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[短編小説]土の苦い味

作者: 木野キヤ

 「散歩に行ってくる」

 「亮太、宿題はできた?」

 母親の言葉を無視し、黒く染まった夜の町へ出かけた。

 今日も行き先は決まっている。小さい時から行っている児童公園。亮太はそこの花壇がお気に入りで、よく家から一人で散歩しに行く。

 住宅街のはずれにある公園。道路側の入り口から入ると一番奥の右端に滑り台、左端に運ていがある。手前には砂場、シーソー。真ん中は何もなく、いつも放課後には同じ中学の生徒がサッカーをしている。左側にベンチが並び、右端に木が植えられている花壇がある。

 電灯はなく、真っ暗になっている公園を目を凝らして誰もいないことを確認してから花壇へ向かう。横に広がっており、どこがよさそうか横歩きで見ていく。良さそうな場所を見つけ、その場でしゃがんだ。表面の土を手で掘り、底の土を手で触って確認する。乾きすぎず湿りすぎず少し冷たく、手の上に乗せるとぱらぱらと崩れていく状態だ。

 心の中で頷き、土を手で少量だけすくい、欲望のまま口の中へ入れる。口の中の水分が土に吸収されるが、もともとあった水分と合わさり、口の中で一つにまとまっていく。ざらざらとしながら柔らかく、歯で噛むとじゃりじゃりとしていて、面白い食感が口の中でいっぱいになる。ある程度堪能し、喉に流し込む。口の中と喉に土が少し残るのはいつも通りだ。家から水入りのペットボトルを持ってくることは怪しまれるのでできない。唾液を溜め、また飲み込む。すると口の中と喉の土が綺麗に流れる。

 今日は偶然にも美味しい土なので、あと何回か食べていこう。そう思い、もう一口食べようと思った時、地面を踏みしめる音が耳に入ってきた。慌ててばっと振り返り、姿を確認した。入り口でこちらを見ているのは亮太よりも十個ほど年上の女性だった。

 手に持っていた土を花壇に戻し、土の状態を確認しているような仕草をした。女性は軽い足取りで花壇の方へ歩いてくる。亮太は、土を食べているところを見られていなかったか不安だった。女性がこちらに一歩ずつ近づいてくるほどに、心臓の鼓動が速さを増していく。そして隣まで来た時には、心臓の動きが速すぎて爆発しそうなぐらいだった。女性は亮太の隣にしゃがみ、顔を覗き込んだ。

 「何してるの?」

 まだ鼓動は収まらず、勢いを増すばかりだ。眼をそらし、花壇を見つめ続けた。

 「…………つ、つちをかくにんしてた。ちゃんと水が足りてるか、とか」

 「土、食べてたよね?」

 考えた言い訳は通用しなかった。

 「ちょっと前から見てたんだけど、土食べてたよね? なんで?」

 問い詰められることに怖くなり、言葉が詰まった。この人に土を食べていたことがバレてしまった。他の人に言いふらさないか、ばれたら親からなんて言われるだろうか、クラスのみんなからまた嫌われるのか、不安と恐怖と一緒にそれらの考えが頭の中で海流のようにぐるぐる回っていた。

 「面白いね、ちょっと興味湧いてきた」

 これからどうなるんだろう。今まで積み上げてきた人生が、全て奈落へ崩れ落ちるような絶望感が亮太の全身を包んだ。

 「ねぇ、君の話聞かせてよ」

 「……え」

 どこかへ連れ去られていじめられると思っていた亮太の心は一瞬時が停止した。

 「私、君みたいな人に会うのは初めてなの。だから君のことを知りたいなって思ってさ」

 命の危機に及ぶ恐怖はなくなり、少しずつではあるが安心感が生まれてきた。それと同時に、この女性に対する疑問も生まれた。今考えてみれば、ちょっと不思議だ。

 どうしてこんな暗い公園で土を食べていることが見えたのだろう。周りの電灯からは光がほとんど届かないぐらい暗い。しかも入り口から見ていたのであれば、暗さと相まって何をしているのかすらわからないほどではないだろうか。そんな疑問を持ちながら、隣にいる女性に連れられ反対側にあるベンチに移動した。

