最終話 女王の国、あるいは「愛妻」の国
大夜会での「反乱」宣言から一夜明けたアズラク国の朝。
それは、この国の歴史上、最も静かで、かつ最も混沌とした朝だった。
私の夫、ラシード公爵が目を覚ました時、隣に私の姿はない。
それどころか、いつも枕元に置かれているはずの着替えも、洗面器の水も、モーニング・ティーも、何一つ用意されていなかった。
「……おーい、レイラ? ザーラ? 誰かいないのか?」
公爵は寝ぼけ眼で呼び鈴を鳴らした。
だが、誰も来ない。
不審に思いながら寝室を出ると、廊下は静まり返っていた。
厨房へ行くと、そこには冷え切った竈と、空っぽの鍋があるだけ。
使用人の部屋、ハレムへの入り口、すべての扉は固く閉ざされ、そこには一枚の張り紙があった。
『無期限ストライキ中。用があるなら自分でやりなさい。P.S.鍵は壊したので内側からは開きません』
「な、なんだこれは……!?」
公爵だけではない、この日の朝、アズラク中の男たちが同じ絶望を味わっていた。
◇
ストライキの効果は、劇的という言葉では生ぬるいほどだった。
「女がいなくても、男だけで何とかなるだろう」という彼らの甘い幻想は、たった半日で粉々に砕け散った。
【一日目:生活の崩壊】
まず、食事がなかった。
厨房に立ったことのない男たちは、火の起こし方すら分からない。
公爵は「卵を茹でるくらいできる」と豪語して生卵を殻ごと鍋に放り込み、爆発させた。
街の食堂へ行こうにも、店が開いていない。
なぜなら、食堂の裏方で調理や仕込みをしていたのは、全て店主の妻や娘たちだったからだ。
男たちは、備蓄庫にある硬い干し肉を齧り、泥のようなコーヒーを啜って飢えを凌いだ。
【二日目:衛生の崩壊】
着る服がなくなった。
彼らは脱ぎ散らかした服が、翌朝には魔法のように綺麗になって畳まれていると思っていたのだ。
洗濯桶の前に立った男たちは、洗剤の量が分からず泡まみれになったり、色物を混ぜて白いシャツをピンク色に染めたりした。
おまけに、子供たちが泣き叫ぶ。
あやし方を知らない父親たちは、泣く男児を前にオロオロするばかり。
「頼む、泣き止んでくれ! ママはどこだ!?」と、子供と一緒に泣き出す始末だった。
【三日目:社会の崩壊】
市場機能が停止した。
商売の帳簿をつけ、在庫を管理し、客との交渉の下準備をしていたのは、実は優秀な妻たちだったのだ。
彼女たちがいなくなった途端、商人たちは計算ミスを連発し、どこに何があるのか分からなくなり、物流がストップした。
一方、ストライキを実行中のハレム(要塞)の中は、まさに天国だった。
「あら、ザーラ様。そのクッキー、焼き加減が絶妙ですわね」
「うふふ、ありがとうレイラ様。男たちの世話をしなくていいと思うと、お菓子作りも捗るわ」
私たちは中庭にテーブルを出し、優雅なティータイムを楽しんでいた。
すでにストライキの準備を万全に整えていたのもあるが、料理などはハレム内で準備し、男性陣へ運んでいたため備蓄も全てハレム内にある。
壁の向こうからは、男たちの「腹減ったー!」「パンツがないー!」「ママどこー!」という悲痛な叫び声が聞こえてくるが、それは私たちや一緒に避難している女児にとって最高のBGMだった。
「見てくださいまし、あそこ」
第三夫人のマリアが、壁の隙間から外を覗いてクスクス笑う。
「旦那様が、裏返しにパンツを履いて、庭の木に登って猫を追いかけていますわ……夕食の確保でしょうか?」
「あらやだ、野性的。やっとご先祖様の猿に戻られたのね」
女たちは爆笑した。
かつて死んだ目をしていた彼女たちはもういない。
そこには、自由と力を手に入れた、誇り高き女性たちの笑顔があった。
◇
だが、事態は思わぬ方向へ動いた。
男たちが限界を迎えていた四日目、隣国、軍事国家「ガーネット帝国」が、この混乱を察知して国境を越えてきたのだ。
「アズラクの男たちは今、女房に逃げられて骨抜きになっているらしいぞ!」
「好機だ! 一気に王都まで攻め込め!」
その数敵軍およそ三千。
対するアズラク国軍は、見るも無惨な状態だった。
兵士たちは三日間まともな食事をしておらず、洗濯していない悪臭漂う軍服を着て、腹痛(生焼けの肉を食べたせい)で剣を握る力もなかった。
「ひぃぃ! 無理だ、戦えない!」
「母ちゃーん! 助けてくれー!」
国境の砦はあっけなく突破され、敵軍は王都の目前まで迫っていた。
国王と公爵は、王城のバルコニーで震えていた。
「お、終わりだ……国が滅びる……」
「レイラ……帰ってきてくれ……私が悪かった……」
男たちが絶望に膝をついた、その時だった。
――ヒヒィィィン!!
