三話 すれ違い
翌朝、奏縁は柔らかな朝日を感じて目を覚ました。まだ体のあちこちが痺れるが、昨日よりはだいぶ楽になっていた。ベッドから起き上がると、ナノハがすでに部屋の中で何かを準備しているのが目に入った。
「おはよう、奏縁。よく眠れた?」
ナノハが振り返り、優しい笑顔で挨拶をした。
「ああ、おかげでだいぶ楽になったよ」
奏縁は少し微笑みを返しながら答えた。昨日の出来事が頭の中で再生され、彼は自分が本当に異世界にいるのだと改めて実感した。
「まずは朝ごはんを食べよ!その後、カトレア王国庁へ向かおう。転生者手続きのために、いくつか準備をしなきゃいけないことがあるの」
奏縁は頷き、ナノハが用意してくれた朝食を食べ始めた。トマトや肉が挟まれたパンと、赤い目玉焼きに、見たことのない奇妙な色の果物。見知らぬ食材も多かったが、そのどれもが奏縁の舌を喜ばせた。
食べ終えると、奏縁は気を引き締めるように深呼吸をした。彼にはやるべきことが山ほどある。小春を探すためにも、この世界で自分の生き方を見つけるためにも、まずは行動を起こすことが必要だった。
奏縁とナノハはカトレア王国庁に向かうための準備を整えた。外に出ると、爽やかな風が二人を迎えた。雲一つない空の下、奏縁とナノハは一面の草原の上にいる。奏縁は自分が知らない世界の地に立っている事にあまり不安を感じなかった。元の世界での未練がないからか。妹がこの世界にいる確証などないというのに。
ナノハは草原の上に派手な柄の絨毯を敷き、リュックから取りだした筆で魔方陣を描き始めた。
「いい?しっかりつかまってね」
3,4人が乗れるかどうかの大きさの絨毯の上で、奏縁は半信半疑ながらもナノハにしがみついた。
「フライ・ア・ウェイ!」
ナノハがカタコトな横文字を唱えると、絨毯がふわりと宙に浮き上がった。奏縁の心臓がドキドキと高鳴る。
「さぁ、出発するよ!」
絨毯はゆっくりと浮かび上がると、次第に風に乗ってスムーズに進み始めた。速度は穏やかに感じられるが、先ほどまでいた小屋があっという間に遠ざかっていく。
この世界には本当に魔法が存在するという事実が、絨毯の浮上とともに現実のものとなった。
奏縁としては、「飛龍」と呼ばれる生物に乗りたかった思いもあったが。
「それにしても、言葉が通じるのは助かるな」
奏縁は呟いた。昨日は自分のことで頭がいっぱいで気づかなかったが、異世界に来たにも関わらず、日本語で会話ができていることに驚いていた。
「転生者は神様から奇跡を授かっているのよ。だから言葉も自然と通じるのかもね」
ナノハは空に指を差して答えた。
「神様ってやっぱりいるんだな」
なんとなく呟いた奏縁の一言に、ナノハはにっこりと笑って見せた。それが作り笑いであることに奏縁が気づくことはなかった。
奇跡――それは異なる世界からやってきた者だけが宿すことを許された、神の力の欠片。
この世界は、神が張り巡らせた巨大な結界の中に内在していると言える。普通であれば、その結界を越えて異なる世界からやってくることなど叶わない。だが転生者たちは、何らかの異常によりその結界に干渉し、この世界へと足を踏み入れる。そして、その干渉の際に神の力の欠片をその身に宿す。
だがこの力は、ただの恩寵ではない。神の力は膨大であり、人という器には余りあるものだ。故に、宿す者がその身を崩壊させないよう、力には厳格なリミッターがかけられている。どんなに強大な力を秘めていようとも、その限界を超えようとすれば、神の力は人が扱える枠を超え、宿主自身を蝕む毒へと変わる。とはいえ、故意にリミッターを外すことは人間の持つ本能で阻止されるため不可能である。
