父のラジオを捨てた朝
大きな出来事はありません。ただ、見過ごしてきたものを少しずつ拾い集めるように歩いていく、そんな一年を書きました。読んでいただければ幸いです。
四十七歳の春、私は会社を辞めた。
退職届を出した帰り道、駅前の交差点で信号を待ちながら空を見上げた。
何かが変わると思っていた。会社を辞めれば、長いあいだ胸の底に沈んでいたものが
浮かび上がってくる。それが本当の自分なのだと、私は信じていた。
空は、辞める前と同じだった。薄い雲が流れ、電線が一本、斜めに横切っていた。
青信号になった。私は人の流れに混じって歩いた。
会社では編集者だった。妻の前では夫で、母の前では息子だった。
友人の前では、昔から変わらない男のふりをしていた。
何者でもなくなれば、何者かになれる気がした。
*
退職して最初の朝、七時に目が覚めた。いつもなら家を出る時間だった。
身体だけが覚えていたらしい。
隣で妻が寝返りを打った。
「起きたの?」
「うん」
「会社は?」
「もう行かない」
「ああ、そうだった」
妻はそれだけ言って、また目を閉じた。
台所でコーヒーを淹れた。湯が落ちる音を聞きながら、これで自由なのだと思った。
けれど、自由というものは、思っていたより音がなかった。
午前十時、ノートを開いた。一ページ目に「これからやりたいこと」と書き、
思いつくまま並べた。旅行。小説。ギター。
英会話。海の近くで暮らす。知らない町に住む。
書き終えて、ペンを置いた。
昼はコンビニの弁当を食べながらテレビを見た。
会社員の頃、昼間にテレビを見る人間をどこかで軽蔑していた。
午後二時に昼寝をして、目を覚ますと窓の外が薄暗かった。
ノートは机の上に開いたままだった。
*
三か月後、母の家を訪ねた。母は七十八歳になっていた。
庭の鉢植えに水をやりながら、「何か始めたの」と聞いた。
「まだ」
「そう」
母はホースを巻き、縁側に腰を下ろした。
縁側の端の鉢の土に、白っぽい丸い石が一つ置いてあった。
見覚えがあった。小学生のとき、庭で拾った石に似ている。
毎晩、布で磨いた。ある日、もっときれいな石を見つけて、前の石は捨てた。
なくなったのではない。私が捨てたのだ。
「その石、前からあったっけ」
母は鉢に目をやった。
「どうだったかねえ」
それきり、母は何も言わなかった。
父は十年前に死んでいる。工場に勤め、休みの日は壊れた家電を分解していた。
扇風機も、時計も、ラジオも。私は、そんな父をどこかで見下していた。
もっと好きなことをすればいいのに、と言ったことがある。
「これが俺の好きなことだ」
父は笑いながら、外したネジを小皿に並べていた。
私は、その手元を見ずに部屋へ戻った。
父の机には、最後まで直らなかったラジオが残っていた。
父が死んだあと、私はそれを捨てた。
ほかの古い家電と一緒に、まとめて処分した。
*
秋から、近所の小学校の図書室で働き始めた。
週に三日、午後の二時間だけの仕事だ。
本を棚に戻し、騒ぐ子を注意し、破れたページをテープで直す。
最初のひと月は、壁の時計ばかり見ていた。
二時間が、会社の一日より長かった。
いつも同じ席に、蓮という少年がいた。
読むのが遅く、一冊に三週間かかる。返却期限が近づくと、
貸し出しカードを確かめてから、また続きを読み始めた。
「その本、面白い?」
「まだ分かんない」
「別の本にしたら?」
少年は首を振った。
「もう半分まで読んだから」
それ以上、私は聞かなかった。
別の日、返却された本のページが破れていた。
裏からテープを当て、爪の腹で端を押さえていると、手が止まった。
この手つきを知っていた。
ラジオの背板を開け、小さなネジを指先で押さえていた父の手だった。
私はテープの端を押さえたまま、しばらく動けなかった。
その夜、食卓で妻に図書室の話をした。
蓮が一冊の本をなかなか読み終えないことも話した。
妻は味噌汁を飲み、茶碗を置いた。
「あなたも、昔から本を読むのは速かったのに、最後まで読まないことがあったわね」
「そうだったかな」
「そうよ。面白くないと、すぐ次の本を買ってた」
妻は空いた茶碗を重ね、台所へ運んだ。
私はしばらく、冷めかけたご飯を食べていた。
*
冬のある晩、父のことを思い出した。
図書室で破れたページを直したときの、指先の感触が残っていた。
父のラジオを捨てた朝のことを思い出した。
私は机に向かい、ノートを開いた。
ごみ収集の日だった。私は袋に入れる前に、ラジオの背板を外してみた。
基板には鉛筆の細い字で、小さな番号がいくつも振ってあった。
部品を交換するたびに、父が自分で書いたのだろう。
私は番号を確かめることもなく、背板を戻した。
つまみを一度だけ回してから、袋の口を縛った。鳴らないと分かっていた。
そこまで書いて、ノートを閉じた。
翌日、私は続きを書いた。父のことを書いているつもりだったが、
いつの間にか自分のことになっていた。
同期の昇進が決まった日、私は「おめでとう」と言った。
そのあと給湯室で、薬缶の湯が沸くのを長いあいだ見ていた。
好きだった人と、飲み会の帰りに同じ電車に乗ったことがある。
彼女は降りる駅の手前で「じゃあ」と言った。
私は「うん」と答えた。それだけだった。
二十年経っても、その「うん」のあとの空白を覚えている。
妻には、何度も「君は僕を分かっていない」と言った。
書き終えて読み返すと、どの話にも、格好のいい自分は出てこなかった。
*
書いたものが何ページかたまった頃、妻が机の上のノートを手に取った。
「これ、読んでもいい?」
「たいしたものじゃないよ」
「それは読んでから決める」
妻はノートを持って居間へ行った。
翌日の夕食後、妻はノートを机に戻した。
「どうだった」
「あなたのことが、少し分かった」
「面白かった?」
「そこは分からない」
私は笑った。妻も、つられて少し笑った。
妻はノートを閉じかけ、最後のページをもう一度開いた。
「ここは好き」
そこには、父のラジオを捨てた朝のことが書いてあった。
「どうして」
妻は少し考えてから、ノートを閉じた。
「今まで、こういう話はしなかったから」
私はノートを受け取り、表紙を閉じた。
*
翌年の春、駅前の交差点で信号を待っていた。
桜は、まだ満開ではなかった。枝のところどころに、
開きかけた花があった。鞄の中には、あのノートが入っていた。
続きを書くかどうかは、まだ決めていない。
風が吹き、花びらが一枚、肩に落ちた。
手を伸ばしかけて、途中でやめた。払わずに、そのままにした。
空を見上げた。薄い雲が流れ、電線が一本、斜めに横切っていた。
辞めた日と、同じ空だった。
青信号になった。私は歩き出した。