 亮太が先に座り、女性が右隣りに座った。落ちて来た長い髪をかき上げると、いい香りが鼻腔に届いた。花のように芳しく、周りにいる人を落ち着かせるような、上品さを感じさせる。匂いにつられて亮太は隣の女性の顔に視線が移った。暗くても分かるほどの茶髪と、くっきりとした目元、高すぎない鼻、微笑を浮かべた好印象な口元。まるで大人な女性を思わせる全体像を見た瞬間、亮太の心の中での印象が変わった。最初はこの女性に恐怖しか抱かなかった。そして話を聞きたいと言われた時、変な人だと思った。今では大人で安心できるようなそんな気持ちに変わっていた。

 「まずは自己紹介からした方がいいかな。蒼井遥香。今は大学に行ってる。君は?」

 「……亮太。中学生」

 「亮太君ね」

 完全に信用していないので、苗字は伏せ、名前だけ名乗った。

 「不躾だけど、どうして土を食べてたの」

 「……なんで言わなきゃダメなんですか。会ったばかりの人に話したくない」

 俯きながらもきっぱりと断った。すると遥香はうんうんと頷いた。

 「確かにそうだよね。会ってばかりの人には話せないよね。じゃあ、明日の夜またここで会おうよ。そしたら少しは話してほしいな」

 「……ちょっとだけなら」

 少しだけなら誰にも言い寄られないだろうと考えての発言だったが、遥香は満足そうにニコッと笑った。

 「じゃあ、また明日ここで会おうね」

 そう言うと遥香は立ち上がり、華麗な足取りで公園から出ていった。視界からいなくなると亮太も立ち上がり、家に帰った。帰り道、自分のことについて考えた。

 今までこの病気を誰かに言うと、もしくは誰かにばれるとすぐに「やめなさい」、「汚い」、「変だ」と言われてきた。だから人前ではこの癖を抑えて、人がいない夜にこっそり公園や花壇の土を食べていた。それなのにあの人は今まで言われてきた言葉の一つも言わなかった。最初に言ったのは、「面白いね」だった。誰にも言われたことがなかった。だから少しだけあの人に話してもいいかもと思った。だが会ってばかりの人には話したくない。また明日会って、もっと話したいと思ったらまた次の日も会って、何回か会って少しずつ話していくと、この病気も治るかもしれない。

 亮太は遥香にかすかな希望を抱きながら玄関のドアを開けた。


 次の日、中学校から帰ってから胸が躍っていた。夜が楽しみになっていた。昨日は疑いしかなかったが、自分のことを否定しなかったあの人には話してみたいという感情が高まっていた。宿題も早く終わらせ、夕食も可能な限り早く済ませ、昨日と同じ時間まで待った。

 予定通りに家を出て、公園を目指す。はやる気持ちを抑えきれず走り出す。息を切らしながら公園の入り口に着くと、既に遥香がベンチに座っていた。入り口の亮太に気付くと、大きく手を振って手招きした。なるべく落ち着いた様子を見せつつ、ベンチに向かう。

 「興味があるって言っても、無理やり聞いたりしないから自分の話せる範囲でいいよ」

 ベンチに座り、最初はどうすればいいか分からなかったが、少しずつ話していった。

 「……前にお医者さんからは何でも食べてしまう病気だって言われた。名前は忘れたけど。幼稚園の時から砂場の砂とか、クレヨンの端とか、地面の氷とか、いろんなもの食べてた。お母さんもずっとやめなさいって言ってたけど、誰か見てるときはやめられたけど、誰もいなかったらつい食べちゃう。変だと思わないの? 土とか食べてても」

 遥香にどう思っているのか聞いた。星がいくつか見える空を見上げながら答えた。

 「変だなんて思わないよ。ただいろんな人がいるんだなぁって関心してるだけだよ」

 「…………変だよ」

 「ふふっ、私の方が変?」

 「うん」

 気づくと頬が緩み、笑みを浮かべていた。そういえばこんな風に笑ったのは久しぶりだったような気がする。いつも自分を追い詰めていた。見た目は普通に装っていたが、本当は隠れて土を食べていることを変だとして意識していた。それが辛かった。誰にもばらしてはいけない秘密を持ったまま、いつも緊張感を持ち人と接し、ばれないかと怖がっていた。今日、遥香に話せたことが亮太にとって心の底から嬉しかった。そして安心した。自分のことを変だと思わない、認めてくれる、否定しない。誰にもされてこなかったから嬉しい。

