか。
「そんなの新垣君に指図されることじゃないよね。ねぇ、真琴ちゃん?」
「…ッ、名前…!」
そして、そんなことに目くじら立てて怒る。
今にも僕に向かって拳を振り下ろそうとしているのを島崎ちゃんが必死に抑えている。
苦労するよね、島崎ちゃんも。優しいのは彼女の美徳なんだろうけど、それはただの甘やかしなんだって多分本人は気付いてない。
だからあの時、新垣君の手を取ってしまった。
結局、新垣君を振り切れずに引きずり落とされてしまった。
たった一回のチャンスだったのに。
彼女が彼女自身を救う為のたった一度きりの機会。
あの時、あの光景が目に浮かぶ。
島崎ちゃんが僕の手を離して、新垣君の元に踏み出したその光景。
どこか冷静な気持ちでそれを見ていた。
こんな結末を迎える気はどこかしていたからかもしれない。
多分、新垣君は彼女を離さないんだろうなと思う。
こんな都合のいい存在、他にいないだろうから。
いくら噛み付いて傷を付けても、受け入れてくれてその上好きでいてくれるなんて新垣君にとってこれ以上の便利な女の子はいないだろう。
あぁ、良かったね大団円。安い安いハッピーエンド。
下らなさに反吐が出そう。
島崎ちゃんもその手を離せばいいのに。無抵抗の僕が殴られて、先生に泣き付きでもすれば痛い目を見るのは新垣春樹なのに。
「篠原も、なんでそういう挑発するようなこと言うの」
細い眉毛を八の字にして身に世もなく困った顔と声で島崎ちゃんが言う。
なんで?僕が悪いように言われなきゃならない?
挑発なんてとんだ言いがかり。
僕はただ島崎ちゃんの名前が呼びたかったから呼んだだけなのに。
それを悪役扱い?ひどいよね、全く。
はぁ、とこれ見よがしに溜め息を吐いてみせる。
「君らにいつまでも構ったら遅刻しそうだから僕はもう行くね、じゃあ」
なんの未練もないように踵を返して、二人を置き去りに玄関に向かう。
言っておくけど逃げたわけではない。
本当にもう構ってなんかいられないと思ったまで。
どうぞ後はご勝手に。
あんなに助けたいと思った彼女も、もうどうでもいい。
だって僕よりあの男を選んでしまった。そんな人間を今更どうにかできる訳も無い。
助けようにもこんな状態になれば、恐ろしく骨の折れる事までしなきゃならないし。
ご愁傷様です、としか言いようがない。