奇跡は授かった者によって異なる色を持つ。ある者は体から電気を放出でき、ある者は身体能力を飛躍的に高める。ただ一つ、すべての転生者に共通する奇跡の力がある。それは「言語理解」だ。
奇跡を宿した者は、この世界で使われている言語を自分の知る言葉へと変換し、直感的に理解することができる。文字であれ、音声であれ、彼らは迷うことなく受け取れる。この力のおかげで、転生者たちはこの世界で意思疎通に困ることはない。だが、この力には皮肉な側面もあった。この世界特有の「魔法」を使うために必要な詠唱は、この世界の言語でしか発動しない。この世界の言語は奇跡の力によって変換されるため、転生者たちは正しい詠唱を理解することができない。皮肉なことに、神の恩寵でありヒトの限界を超える可能性を秘めた奇跡が、転生者の可能性を制限しているのだ。
しかし、それが全ての扉を閉ざすわけではない。この世界には奇跡や魔法とは異なる「結界術」というもう一つの技術が存在する。詠唱を必要としないこの術は、転生者たちにも扱える可能性を秘めている。ただし、その道を歩めるのはほんのひと握りの者のみ――結界術は、奇跡に加えてさらに特別な資質を要求するからだ。
クリシュネ魔王を除き、「奇跡」「魔法」「結界術」全てを扱える人間は存在しない――
「もうすぐ着くよ」
あっという間に、カトレア王国の城下町が見えてきた。壮麗な宮殿が遠くにそびえ立ち、その周りには綺麗な町並みが広がっていた。
「ここからは飛行禁止区域だから、歩いていこう」
城下町から少し離れた、人通りの少ない場所に絨毯が静かに降り立つと、ナノハはそれを手早く丸めてリュックに押し込んだ。
ナノハは奏縁を引き連れて城下町へと歩き始めた。カトレア王国庁は宮殿の近くにある。
周囲には多くの人々が行き交い、活気に満ちていた。
人混みの中、体を細めて避けながら進む二人。
「すごい人の数だな」
奏縁はその光景に驚き、ナノハに話しかけた。
「城下町はいつも賑やかだから、はぐれないようにね。あっカトレア名物のタコヤキだ!!」
ナノハはここで待っててと言い一目散で駆けていった。自分がついさっきはぐれるなと言ったことを覚えてないのか。奏縁は彼女の言動に困惑するも、たこ焼きという聞きなじみのある食べ物の名に少し胸を躍らせた。
奏縁はたこ焼きでふと思い起こす。
両親が他界してから1年が経過し、小春と2人で初盆を迎えた時。小春に誘われて夏祭りに行ったことがある。
あの時も人混みが凄く、はぐれないように小春と手をつないでいた。妹と夏祭りなんて幼少期に親に連れられて行ったとき以来なもんで、屋台ではしゃぐ妹を見るのはとても新鮮だった。
射的、金魚すくい、焼きそば、綿あめにりんご飴、本当にあったのかってまず驚いた型抜き屋。
小春に手を引かれながら屋台を回る。
「たこ焼き食べよっ!」
「まだ食うのかお前は」
「全然食べるよ!お兄ちゃんも行けるでしょ?」
「もちろん」
あのとき食ったたこ焼きは、一緒に冷まして食べたけど、それでも熱々で確か舌を火傷したな。
あの後2人揃ってかき氷屋に駆け込んで舌を冷やしたっけ。祭りと書かれたカップに、着色のすごいシロップがかかった氷。あのいかにも夏祭り!って感じのかき氷もよかったな。
「来年は一緒に浴衣着てこようね」
微笑む小春の瞳は輝いていた。
「あぁ、約束な」
仕事の疲れも忘れるほど楽しかった夏祭り。来年も絶対また行こうと心に決めたのに。その望みは叶いそうにない。
ドンッ!