 「……もっと、話したい」

 遥の目を見つめて言うと、ニコッと笑って頭に手を乗せた。

 「うん、いいよ。今日はまだ時間あるからゆっくりでいいよ」

 「……ありがとう」

 それから一時間弱もの間、亮太は自分のことについて事細かに話した。幼稚園の同級生に「変だ」と言われたこと、それを聞いて泣いたこと、小学校でいじめられたこと、休み時間の間、人があまり来ないトイレで泣いていたこと、親に連れられて何度も精神病院を回ったこと、友達ができてもすぐにばれて絶交されたこと、過去のことを細かく遥に伝えた。彼女は聞いている間、穏やかな笑顔で相槌を打ってくれた。たまに「そうだったんだね」、「辛かったね」、「大丈夫だよ」と声を掛けながらずっと話を聞いてくれた。

 「聞いてくれてありがとう」

 時計の針がそろそろ一日の終わりを示す頃、亮太は切りの良いところで話し終えた。

 「ううん、聞いてたらもっと君に興味を持った。また明日も来れる?」

 今になっては遥香を信じる気持ちが溢れていた。自分のことを話せる相手が出来たことに亮太は心の中で喜び、また話したいと願った。

 「うん、明日もここで話そ」

 「じゃあ、また同じ時間に会おう。またね」

 遥香は手を振りながら帰っていった。公園に残った亮太はしばらくベンチに座り、ぼんやりとした頭を背もたれに置き、夜空を見上げた。遥香ががいなくなってもずっと考えてしまう。きっと親身になって聞いてくれる姿が、自分の想像している母親像に似ているからだろう。本当の母親は家族に厳しく、行儀やマナーを小さい時から教え、大切に育てていた。でも、それは現実。亮太が望む母親は、あの人のように傍で優しく接してくれるような、あの細くたおやかな腕で抱きしめるような母親だ。

 考えれば考えるほど、あの人の傍にずっと居たいという気持ちが泉のように湧いてくる。ずっと話していたい。ずっと一緒に居たい。ずっと話を聞いてほしい。心臓がキューっと締まるような気持ちを抱えたまま、帰り道を辿った。歩いている間もあの人のことが頭から離れなかった。


 次の日の授業中、全くと言っていいほど集中できなかった。算数、理科、学活、体育、昼休みを挟んで英語、家庭科。どの時間の内容も覚えていない。精々、体育で転びそうになったことしか頭にない。今までこんなことはなかった。授業に集中できないことなんてなかった。ちゃんと先生の話を聞いて、黒板に書かれたことをノートに写す。簡単なことなのに、たまに自分がボケーッとしていることに気が付く。不思議だ。

 放課後、家に帰り抑えられない気持ちを抱えながら自分の部屋で悶絶していた。朝からずっと心の中でぐるぐるしているよくわからない気持ちが亮太の平静を乱していた。確か似たようなことが小学校でもあった。あれは小学三年生の時、テストの最中に隣の女子が自分の髪を食べていた。指で髪をつまみ、口元へ運び、唇で優しく噛む。その一連の動作がとてもきれいに見えた。その後放課後も何日経ってもあの女子のことが気になっていた。結局、話しかけられず、発展もしなかった。その時抱いた気持ちと似ている。

 どんどん早くなっていく心臓の鼓動を抑えるため、他のことに集中しようとした。最初に手に取ったのはゲーム機。電源を入れ、お気に入りのイカを操るゲームをした。最初の十分ほどはゲームに没頭できたが、すぐにフラッシュバックして、集中が途切れた。次に、床に座り瞑想をした。胡坐を組み、手を合わせ、目を閉じて頭を真っ白にした。白い世界に入り、ただ自分の呼吸だけを聞いた。すると突然どこからか女性の声がした。ふと気になって辺りを見渡すと、遥香がいた。見た瞬間また鼓動が早まり、目を開けた。どうやら瞑想も失敗らしい。次は、筋トレをした。腕立て伏せ、腹筋、スクワット、それぞれ二十回ずつこなしたが、全く効果はなかった。

 これだけいろいろなことを試しても、謎の気持ちが収まらない。どうしようかと考えあぐねていると、少しお腹が空いてきた。亮太の家では決まった時間以外に何かを食べることが禁止されているので、おやつがない。おもむろに外に出て、良い場所を探しに行く。勿論、土を食べに行く。

 探している間も遥香のことが忘れられず、モヤモヤしていた。いい感じに人がいない場所を見つけ、公園とは違う花壇の前に腰を下ろした。少し土を掘り、状態を確かめる。その間、亮太はある想像をしていた。それはまた遥香に声を掛けられてしまうというものだ。今日はいつもの公園とは離れてところに来ている。だから見つかるはずはないが、心のどこかで見つかってしまうことを期待していた。後ろから話しかけられ、あの綺麗な笑顔を浮かべながら「みぃ~つけた」なんて言ってほしい。傍で土を食べているところを見てほしい。それを見てどう思ったのか教えてほしい。そんな想像をしながら、満たされない腹に土を放り込んだ。