高らかな嘶きと共に、砂煙を上げて現れた一団があった。
先頭を走るのは、純白のドレスを改造し、動きやすい乗馬服のように纏った私だ。
そしてその背後には、鍋の蓋を盾にし、モップの柄を槍に変え、あるいは本物の剣と弓で武装した、数百人の女性たちが続いていた。
「アマゾネス騎士団(元・貴婦人部隊)」の到着である。
「な、なんだあれは!?」
「女だ! 女たちが攻めてきたぞ!」
敵軍が動揺する、私は愛馬の手綱を引き絞り、高らかに号令をかけた。
「アズラクの女たちよ! 聞きなさい!」
私の声が戦場に響く。
「あの薄汚い男どもは、この国を略奪しに来ました。つまり、私たちが苦労して磨き上げた屋敷を土足で踏み荒らし、私たちが管理していた財産を奪い、そして何より……」
私は背後で震えている情けない夫たちを指差した。
「私たちが『教育』し直している最中の、あの手のかかる駄犬(夫)どもを殺そうとしています! ……許せますか?」
「「「許せなぁぁぁぁいッ!!!」」」
地鳴りのような怒号が上がった。
女の怒りは、男の戦争の大義名分などより遥かに重く、激しい。
自分たちの縄張りを荒らされることへの、根源的な怒りだ。
「蹴散らしなさい! アズラクの女の強さを、世界に刻んでやるのです!」
「イエッサー、マーム!!」
開戦の合図など不要だった。
第一夫人のザーラが、馬上でフライパンを振り回しながら突撃した。
「どきなさい! 今の私は機嫌が悪いのよ! エステの予約をキャンセルした恨み、思い知りなさい!」
ガァァン!という快音と共に、敵兵の兜がへこむ。
側女たちの弓隊が、正確無比な射撃で敵の馬の足を射抜く。
メイド部隊は、洗剤を混ぜた水を敵の顔面に浴びせ、視界を奪ってからモップで殴打する。
「な、なんだこの女たちは!?」
「つ、強い! 鬼だ! 悪魔だ!」
敵軍は大混乱に陥った。
無理もない、彼女たちは私が鍛え上げた精鋭であり、何より「日頃のストレス」という無限のエネルギー源を持っていた。
「レイラ様! 敵将を見つけました!」
マリアが指差した先、敵の指揮官が呆然と立ち尽くしていた。
私は馬上で立ち上がり、鞍を蹴って宙に舞った。
ドレスの裾が翼のように広がる。
「お眠りなさい」
私は空中で回転し、全体重を乗せた踵落としを、敵将の脳天に見舞った。
――ズドン!!