その場に突っ立ていた奏縁は不意に誰かとぶつかってしまった。視線を落とした先には小さな子どもがいた。ローブを羽織っていて顔はわからない。
「あ。ごめ」
「あー!ラズベリークリームパイが!!!」
奏縁の声をかき消すかのように幼い女の子の声が轟く。地面には一切れのパイが落ちていた。ラズベリーの赤い実がつぶれて地面を赤く染めている。
「食べ歩きは危険だって言ったでしょう!」
隣にいた男が幼女をしかる。
幼女は涙目でキッと奏縁を睨みつけた。
「すみません」
奏縁は保護者であろう男にも謝るが、幼女は怒りを込めて睨み続けている。隣の男は奏縁を睨むことをやめない幼女に見向きもせず、奏縁に丁寧に会釈した。
「気にしないでください。我々も不注意でしたので」
そういうと、男は落ちたパイを拾い上げ、空の紙袋に入れた。
「行きますよ、クリシュネ様。いつまで睨んでいるんですか」
クリシュネ様と呼ばれた幼女はすっと立ち上がり、ようやく奏縁を睨むのをやめた。
「奏縁?どこー?」
ナノハの呼び声に奏縁は振り返り、歩き始めた。その瞬間、背後から鋭い声が響いた。
「待って!」
クリシュネが奏縁を呼び止め、興味深げに彼を見つめた。怒っている様子はもう感じられなかった。
「あなた、転生者だよね」
クリシュネは奏縁に近づき、真っ直ぐに見つめる。
奏縁は彼女の勢いに思わず息を飲む。
「リストに顔が載っていないんだけど、どうして?」
奏縁は膝を曲げクリシュネと同じ目線になった。奏縁は、特段急いでいるわけでもないが、人が混雑しているここで立話をする余裕があるわけではない。しかし彼は、クリシュネの楽しみであったであろうおやつを台無しにしてしまった自責の念から、対等な目線で話をしようと無意識に行動していた。
「最近転生したばかりだから……か?」
曖昧な返事をする奏縁に、クリシュネはたくさんの名前と顔の絵が載っているリストを見せた。そこには確かに彼の情報は載っていなかった。しかし、彼はそんな事よりも気になる人物を見つけた。
「小春……!?」
リストの中に、確かに櫻井小春の名を持つ人物が載っていた。顔も完全に一致している。
途端に奏縁の頬を一滴の雫が伝う。やはり、小春は異世界に転生していた。
クリシュネは急に涙を流す奏縁に少し戸惑いを覚えるも口を開いた。
「この子、あなたの知り合い?」
「あ、あぁ、元居た世界で行方不明になってた妹なんだ。どこにいるか知ってる?」
奏縁は早口でまくし立てるように聞いた。
「ごめん知らないや。でも、会えるといいね」
クリシュネは奏縁の頭をさすった。
「君自覚ないかもだけど、なかなか面白い奇跡の力を持ってるよ。」
クリシュネは興味津々な眼差しを向けて言った。しかし、今の奏縁にはそんなことどうでもよかった。
今の彼の頭の中は、小春のことでいっぱいだ。
小春は生きていたし、この世界のどこかにいる。その事実を知ることが出来た。今自分がすべきことは──
「奏縁ー!」
ナノハが遠くで呼んでいる。奏縁はクリシュネと隣の男に軽く頭を下げ、ナノハの後を追った。
クリシュネはその様子を見つめながら何かを口ずさむ。
ナノハは奏縁を見つけるといそいそと走って向かってきた。
「ごめんね奏縁待たせちゃって、ハイ奏縁のたこ焼きッ!」
「あっあぁありがとう」
熱々のたこ焼きを受け取るが、奏縁は上の空だ。
小春……お兄ちゃんが絶対に探し出してやるからな。
妹は確かにこの世界にいる。
ナノハの後ろを歩く彼の心には新たな希望が芽生えていた。