 満足感のないまま、家に帰った。それからの時間が長かった。母親の帰宅を待ち、晩御飯を食べるまでが、二時間とは思えないほどだった。何とか無限のような時間を過ごし、目的の時間に迫った。ただ外に出て公園に向かうだけだが、まるで発表会に行くような極度の緊張感を携えたまま向かった。今までだと公園までの道は走ることはなかったが、今日は走りたくなった。大きく足を踏み出し、大きく手を振る。アスファルトの道を蹴る度、体に振動が伝わる。冷たい風に当たり、皮膚が冷える。体中の感覚という感覚が敏感になり、公園に行けることを喜んでいるようだ。

 あっという間に公園の入り口まで着いていた。今日も例のベンチに座っていた。早歩きになりながら遥香が座っているベンチまで向かう。やっと会えた。長い時間をまだかまだかと待った甲斐があった。隣に座り、遥香の顔を見る。相変わらず優しく綺麗で可憐な笑顔を浮かべている。

 「……今日はね、土を食べたいんだ」

 「ほんと? 見たい見たい」

 遥香はよほど見たかったのか、さっきまでの笑顔とは一転した満面の笑みを浮かべた。すごくうれしそうに座りながらぴょんぴょんしている。ベンチから立ち上がり、一昨日食べたところまで移動する。花壇の前でしゃがみ、土を触ってみる。今回は水分が少なく、食べにくそうだ。右に移動し、土を検査する。手の中で握ると数秒だけ固まるがすぐにボロボロと崩れる。この土にしようと決め、口に運ぶ。その様子を遥香はじっくりと観察していた。唾液と一緒に口の中で転がすとしっかりと固まり、粘度が増してきた。少しずつ小さく分け喉へ通す。あまり喉に残ることなく胃袋まで落ちていった。その行程を何度か繰り返し口の中の土を全て飲み込んだ。

 左にいる遥香の方を見ると、興味深いと言わんばかりのキラキラした目で亮太を見つめていた。

 「すっごく面白い。やっぱりすごいね」

 「……そうかな」

 遥香の言葉で顔を赤らめた。そして土を食べることを否定する気持ちもなくなっていった。遥香に肯定されればされるほど自分の中で得も言われぬ嬉しい気持ちが湧きあがってくる。この人に見てもらいたい、もっと認めてほしい、という承認欲求が生まれてきた。

 「じゃあ、もうちょっとだけ食べるね」

 「うん、食べて食べて」

 土を手に取り、口に入れる。唾液を絡ませ、喉へ流す。土をすくい、食べる。中でこねて、飲み込む。掴んで、食べる。混ぜて、嚥下。

 亮太は幸せだった。たったこれだけのことで喜んでくれる人がいる。自分の好きなことをするだけで楽しんでくれる人がいる。今まで我慢してきたことをするだけでうれしそうにしてくれる人がいる。それだけで十分だった。時間が許すまで、亮太は自分の欲を満たし続けた。

 

 土曜日、亮太は遥香とある約束をしていた。昨日の夜、思い切って遥香に家に来ないかと言い寄った。自分の部屋を見てほしかったことと、もう一つの理由からの提案だった。遥香は少し悩んだ後、「いいよ、行く」と微笑みながら言ってくれた。母親には「友達が来る」とだけ言い、それに母親は「別にいいよ」とだけ言った。

 通常、土曜日は母親が休みだが、今日は外せない用事があるらしく珍しく会社に行った。しかも夜の九時まで帰ってこないらしいのでずっと一緒に居られる。もうそろそろ指定した朝の九時だ。リビングで立ったり座ったりそわそわしながら待っていると、インターホンが鳴った。どたどたと走りながら玄関まで移動し、ドアを開ける。ぴっちりとしたデニムのズボンと、白いTシャツの上に濃い緑色のレースのカーディガンを着た遥香が立っていた。肩には白いポシェットが掛かっていた。

 「おはよう」

 「お、おはよう、ございます……」

 「堅苦しいよ~。入ってもいい?」

 玄関のドアを押さえ、遥香を中に入れた。きょろきょろと見渡しながらリビングに向かった。「ふーん」、「へぇー」など感嘆の声を出しながら興味深く家を観察していた。亮太は台所に行き、遥香のためにコップに入れた麦茶を用意した。

