十一話 彼について
「……信前ハルトとは、一体どんな人なんですか?」
奏縁は慎重に言葉を選びながら尋ねた。視線は前を向いているが、意識は完全に隣を歩くサオリに向いている。煌陽が雲から顔を出し、二人の影を地面に濃く落とし始めていた。
「彼は、カトレア王国の親衛隊隊長。"神殺し"の異名を持つ、筋金入りの化け物よ」
サオリの声は淡々としていた。それはまるで確固たる事実を述べるような、感情のない響きだった。
「神殺し……」
その言葉が唇をすり抜けた瞬間、奏縁は小さく息を吐いた。戦う前から勝てる気がしない。それほどの存在が、このゲームに参加しているのか。奏縁は冷や汗が背筋を伝うのを感じた。
「まあ、まともに戦って勝てる人間はいないでしょうね」
「そんな相手がいるなら、もう勝負は決まっているようなものじゃないですか」
「だからこそ、私たちは彼が本格的に動く前に手を打つ必要があるの」
サオリは足を止め、振り向いた。彼女の瞳は冷静そのものだったが、その奥には確かな意志が宿っていた。
「私には協力者がいる。今、少しずつ準備を進めているところよ」
「協力者、ですか……でも、最後には殺し合うことになるんですよね?」
奏縁の声にはわずかな迷いがあった。サオリはそれを聞いても、表情ひとつ変えない。
「当然よ。このゲームでは、誰もが自分が生き残り、元の世界に帰ることを最優先に考えている。でも、信前ハルトがいる限り、その土俵にすら立たせてもらえない。彼はファイナルステージまでに、何としてでも排除しなければならない存在なの」
サオリの口調に揺るぎはない。その確信の強さに、奏縁は思わず唇を噛んだ。
「……僕に何かできるとは思えません」
本音だった。奏縁はまだ人を殺したことがない。魔物ですら、攻撃する瞬間にためらってしまう。そんな自分に、信前ハルトのような圧倒的な存在に立ち向かう資格があるのだろうか。
「不安なのは当然よ。でもね、奏縁――」
サオリは奏縁の目をじっと見つめた。彼女の視線には、鋼のような決意と、確かな信頼の色が宿っていた。
「あなたには私や私の仲間がいる。それに命を奪うことにためらいがある人間の方が、よほどまともよ。最初から迷わず人を殺せる方が、よっぽど異常だもの」
「でも……そんな甘さじゃ、このゲームじゃ――」
「甘さじゃないわ。強さよ」
サオリは言い切った。
「命を奪う行為に迷いながらも、それでも前に進もうとする意志。戦いを選ばずとも、守りたいもののために立ち上がる覚悟。それは立派な“強さ”だと私は思ってる」
奏縁は息を呑んだ。自分の中でずっと否定していた部分――“戦えない自分”が、初めて肯定されたような気がした。妹の事は話していないのに、サオリは心の中を見透かしている様な、でも不快感は覚えない。不思議な感覚だった。
「だから、今はまだそれでいいの。焦らなくていい。戦う時が来たら、あなたはあなたのやり方で戦えばいい。だから、諦めないで。あなたならやれるって信じてる」
サオリの言葉には、余計な感情がなかった。ただ言葉を発する冷静さがあった。奏縁はふと、再び歩み始めた彼女の横顔を見る。
何人もの命を奪ってきた人間の顔。自分とは、まるで違う世界にいる人間の顔。奏縁にはそう見えた。
「……わかりました」
それだけ言うと、奏縁は再び前を向いた。
乾いた風が吹き抜ける。
まだ迷いが捨てきれていない事に何より憤慨したのは奏縁自身だった。同時に心の奥底で燃える炎があった。怯える心を押さえつけ、使命を胸に刻む。妹を救うためなら、たとえ神殺しと呼ばれる男が相手だろうと、足を止めるわけにはいかないのだ。
彼には戦う理由があった。どれほど強大な相手であろうと、ゲームから妹を救い出すためなら、命を懸ける覚悟はすでにできている。