煙を分ける神の家
午後の聖ミカエル教会は、祈りの余韻だけを残して息を潜めていた。
礼拝堂の脇、かつて古い聖具庫だった小さな部屋。
埃っぽい空気に蝋燭の炎が揺れ、壁に細長い影を刻む。
そこに、エリザ・ノアールはいた。
白い修道服の袖を軽く折り、細い指でタバコを挟んでいる。
聖なる空間に、乾いた煙の匂いがゆっくりと広がる。
誰も入ってこないはずのこの時間に、彼女はいつもこうして息をつく。
扉が小さく軋んだ。
教会に似つかわしくない雰囲気の男がやって来た。
黒いコートの襟元に、銀の十字架が鈍く光る。
表情に乏しく、ただ静かに部屋に入り、彼女の前に立った。
エリザは視線を上げた。
タバコをくわえたまま、静かに。
「……何?」
シスターは、珍しい参拝者に声をかけた。
「……一本くれ」
エリザは無言で箱を差し出す。
男は一本抜き取り、ライターで火を点ける。
神の家で、シスターが客にタバコを勧める。
そんなことが許されるはずがない。
だが、ここではそれが、暗黙の儀式のようになっていた。
「神の許しは得たの?」
「本当の神様だったら煙草ぐらいでギャーギャー言わねぇだろ」
エリザは小さく笑った。
喉の奥で消えるような、乾いた音。
「その割に、十字架はちゃんと首から下げてるのね。偽善者? それとも……賢明な判断?」
「賢明な判断な方だな。十字架があった方が都合がいい事が起こる場合の方が多い」
煙が二人の間をゆっくり昇る。
エリザの瞳に、遠い記憶が一瞬よぎった。
七歳の朝、修道院の門をくぐった日のこと。
両親の姿はもうなく、ただ冷たい石の床と、祈りの言葉だけが残されていた。
あの教会は、神の家であると同時に、権力者たちの影に支配された場所だった。
彼女はそれを知るまで、長い時間を祈りの中で過ごした。
「なるほど……私も似たような考えよ。表の顔は、時として裏の武器になるものね」
だからこそ、エリザはノクターンに属することを決意した。
男はポケットから一枚の紙を取り出し、差し出した。
それはノクターンからの指令書。
「次のターゲットはコイツ……『レイバーン』だ」
エリザは紙を受け取り、目を細めた。
製薬会社の社長、レイバーン。
表では慈善の仮面を被り、裏では人身売買の鎖を引く男。
彼女の指が、紙の端を軽く震わせる。
煙が、十字架の影に絡みつくように揺れた。