 「これ、どうぞ」

 コップを差し出すと、あの笑顔を浮かべてくれた。

 「ありがとう、いただくね」

 手に取り、コップの縁を口につけゆっくりと飲んでいった。亮太はその様子に目が離せなかった。残暑の中ここまで来て、頬や額に汗の球を浮かべている。コップを傾けると首元にある汗の球がツーっと垂れて白いTシャツに吸い込まれる。その光景がなぜかとてもきれいに見えた。

 コップの中身がなくなり亮太に返した。

 「おいしかった。ありがとう」

 手渡されたコップを台所の流しに置き、棚の中にある菓子をいくつか出してきた。それも遥香の前に出した。

 「これも、どうぞ」

 「これはまた後でもらうね」

 断られてしまったがそれでもよかった。遥香と話せることが何よりも幸せだから。

 「亮太君の部屋、見てもいい?」

 「うん、いいよ」

 リビングから部屋まで案内した。ドアを開け電気をつける。遥香は落ち着いた様子で亮太の部屋に目を巡らせた。棚に入っている物、机の状態、ベッドの様子、部屋全体をある程度見てもう一度机の前まで移動した。するとたまたま仕舞い忘れていた日記に目を付けた。

 「……これ、日記だ。見てもいい?」

 日記は小学校の頃から書き続けていて、遥香が手に取ったものは五冊目だ。今まで友達が来ても絶対に見せてこなかったがこの人になら今まで書いてきたもの全部見てほしいという気さえあった。

 「いいよ。他のやつはその下の引き出しにあるよ」

 遥香は引き出しから日記を全部机の上に出して、椅子に座りながら一冊目から読みだした。

 この時、亮太には感じたことのない気持ちが渦巻いていた。それは人に秘密を見られる喜び、開示欲とでも言えるものだった。他人に自分のすべてを知られる。それは普通の人だったら必死になって止めようとするもの。だが亮太は遥香になら、自分のすべてを知ってほしい、自分のすべてを捧げるという気持ちを抱えていた。ページをめくる度、自分のことを知られていくと思うと、鼓動が早まり、抑えきれない何かが爆発しそうな気がする。

 ここ数日、変な気分だ。あの人のことを思い出すだけで、胸が高まり、もっと会いたい、もっと話したい、もっと見てもらいたいという気分になる。亮太はうすうす気づいていた。この感情の正体が何であるのか。そう、これは好きという感情、または恋と呼ばれる状態だ。相手を想うだけで心臓の脈が速くなったり、体が締め付けられるように感じたり、一緒に居たいと思ったりする。どこかで見聞きした情報と同じだ。日記を読んでいる遥香を見ている間、実感した。自分は恋をしているのだと。

 日記の背表紙を閉じ、読み終えた。遥香はゆっくりとこちらを見つめた。

 「全部読み終わったよ。面白かった」

 亮太は決意した。この気持ちを伝えたいと思った。今までは自分に興味だけでやり取りをしていた。これからはそれ以外の感情でやり取りをしたい。胸に抱いた想いを吐き出す。

 「あの、僕、遥香さんのことが好きです! これからも一緒に居てくれませんか」

 あのキラキラとした目を見つめながら、勇気を振り絞り伝えた。遥香は驚いた顔を浮かべた。何度か目を瞬きして、首を傾げた。

 「ごめんね、これ以上一緒に居ても面白くなさそうだから無理かな」

 その時世界が止まった。遥香が言った言葉の意味は分かる。告白を断られた。だがそれ以上に理解できない言葉を聞いた気がする。「一緒に居ても面白くなさそう」という言葉の意味が分からない。亮太自身、恋愛というものに縁はなかったが、好きな人と一緒に居て面白いかそうでないかで判断するのか。それが理解できない。

 告白を断られたことも悲しい。今まで器に溜めていた想いが一気にひっくり返り、器の中には何も残っていない。自分を肯定してくれる、認めてくれる人が初めて自分を否定した。世界が終わるような絶望感を感じた。だがやはり、興味云々で断られたことが一番悲しく、一番悔しい。

 「もう面白くなさそうだから帰るね。ばいば~い」

 椅子から立ち上がり、部屋を出ていった。数秒後玄関のドアの開く音が聞こえ、ドアが閉まった。

 何も考えられず、部屋の真ん中で立っていることしかできなかった。外の気温と近い室温なので汗が止まらない。顔中汗で濡れて、流れる水滴が汗なのか涙なのか分からなかった。