敵将は悲鳴を上げる間もなく地面にめり込み、気絶した。
静まり返る戦場で私は敵将を踏みつけたまま、髪をかき上げて言い放った。
「掃除完了……粗大ゴミは持ち帰ってくださる?」
敵軍は「ヒィッ!」と悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰った。
わずか一時間の決着。
アズラク軍(男たち)が手も足も出なかった敵を、主婦とメイドの連合軍が壊滅させたのだ。
「女に国は守れない」という、男たちの最後の言い訳が粉々に砕かれた瞬間だった。
◇
それから一週間後。
王城の広場には、歴史的な光景が広がっていた。
中央に座るのは、王后陛下、王妃殿下方、国王の乳母、私レイラと、ザーラ、マリアをはじめとする女性代表たち。
そしてその前には、国王、公爵、大臣、将軍……この国の主要な男たちが、砂利の上に額を擦り付けて土下座していた。
「頼む……帰ってきてくれ……」
国王が涙ながらに懇願する。
「私が間違っていた。国を動かしていたのは、私ではなく妻だったのだ……」
私の夫、ラシード公爵は、さらに悲惨だった。
彼は私の足元に這いつくばり、私の靴に頬を寄せて泣いていた。
「レイラ……愛している……いや、尊敬しています! 君が、君たちがいないと、僕は靴下の場所も分からないし、どのネクタイを締めればいいかも分からないんだ……!」
他の男たちも口々に叫ぶ。
「飯を作ってください! もう文句は言いません!」
「子供が『ママがいい』って泣き止まないんだ!」
「貴女がいなくなって、世界から色が消えました……!」
その光景を見下ろしながら、私は満足げに頷いた。
暴力による支配ではない。
彼女たちの価値を、存在の大きさを、骨の髄まで理解させた上での完全なる降伏だ。
私は横に座るザーラと顔を見合わせる。
彼女もまた、土下座する夫(公爵)を見下ろして、優越感と少しの憐れみを滲ませて笑っている。
「どうします? ザーラ様」
「そうねぇ……。もう少し反省させたいけれど、これ以上放置するとカビが生えそうだから、拾ってあげましょうか」
私は立ち上がり、一枚の巨大な羊皮紙を広げた。
「よろしい。では、ストライキ解除のための『新条約』を結びましょう」
私はよく通る声で読み上げた。
一、女性へのヴェールの強制を即時廃止し、服装の自由を認めること。
一、女性の教育、就労、財産権を認め、主要なポストに女性を登用すること。
一、家事・育児は「女性の義務」ではなく「夫婦の共同作業」とし、夫も相応のスキルを身につけること。
一、夫は妻を「所有物」ではなく「共同経営者」として敬い、生涯愛し抜くこと。
「これを守れるなら、私たちは家に帰り、貴方たちを再び『養って』あげましょう」
私がそう告げると、男たちは一斉に顔を上げ、涙を流して叫んだ。
「守ります! 誓います!」 「ああ、ありがとう! 神よ、妻よ!」
男たちは争うように条約にサインした。
それは屈辱の涙ではなかった。
「やっとまともな生活に戻れる」
「温かいご飯が食べられる」という安堵と、何より国を救った強くて美しい妻たちへの、畏敬の念による涙だった。
◇
――それから、数年の月日が流れた。
アズラク国は今、大陸一の強国として繁栄していた。
街には活気が溢れている。
ヴェールを脱ぎ捨てた女性たちが、商人として、役人として、職人として生き生きと働いていた。
かつては家に閉じ込められていた才能が解放されたことで、経済も文化も飛躍的に発展したのだ。
もちろん、家庭の中も様変わりした。
今では、この国の男たちの酒場での自慢話は、こうだ。
『おい聞けよ、うちの奥さんは元アマゾネス騎士団なんだぜ。怒らせると怖いけど、世界一強くて可愛いんだ』
『へっ、うちの妻なんてこの前、素手で暴漢を取り押さえたぞ。惚れ直したよ』
「妻に頭が上がらない」ことが、この国では男のステータスとなっていた。
ラシード公爵家のテラスで私は、心地よい風を感じながら読書をしていた。
そこへ、エプロン姿の夫が現れた。
「レイラ、ザーラ紅茶が入ったよ。今日の茶葉は、君たちが好きなダージリンだ」
「あら、ありがとう」
差し出されたカップからは、完璧な香りが漂っている。
かつてはお湯も沸かせなかった夫だが、今では私の指導のもと、立派な「主夫スキル」を身につけていた。
「どうかな? 味は」
「ええ、悪くないわ。淹れ方も完璧ね」
私が微笑むと、夫はパァッと顔を輝かせた。
その顔は、かつての傲慢な豚のものではない、主人に褒められた大型犬のような、純粋な喜びの表情だ。
「そうか! よかった……! あ、肩も凝っているだろう? マッサージもしようか?」
「ふふ、そうね。お願いしようかしら」
ザーラの背中に回る夫の手は、昔のように所有物として触るいやらしい手つきではなく、労りと敬愛のこもった優しいものだった。
「……ご褒美に、今夜は一緒に寝てあげてもよくてよ?」
ザーラが悪戯っぽく囁くと、夫は顔を真っ赤にして、尻尾が見えるほど激しく頷いた。
「本当か!? やったぁ! 約束だぞ!」
ラブラブな二人の様子を見て、私は苦笑しながら空を見上げた。
どこまでも青く澄み渡る、アズラクの空。
私の前世、アマゾネスの国は「女だけの国」だった。
男を排除することで、強さを保っていたけれど、男も女も互いの弱さを補い合い、強さを認め合い、敬意を払って共存するこの世界も……案外、悪くはない。
転生アマゾネスの革命は、こうして「世界一、妻が大切にされ、夫が妻に尽くす国」を作り上げて、ハッピーエンドを迎えたのだった。




