十字架の影に絡む物
エリザの指が、指令書の端を軽く震わせた。
レイバーン。
その名前は、彼女の胸に古い傷を抉るように響いた。
表では病を癒す薬を振りまき、裏では人間を商品のように売りさばく男。
善の仮面の下に潜む醜悪な本性。
彼女はゆっくりと紙を折り、修道服の内ポケットに滑り込ませた。
男は煙を吐き出しながら、静かに続けた。
「まぁ、お前なら大丈夫だろ。コイツも製薬会社だってよ? 表でいい事してるヤツ程、裏では色々やってるよな?」
エリザの唇に、冷たい笑みが浮かぶ。
タバコを深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
煙は蝋燭の炎を揺らし、部屋の隅に影を伸ばした。
「そう……善人面を被った悪こそ、最も醜い獲物よ。今夜、その仮面を剥がしてあげる」
男の目が、わずかに細まる。
彼は十字架を指で軽く触れながら、言葉を落とした。
「結局、そういうヤツをどうこうするのは『神』じゃねぇ……『悪』だよな?」
エリザはタバコを灰皿に押しつけた。
火が消える小さな音が、静寂に響く。
彼女の瞳に、幼い日の記憶が再びよぎった。
修道院の薄暗い廊下で聞いた、家族の最期の叫び。
教会の権力者たちが、祈りの裏で血を流していた事実。
神に祈るだけでは、何も変わらなかった。
だから彼女は、手を汚すことを選んだ。
「ええ、その通り。だからこそ私は……神の名の下に悪を裁く『悪』であることを選んだの」
男の視線が、エリザの首にかかる十字架に留まる。
銀のそれは、蝋燭の光を受けて冷たく輝いていた。
「俺は完全に『悪』に染まっちまった……ただお前は神のガワを被れる場所に居続けてるんだ。心の何処かで完全な悪にはなりたくねぇって思ってるんじゃねぇか?」
エリザの瞳に、一瞬の迷いが過った。
それは、祈りの朝に感じた温もり。
家族を失った夜に誓った復讐。
そして、血の臭いが染みついたこの手。
彼女は静かに息を吐き、言葉を紡いだ。
「……鋭いわね。でも、私に選択肢はなかったの。この手は既に血で汚れすぎてる」
男は肩をすくめ、ゆっくり立ち上がった。
コートの裾が、床に小さな音を立てる。
「俺はそれでいいと思う。完全にこっちに来ちまったら遅いぞ。神も悪魔もどっちも必要だ……仕事しっかり頼みますよ」
男は部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、教会の闇に吸い込まれる。
残されたエリザは、一人窓辺に寄った。
ステンドグラス越しに、淡い月光が差し込む。
彼女は新しいタバコに火を点け、深く吸った。
「ええ……私も、まだ完全には堕ちない。今夜、レイバーンの命を刈り取らせてもらうわ」
煙が、十字架の影に絡みつく。
神の家で、タバコの火が小さく揺れる。
それは祈りでもあり、復讐の灯でもあった。
そして、エリザは思う。
本当の善とは何か。
本当の悪とは何か。
神の許しを求めながら、悪を裁くこの手は、
どちらの側に立つのか。
煙は静かに天井へ昇り、答えのない問いを残した。




