二話 希望
「小春か……?」
奏縁は激しく動揺しながらも、ベッドから起き上がろうとした。
「あ、だめ!」
少女の声もむなしく、奏縁はベッドから転げ落ちた。
全身が痺れているようだ。
「ボロボロの姿で倒れてたんだよ!無理に動こうとしないで」
少女は奏縁の肩を抱え、上体をそっと起こした。
「小春なのか……?」
奏縁は少女に顔を近づけてもう一度問いかけた。
間近で見るほど、その姿が小春に重なる。
「小春?誰かと勘違いしてる?」
少女は不思議そうな顔で奏縁の顔を覗き込む。
奏縁はガッカリとする表情を彼女に見せないように、視線をそらして小さく口を開いた。
「いや、何でもない。助けてくれてありがとう」
(ありがとう……?俺は本当に感謝しているのか?俺はまだ生きたいと思っているのか?)
彼は自分の感情がわからなくなっていた。しかし、不思議と心は安らいでいた。心のよりどころを失っていた彼は、無意識に少女と小春を重ねていた。
奏縁は冷静さを取り戻すと、雨に濡れた不快感が無くなっていることに気づいた。少女が服を替えてくれたようだ。
奏縁はゆっくりと辺りを見回す。木造の部屋だ。ベッドの他に本棚と机がある。殺風景という程では無いが、装飾品は何一つなく必要最低限のものだけが置かれている。
「とりあえずゆっくり休んでね。」
少女は奏縁をベッドに戻し、ベッドの向かいにある机へと歩きながら話した。
「私の名前はナノハ、あなたは?」
「櫻井……奏縁」
奏縁はぎこちなく答えた。
ナノハは机に置かれた木製の器に何かを注ぎながら、奏縁に顔を向けた。
「あなたは異世界転生者?」
「異世界転生者?」
奏縁は聞き返した。
現実逃避がついに叶ってしまったのか、異世界転生者という非現実的な単語に、彼の頭は混乱していた。
確かにさっきまで(気を失ってからどれだけ経ったか分からないが)雨に打たれていたはずだったのに、気づけば見知らぬ草原の上で目を覚ましたこの現象は、異世界に転生した以外に説明のしようがない。
仮にここが異世界なら、なぜ自分が?どのようにして?多くの疑問が浮かんだが、彼は今それらを深く考える気力を持ち合わせていなかった。
「まあ、あんな何もないところで倒れてたんだし、異世界転生者だよね」
ナノハは自分なりに納得し、微笑んだ。
「飲む?これはルシの花茶っていうんだけど、美味しいよ。」
ナノハは木製の器を奏縁に差し出した。
奏縁は器を手に取ろうとした。しかし、先ほどから腕が思うように動かない。疲れからか、それとも絶望からか……そのどれかだろうが、とにかく動けなかった。するとナノハが優しく手を伸ばしてきた。
「私が飲ませてあげるね」
そう言うと、彼女はスプーンで花茶をすくい、奏縁の口元へと運んだ。
「あ、ありがとう」
奏縁は顔を赤らめながら、花茶を口に含んだ。
「どう?おいしい?」
ナノハが無邪気な顔で尋ねた。
「あ、ああ……美味しい」
彼女の笑顔に見とれて、奏縁は思わず本音を漏らした。するとナノハはさらに顔を輝かせる。
「そっか!良かった……」
ほんの少しの沈黙の後、ナノハが再び口を開いた。
「ここはカトレア王国の領土よ。」
「聞いたことないな」
「それはそうよね、あなたにとってここは異世界だもん」
そういうとナノハは椅子に浅く腰掛け、続けた。
「まずあなたはカトレア王国庁に出向いて、転生者手続きを済ませないとね」
「転生者の手続きなんてあるのか。」
奏縁はその言葉に興味を引かれた。
『転生したら手続きを行う』という概念があるということは、過去に前例があって、この世界に転生した者がいたということではないのか。めずらしく頭が冴えてるでは無いか、さっきまで何も考えられなかったのに。ルシと呼ばれる花茶のおかげか?即効性すぎやしないか?
