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推理紀行〜熊野三山〜

作者: 目賀見勝利
掲載日:2009/05/31

            目賀見勝利の推理紀行『熊野三山』

            〜推理小説「熊野三山」に寄せて〜

         

         

     『旅に病んで 夢は 枯野かれのを かけめぐる   芭蕉 』


という俳句は、元禄7年10月9日 夜更け午前2時頃、病に倒れていた松尾芭蕉が大阪本町の御堂筋(正確には久太郎町、あるいは久宝寺町)の浄土真宗・南御堂みなみみどう前にある貸屋敷「花屋はなや仁右衛門宅」で詠んだ句である。代筆は呑舟どんしゅうと謂う門人が行なったようである。

句の単純な意味は「旅の途中で病気になり、寝ている時に見る夢は、何もない野原ばかりである。」と云ったところであろうか。

この句は芭蕉が旅の途中に詠んだ《生前最後の句》と謂われている。芭蕉の希望で《病中吟》と注釈がはいっている句である。しかし、私は《辞世の句》と捉えている。と謂うのは、翌日の10月10日には、兄、松尾半左衛門や門人に宛てた遺書を筆記させている。10月9日に遺書の内容を考え、10日に口述したと考えれば、9日夜半に詠んだ句を、芭蕉としては《辞世の句》にしたいと云う意志があったが、「特定の誰かが辞世の句を書き取ったとなると、他の門人・知人などが嫉妬する。」ことも考えたと推察することができる。ちなみに、当時の芭蕉は超有名人であり、芭蕉の生前には辞世の句を書き取らせてほしいと言ってくる人が多かったようである。

特に、この句の中の『枯野かれの』は『彼野かれの』と書くことも出来る。『彼野』のかれは仏教でいう『彼岸ひがん』の彼で、『あの世の野原・世界』を意味している。そうすると、もう一つの句の意味がでてくる。「旅に病んで」を「旅に取り憑かれて」と解釈すると下記のような意味が出てくる。

「病気で寝ていると、あの世へ行った時に何をしようかと、いろんな希望事(夢)が思い浮かんで楽しいことよ。旅に取り憑かれた私にとって、あの世でもいろいろな場所を廻るのが夢である。」と云ったところであろうか?


南御堂と云う仏教『浄土真宗』の東本願寺別院前の屋敷で死を迎える芭蕉にとって、『仏教における悟りの境地』を意味する言葉『彼岸』に自分の夢として旅をしながら追い求めてきた『俳句における悟りの境地』を重ねあわせ、大きな感慨があったと思われる。この世を意味する『此岸しがん』に対し、あの世の『彼岸ひがん;悟り』は、芭蕉にとっても『悲願ひがん;追い求めた夢』であったろう。そして、まさしくこの句で悲願である『俳句における悟りの新境地』に達したと思われる。17文字の短い句の中に、芭蕉の長い俳諧(徘徊)人生全体を表現している。この「花屋はなや仁右衛門貸し屋敷」は現在の伊藤忠ビルの場所にあったのではないかと謂われている。タイミング良く、空家あきやであったものである。

