受賞したんだ
まんまるの太陽が、マンションの陰に隠れて沈んでいくのをあたしは「綺麗だね」と言った。首を傾げる徹くんに疑問文を投げかける。
「どうしたの?」
「いや、どうも納得できなくてさ。小林が新人賞取ったなんて……」
あたしは『またその話か。さっき話したばかりだ』とも思いながら、目を瞑る。
どこかの食卓に並ぶであろう、カレーの匂いが食欲を誘う。
落ち葉を飛ばしながら吹く秋の風は少しばかり冷たいけれど、あたしの高まった感情を冷ますにはいいのかもしれない。
「そんなこと言わないで、喜んでくれたっていいじゃん。きっと徹くんだって努力していれば、天才小説家なんて言われちゃうんじゃない?」
陽気なあたしを見て、徹くんはふてくされるようにベンチに深く座り直す。
その姿は、子供のようだ。
「小林が言うとなーんか嫌な感じなんだよなぁ。だいたいお前、俺の作品読んだことないだろ。」
「え、あるよ! 投稿サイトで徹くんの名前たまたま見つけたから、全作品読んだんだよ! 面白かったんだけど、官能書いてるところがちょっと嫌だったなぁ」
徹くんはベンチから慌てて立ち上がり、あたしの肩を揺さぶる。
「おっ、お前! 勝手に見んなよ! あーもう、恥ずかしいなぁ……。一言言ってくれたっていいじゃねぇかよ」
「ごめんごめん。それより肩痛いよ」
あたし達は、同じ大学のサークルで出会った。そのサークルはアマチュア作家が、共にプロを目指して、作品を読み合ったり、共同で作品を作ったりするのが主な活動内容だ。中には、小説家だけではなく、脚本家、マンガ原案者、作詞家なんかを目指してる者もいた。
徹くんとは同じ学年で(徹くんが一年留年してるけど)サークルの先輩の紹介で仲良くなった。よくあたしの作品を読んでもらったり、一緒にネタを考えたりしてもらっていた。それを繰り返している内に、プライベートでも仲良くなりあたし達は付き合うことになった。プロの小説家という同じ夢を持つあたし達は、恋人関係になってもうまくやっていけていた。
だけど、今日でそれも終わりかと思うと、なんだか切ない。
ほんとはあたしだって……。
「徹くん。受賞したのはすごく嬉しいんだけど、一つ話があるの」
「ん、なんだよ。まさか俺をアシにしてくれるとか? いいよ、いいよ」
話を進めようとする徹くんをあたしは一つの言葉で止めた。
「別れようかなって……」
「え?」
徹くんは瞬きもしないであたしを凝視している。
気まずくて目を逸らせば、先ほど沈みかけていた太陽の『半分』だけが見える。辺りにいた子供たちも、夜ご飯のカレーを楽しみに、自転車のペダルを必死に蹴り帰路についているころかな。
「何がだよ」
「もう、別れたほうがいいのかななんて」
「なんでだよ、ずっと二人でやってきたじゃん。小林が受賞して自分の本出せるようになったんだぜ? それなのになんで今なんだよ」
徹くんは、笑っている。いや、笑い泣きしているのかもしれない。徹くんがどんな表情をしているのかは、申し訳なくて顔を上げられないあたしには分からない。
違う、申し訳なくてじゃない。あたしの泣き顔を見られたくないからだ。
「だからだよ。今だからこそ別れたいの。あたしにはもう編集者さんから新作の話がきてる。これからあたしがプロの小説家として生きていくには」
「……」
「もう、恋愛はいらないんだよ」
小林が言ったその言葉が俺の脳内で何回も響いて、涙腺が緩む。
「そう……か」
小林が新人賞を取ったからこそ、小林がプロの小説家になるからこそ、俺たちの恋人関係は終わりにしなければいけないんだ。
「きっとあたしは忙しくなって徹くんとも会えなくなる。そんなんじゃ、あたし達の関係は、持たないと思うの。だったら、最初から一線を置こうよ。そう思わない?」
顔を上げた小林は泣いていた。その赤い目は何かを訴えてるようだが、今の俺には分からない。
いや、所詮俺は小林のことを何も分かれないのかもしれない。
「あたし、気づいたんだ。正直あたしと付き合ってる時の徹くんは、いい作品が書けてない。恋愛ものばっか書いてるし、不満なのか知らないけど……、官能も書いてる。そんな徹くんはダメだよ。前の徹くんのほうが小説家として好きだった」
そんなこと……思っていたなんて。
やっぱり俺は、小林のことを分かれてなかったんだ。
「ちょっと待ってくれよ。直すから、直すから。確かに、俺は小林と付き合ってから何かが疎かになってしまったと思う。けどそれは、それだけお前のことが好きってことなんだ。賞を受賞したうんぬんじゃない! していなくても俺はお前と別れたくないんだ。なっ? 分かってくれよ」
俺の手を振り払って、小林は立ち上がる。
「徹くん。『好き』っていう想いだけじゃ恋は辛いよ。優しさだけじゃ恋は辛いんだよ? 徹くんの夢は何? あたしと一緒にいること? そうじゃないよね。プロの『小説家』になることだよね。そのためには、捨てなきゃいけない想いもあるんじゃない?」
小林の言葉一つ一つを、俺は一生忘れないだろう。
小林は泣き崩れる徹のほうを振り返らずに帰路についていた。
先ほどまで綺麗なオレンジ色で小川を照らしていた太陽ももう沈み、小川の水面に映るのはグレーの夜空に光る、秋の四辺形だった。
家の玄関前まで来た小林は、まだ赤い目を擦り、涙を拭った。そしてドアノブを引いて温かい家の中へと入る。
「ただいま」
震える小林の声に反応して小林の母が出迎える。
小林の母は娘のぐしゃぐしゃになった泣き顔を見て、聞く。
「どうだったんだい?」
「うん……、大丈夫」
頼りないながらも返事をする小林を抱き、包み込む母。
「ごめんね、お父さんが倒れてしまったからって。あんたにはなんの責任もないのに」
「ううん。いいよ? あたし長女だし。きっとこれで、徹くんもうまくやれると思うから」
小林は一言、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「徹くん、あたしの分まで頑張ってね」