水晶の像(こんとらくと・きりんぐ)
ある都市で金とガソリンが切れた。
そこは水晶でできた都市で、美しい塔が幾本も天を目指して伸びている。
そこに暮らす人びとは男も女も老人も子どももゆったりとしたローブを着ていて、穏やかな顔つき。車に轢かれて潰れたドブネズミを見て、額や眉間に醜い皺をよせたことがないようだ。
「こんな都市にガソリンか殺し屋向けの仕事があるのかな。あるのかな?」
ショートへアの少女、あるいは長髪の少年に見える殺し屋は涙色のクーペを出ると、悲観がもたらす楽観に思考をくれてやったみたいに上機嫌になった。
この都市は様々な色の水晶の塔とアーチが重なり合って伸びていく、縦に広がった都市であり、前世が徳を積んだクラゲか何かの人間がこの都市を支配しているのだろう。
犬の糞とは無縁の透き通った道を歩き、横に開いた階段口のアーチをくぐり、上った。階段の左右にはクリスタルの人物像が立っていた。数学の石板を持つもの、剣をかかげるもの、詩を書くのにつかう羽根のペンを持つもの、他には床屋のハサミや洗濯板を持っている女性のクリスタル像もあった。
小さな広場に出た。生活必需品を売る店と食堂があり、数体のクリスタル像、さらに上にある広場につながる階段がある。
とりあえず皿洗いのアルバイトでもないかと、水晶玉でできたすだれを手で分けて、食堂に入ると、人びとがそっとスプーンを薄い豆スープにひたして、小さな口に運んでいた。
カウンターにはめ込まれた鍋があり、ローブの腕をまくった四十絡みのごま塩髭をたくわえた店主が豆スープに網をいれて、豆の皮をこしていた。
「あの」
「スープですか?」
「いえ、お金はないんです」
「ここではお金は取りませんよ」
「え?」
「みんな必要な分だけ生産して、必要な分だけ使うんです」
「それでやっていけるんですか? ……その、都市として」
「はい。我々には守り神がついています」
「守り神ですか」
殺し屋は旅の途中でいろいろな守り神のお札が売られているのを見たことがあるが、一番多かったのは警官避けの守り神だった。
「この都市に来たとき、水晶でできた人物像を見ませんでしたか?」
「いくつか見ましたね」
「あれです。あれがわたしたちを守ってくれているのです」
「そうですか。いえ、スバラシイ都市ですね。では、スープを一杯とパンをひとつ、それにガソリンをもらいたいのですが」
「ガソリン? それは何ですか?」
「いえ、何でもありません。ご親切にどうも」
つまり、この都市ではお金というものがなく、ガソリンについてはきいたこともないということだ。
さびれた砂漠の町でタコス料理屋で皿洗いをして、ガソリン代ができ次第、とっとと出発というわけにはいかない。
しばらくして、殺し屋は旅人たちのための宿舎に連れていかれた。大きなアーチの下にある二階建ての建物でそこに市外から来た人が泊っている。もちろん、全てが無料である。スープも、果物の果汁も、きれいなシーツも、宿泊代も。
誰が押してくれたのか、涙色のクーペもまた無料で宿舎前の広場にあった。
無料の灯明を消して、無料のベッドに潜り込み、これはなかなかいい都市を見つけたかもしれないぞ、とほくそ笑む。
しかし、次の日にはその楽観も潰えてしまった。まず煙草が切れた。ビールもない。アイスクリームもない。かなでられる音楽はひどく退屈だった。ボクシングはあったが、ひいきの選手のストレートが入るたびに騒いで喜ぶものではなく、ただ兵士を要請するためのものだったので、これも退屈だった。
都市滞在二日目にして、自分はとんでもない場所で身動きが取れなくなってしまったと、嘆きつつ、宿舎の食堂でコーンスープをちまちま飲んでいると、小柄で、安物の背広を着た男が殺し屋のテーブルについた。
「相席いいかい?」
「もう座ってる」
「本当だ。どいたほうがいいかい?」
「いえ。どうぞ」
「ここの暮らしはどうだい?」
「二日目ですが、退屈しました」
「二日目ならもったほうだ」
「あなたは何日目ですか?」
「かれこれ二年かな」
「二年?」
「本社の命令でここに支店を作れって言われてる。支店はできたんだが、ここの連中はカネを持ってないから、売上なんてこれっぽっちもありゃしない。本社の連中はおれが無能でなまけものだからだって言いやがるけど、ここの暮らしに耐えるのがどれくらい辛いか、分かるだろ?」
「二日分だけは。二年分については未知の領域です」
「そうなんだ。あんたは旅の途中かい? 表の車はあんたのだよな?」
「そうです。お金もガソリンも尽きてしまって、どうしたものか考えています」
「ここじゃ車がないからな」
「あなたは何を売るんですか?」
「残念だがガソリンじゃない。小間物だよ。針とかコップとか。二束三文のガラクタばかりだ」
滞在五日目で、この都市全体の、殺風景さがこたえてきた。