 一人暮らしをするため荷造りをしていると、日記が出てきた。その中の一冊を手に取り、パラパラと目を通した。とても懐かしい。あの頃は母親と父親の喧嘩が毎日のように繰り広げられていた後の時期だった。馬が合わないのか、幼稚園の時から卒園ぐらいの時までずっと喧嘩をしていた。結局小学校に入るころには離婚し、母親のもとで暮らしていた。絶え間ないストレスにより、土を食べてしまうという病気になり、母親の苦労を増やしてしまっていた。ずっとやめるように言われていたが、どうしてもやめられず夜中散歩と言って外へ出かけ、近くの公園で土を食べていた。そんなある日にあの人と出会った。

 今思えば、かなり不審な人だった。夜中公園にいた男子中学生に声を掛けるという奇行。ショタコンだったのかと考えたが、それならあの痛々しい告白を断る理由が「面白くない」で片付くものだろうか。

 今更考えていても無駄だと感じ、十二冊の日記を段ボールの中に入れる。同じ段ボールに小学校、中学校、高校の卒業アルバムとそれぞれの卒業証書を入れ、いったん蓋を閉じた。ずっと背中を曲げながら梱包作業を続けていたので腰と背中が重くなってきた。立ち上がり背中を伸ばす。ぽきぽきと音を立てながら元の姿勢を取り戻した。気分転換に例の公園へ向かった。

 桜が見事に咲き、少しづつ散っていく様子を見ると、一つの時代が終わったかのような悲しさが胸の中に生まれた。

 公園の入り口前に立った。昔と変わらない。子供の数が減ったとはいえ、公園にだれもいないなんてことがあるのか。もうそろそろこの公園も取り壊されるのだろうかと思いながら、中へ入る。右には木が植えられている花壇。左には幾つかのベンチが並んでいる。花壇の前まで移動ししゃがむ。手を伸ばし土をとってみる。大分冷たい。そして水分もある。これは口に入れるとよく纏まってくれそうだ。今は口に入れようなんて思わなかった。あの日以来、遥香と出会うことはなく、土を食べたいという症状も収まった。もう公園の入り口から声を掛けられることもない。

 順当にいけば遥香はもう社会人だ。どこかの会社で働いているのだろうか。少し気になる。

 桜の花びらが風に吹かれ、公園を超えて周りにまで舞っていった。懐かしい公園を後にして、再び梱包作業をするため家に帰った。


 カタカタとキーボードを打つ音にも慣れ、こんなすぐに慣れてしまったと少し悲しい気分を持ちながら自分の作業を進める。

 「高村、ここにミスあったから直しといて」

 「はい」

 入社して二年。あれほど嫌だと思っていた普通のサラリーマンになってしまった。一体どこで間違ってしまったのだろうか。大学の授業にはきちんと出席した。単位もギリギリのラインでセーフだった。卒業論文だって最終的にOKをもらった。ほとんど完全に近い状態だったのに、就職活動が上手くいかなくて、興味のない会社に入社した。考えれば考えるほどイライラが溜まってきて、思わず右手親指を噛んだ。昔からの癖で、イライラしたり、思い通りにならないことがあれば親指を歯で噛んでいた。大人になっても直すことができずに引き摺っている。友人たちから遠くを見る目で「変わった癖だね」と何度言われたか。誰も理解してくれない。誰だって変わった癖はあるはずだ。それなのにたまたま見られてしまっただけで、人から軽蔑するような目で見られないといけないのか。それもイライラする。

 親指の腹に跡ができるまで噛んでいたことに気が付き、ハンカチで唾液を拭き、作業に戻った。すると後ろから肩を叩かれた。誰かに見られていたのかと思い、後ろを振り返った。そこには入社七年目の蒼井遥香先輩が立っていた。

 「蒼井先輩、どうしたんですか」

 なるべく知らぬふりをして対応した。

 「直輝君。さっきさ、親指噛んでたよね。それって癖?」

 完全にばれていた。これからごまかす術は知らないので、正直に言う。

 「……まぁ、はい。昔からの癖で。よくみんなからやめといたほうがいいと言われるんですけど、やめられなくって」

 蒼井先輩の目を見ると、何か獲物を見つけたかのようなキラキラとしていた。

 「面白いね、ちょっと興味湧いてきた」

作者の木野キヤです。とある機会から一万字以上の作品を書いてみようと思い、この作品を書いてみました。少し問題になりそうな内容ですが、私が伝えたいことが結構あると思うので是非読んでみて汲み取ってほしいです。それが誰かの考えるきっかけになれば作家冥利に尽きます。

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