「あなた以外にもたくさんいるんだよ、異世界転生者」
奏縁は期待通りのその言葉に希望を見出していた。もしかしたら、小春も異世界に転生しているのかもしれない。失踪の原因としてはありえなくもない話だ。異世界に転生、という現象そのものはとてつもなくあり得ない話ではあるのだが。
「カトレア王国庁に今すぐ行きたい」
「今すぐは無理だよ」
ナノハは奏縁の焦る気持ちをなだめるように言った。
奏縁の体はまだうまく動かない。仮にカトレア王国庁に行ったとしても、小春に会えるとは限らないし、彼女の情報を得られるかも分からない。それは、本人が一番よく理解していた。しかし、彼は何か行動を起こしたくて仕方がなかった。
元の世界で何も希望を見出せず、暗闇をさまよっていた彼の心に、その一筋の光は眩しすぎた。
少しの沈黙の後、奏縁は軽く息をつきながら尋ねた。
「ナノハさん……まずはこの世界について教えてくれないか。」
ナノハは優しく微笑み、窓の外に目を向けた。明るい光が差し込む窓の向こうには、澄んだ青空が広がっている。
ナノハは窓の外を指さした。
「あの空に輝いている星、あれは煌陽と呼ばれる星よ。この世界を昼間照らしている恒星なの」
奏縁は少し驚いた表情で空を見上げる。
青い空に堂々と浮かぶ眩しい星は、よく知っている太陽と似ているようで、どこか違う異質な輝きを放っていた。
「太陽……じゃないんだな…?」
ナノハは微笑みながら首を縦に振る。
「まぁ簡単に言えば、『煌陽』はあなた達の地球で言う太陽に近い存在だけどね。強い光を放って昼間の大半を照らしている。そして、大地にエネルギーを与え、自然のサイクルを回しているわ。生物はそのエネルギーで育つし、この世界の『魔法』の力も、そのエネルギーから来ているのよ」
「魔法?」奏縁は思わず身を乗り出した。
「魔法があるのか?それが煌陽と関係しているのか?」
「ええ、その通り。煌陽は魔法のエネルギー源と言えるわね。炎や水、風、光などの魔法は、煌陽から放たれるエネルギーを吸収して生まれるの。でも、魔力を使いすぎると身体に負担がかかるから、注意が必要よ」
ナノハは奏縁の反応に少し微笑んでから、話を続けた。
「そして、夜にはね、霞陽が出るの。霞陽は、あなた達の世界の月とは全く別のものなの。霞陽も恒星で、煌陽よりずっと弱い光を放っているわ。霞陽の光は柔らかくて、夜の闇をほんのり照らしてくれるの。」
「昼間を照らす煌陽と、煌陽が沈むと現れる霞陽。この二つの星が交代でこの世界を照らしているのよ。」
ナノハは窓の外を再び眺めながら微笑みを浮かべた。
「この世界は地球と言う星とは全然違うわ。地球では機械や科学が発達していると聞いたけど、この世界ではそれらの代わりに魔法や自然の力を活用しているの。例えば、重い荷物を運ぶときは『浮遊魔法』を使うし、空を飛びたいなら『飛竜』と呼ばれる生き物に乗るわ。」
奏縁はナノハの説明を真摯に聞きながら、奏縁は彼女が現代世界についても知っていることに驚いた。
「地球のこともよく知っているんだな。」
奏縁は当然の疑問を訪ねた。
「うん、カトレア王国にはたくさんの転生者がいるし、彼等との交流もあるから、あなた達の元居た世界のことも少しは知ってるよ。あなた達の居た世界を、この目で見たわけじゃないけどね。」
「やっぱり転生者は珍しくないんだな」
「そうね、定期的に異世界から人が転生してくるからね。原理はわからないけど、そのほとんどがあなたみたいに何も分からずに突然ね。」
奏縁は心の中で不安を感じながらも、さらに質問を続けた。
「その転生者たちは、何をしているんだ?違う世界から来た人々が、どうやってこの世界で生きていくんだ?」
「多くの転生者はこの世界で新しい人生を始めてるよ。冒険者になる人、商人や学者になる人もいるし、中には王族や貴族に仕える者もいる。でも……」
ナノハは少し言葉を詰まらせた。
「でも?」
「でも、中には過去を捨てられない人たちもいるの。故郷に戻りたいと願って、そのために強力な力を手に入れようとする者も少なくない。そして……」
ナノハの声が少し低くなった。
「この世界を利用しようとする者もいるの。自分の欲望を満たすために、力を振るう人たちがね」
奏縁は、ナノハの言葉に重みを感じた。「力を振るう者」が、どれほどこの世界にとって危険な存在であるか、彼女からひしひしと伝わっていた。
「俺は……行方知れずの妹を捜してるんだ。もしかしたら転生してこの世界にいるかもしれない」
奏縁は呟くように言った。
「焦らないで。あなたにはまだたくさんの時間がある。妹さんを見つけるためにも、まずはしっかりと休んで体力を回復させることが一番だよ。そして、この世界のことをもっと知ること。」
ナノハは優しく微笑みながら言った。
奏縁はナノハの言葉に少し安堵を感じた。彼女の言う通り、まずは落ち着いてこの世界を理解することが必要だと納得した。
「ありがとう、ナノハさん」
彼は感謝の気持ちを込めて言った。今はまだ不安定で、これから何が起こるか分からない状況だが、彼女の存在が心の支えになっていることは間違いなかった。
「じゃあ、もう少し休みましょう。元気になったら、王国庁にいこうね」
ナノハはそう言うと、奏縁の肩を優しく押して、再びベッドに横たわらせた。奏縁は目を閉じ、疲れた体を休めることにした。彼の心の中にはまだ多くの疑問が渦巻いていたが、彼の肉体は今眠りが必要だと訴えていた。