美しい水晶を使っているが、ここには普通の町の市場にあるような、混み合ったものの楽しさが欠けていた。何もかも整然としていて、品物の置き場に空きができると、ローブを着た店員が静かにその穴を、まったく同じ製品で埋める。
ローブは薄い青と灰色だけで小さな首飾りくらいとピアスくらいはあるが、それだけだ。五十個のカフスボタンからお気に入りを選ぶなんて楽しみもない。
だから、夜に黒衣の刺客に襲われたときはひどく面白かった。
この街にもこんなやつらがいたのかと。
宿舎近くの、アーチの上の散歩道で前後から襲いかかった。顔を覆面で隠したふたり組は声も上げずに黒く染めた刃で突きかかったので、殺し屋はふたりの手首をねじって、その刃が持ち主の喉を貫くように操ってやった。
三人目の刺客があらわれたので、その刃物もねじって、喉に送り届けようかと思っていたら、
「まあ、待ってくれ」
と、ききおぼえのある声がした。
それは本社から無茶な支店を開かされ不満たらたらのセールスマンだった。
「すまんな。あんたを試した。試験は合格だ」
「こういう試され方ははっきり言って好きじゃありません。ぼくが本当に怒る前に合理的な理由を話したほうがいいですよ。もちろん、そんなものがあればの話ですが」
「ガソリンを用意できる」
「釣り餌に刺さった針が見え見えです」
「なあ。おれは小物だ。あんたなら、おれがどんな罠を張ろうが簡単に殺せるだろ? とにかく、ここじゃガソリンを手に入れる方法がひとつしかない。そして、おれはその方法にあんたをつなげることができる。試す価値はある」
ふむ、と殺し屋は腕を組む。
「分かった。あなたについていきます。でも、少しでもおかしいと思ったら、すぐに殺します。そのことは重々承知しておいてください」
動力不明の不思議な水晶エレベータは中央塔の最も高い位置まで、殺し屋を運んだ。
部屋は広すぎた。中央に長椅子がふたつあるだけで、それ以外は何もない。天井は薄いクリスタルをはめた丸い屋根で太陽の光が少しも歪むことなく差し込んできた。
部屋の主は若い男で小柄だが、表情の動き方や他人の話をきくときの指先の操り方には貴族の優雅さがある。
必要なだけ生産し、必要なだけ取る。このユートピアにも他の国や都市と同様、身分に差があるのだ。
若者は〈長老〉と名乗った。年齢ではなく役職としての意味がある呼び名だ。
セールスマンは殺し屋について、〈長老〉と〈長老〉がかかえている責務にうってつけの人材だと紹介した。
アーチの前後から刺客を放つようなことをするのはこれが初めてではないらしい。
〈長老〉は隣の広間へ行くよううながした。
光あふれる空間の中央には大きな水晶の部屋があって、四人の兵士が四方を守っている。限りなく透明な部屋のなかにはこれまで見かけた水晶の人物像が立っていた。ローブを着た女性らしく、調理器具らしいさじを手にしていた。
「この都市にも不平分子はいるのです」と、〈長老〉が嘆く。「そうしたものたちは他の誰よりも少し多く取ろうとして、全体を崩してしまうのです。わたしがあなたに課そうとしている仕事がなければ、都市は早々に崩壊していたことでしょう」
「なんだか、手品のタネを見せられた気分です」
よく見ると、水晶の小部屋には何かガスのようなものを噴射するらしい装置が四隅につけてあった。
「このさじを持っているのは?」
「そのものの最も得意とする生業を示すものをひとつ持つことが許されます」
「なるほど。そんな重要な役目をもらえたことをぼくは感謝しなければいけないのでしょうけど」
殺し屋はショルダーホルスターから銃を抜き、四人の兵士を五発の四十五口径弾で撃ち殺した。ひとりは頭を撃ったのに何事もないように剣を構えようとしたので、同じ部位にもう一発撃ち込む必要があったのだ。
殺し屋は〈長老〉をその処刑部屋に押し込んだ。
「こんなことは間違っている」
「そうでしょうが、これも仕事なんですよ。でも、儀式の形式にはのっとりましょう」
処刑装置が動いて、人体水晶化ガスが部屋を満たすと、セールスマンが泣きながらひれ伏して命乞いをしていた。
「ぼくの職業を考えると、あなたを生かすのはちょっとリスキーなんですよ」
殺し屋はサイレンサーをはめながら言った。既に五発撃った轟音が響いているので意味はないが、これをすると頭に突きつけた銃の撃鉄を上げる以上の効果が望めるのだ。
「なんでもしますから、命だけは!」
「なんでも? じゃあ」
殺し屋はいたずらっぽく笑った。
「あなたがこの都市を仕切ってください」
『わたしに罪はない』
その像を見た人びとは言う。
この守り神は本当に罪のない、今までで一番清らかな守り神に違いない。
涙色のクーペが街道へ戻る途中、トランプとウィスキーを積んだトラック、真っ赤なドレスの魅力的な女性たちを乗せたオープンカーとすれ違った。
これであそこも少しは暮らしやすくなるだろう。