この時(江戸時代)もそうであったが、現在、南御堂と伊藤忠ビルの裏向側(西)に『坐摩いかすり神社』がある。この坐摩いかすり神社は、豊臣秀吉が大坂城を建てる前は、現在の天満橋にあった八軒家はっけんや船着場の近く、現在の大阪市東区石町にあった。築城の為に移転を強いられたのである。生国魂神社など、多くの神社仏閣が移転させられており、神々の怒りで豊臣秀吉の天下を象徴する大阪城は落城・炎上の憂き目をみる事になった、と謂う人もいる。今は小さな『坐摩神社行宮ゆきみや』が跡地に置かれている。この『坐摩神社』は《熊野詣うで》のとき、京都から淀川を下って来た上皇や朝廷の公家たちが天満橋の八軒家港で舟を降り、『熊野九十九王子神社』のうちで最初に訪れる『第一王子神社』であり熊野古道の基点・出発点でもあった。窪津くぼつと謂われた港町にあったので『窪津王子』とも呼ばれていたらしい。坐摩神社の由緒は古く、神功皇后が三韓征伐から帰国したときに創建されたらしい。祭神は生井いくい神・福井さくい神・綱長井つながい神・波比祇はびき神・阿須波あすは神の五柱の神々で、神武天皇が神託を請けて宮中に祀ったのが起源の神であるらしい。この神社の社紋は白鷺である。阿須波神は《旅の神様・足の神様》と謂われている。ところで、熊野は黄泉の国・霊魂の聖地といわれている。それは、日本書紀にイザナミが葬られた地と書かれているからである。『枯野』は『彼野』であり、黄泉の国『熊野』である。公家たちは熊野に行く事よりも、熊野から帰ってくることを重視したのではないだろうか。黄泉の国から帰ってきたイザナギのように、人生の『甦り(よみがえり)』を願って《熊野詣うで》に行ったと想像するのは考え過ぎだろうか。熊野の『クマ(熊)』と云う言葉は『未開の地』を意味するらしい。修験行者は『即身成仏』、仏教僧侶は『彼岸』、一般人は『悟り』、わたしの様な凡人は『救い・よみがえり』を求めて、未開の地へ行くのであろうか?世界遺産と成った今は、『癒し』を求める観光客が多数訪れる霊魂の聖地・熊野である。


伊賀の親族や関係者が引き止めるのを振り切って、門人間の争いの仲裁の為に大阪に来た《松尾芭蕉の魂》は、正しくこの世を去るに相応しい場所(舞台)を選んだものである。《辞世の句》を代筆した呑舟どんしゅうは、あの世への渡し舟の船頭か?舞台と配役を準備した主役《芭蕉》は三途の川の渡し舟に乗って、見守る観客《門人》に大見得を切った。


曰く、『旅が病みつきになった私だから、俳句の新境地を拓くと云う夢を追いかけて、あの世の野原をかけ廻ります。皆さん、ご心配なく、旅の神様がおまもりくださいます。花屋はなやからの旅立ちですから献花は無用です。浄土真宗の親鸞聖人の案内であの世へ旅立ちます。さらばでござる。南無阿弥陀仏なもあみだーぶ。』


芭蕉の亡骸なきがらは、死んだその日(10月12日)のうちに門人たちと共に、天満橋の八軒家船着き場から淀川を京都方面にさかのぼり、京都伏見に運ばれた。翌日、芭蕉が遺骸の安置場所として希望していた滋賀県大津の義仲寺に埋葬された。


ところで、私がこの句の「枯野」で思い浮かぶのは『砂漠』である。サウジアラビアの砂漠地帯と熊野の原生林は人を立ち入らせないと云う点で共通している。


小説の中のビッグ・ストーンクラブは実在の秘密結社フリーメーソンをモチーフとした架空の集団ですが、イギリスで生まれた秘密結社フリーメーソンはピラミッド建設時代の石工組合が母体で進化してきたのではないかと想像しています。そして彼らは神霊の存在を信じる集団として活動しています。エジプトのピラミッドが石で構築されているのも霊魂に関係しているからでしょうか? 小説の中で、大和太郎が説明するビッグ・ストーンクラブの7つの憲章はフリーメーソンの日本ロッジ英語版HPホームページに書かれている原則を参考にしています。

そして、フリーメーソンが昔から探し求めているのが、モーゼの十戒が刻まれた石板の入った『聖櫃アーク』であると謂われています。

当時のイスラエルの王ソロモンが砂漠のどこかに隠したのではないかと云われています。

砂漠を探しまわっているフリーメーソンも、自分たちの夢を追っかけているのでしょうか???



  2009年5月30日    目賀見勝利 記



追記; 義仲寺と芭蕉


『義仲の 寝覚ねざめの山か 月悲し』


は、芭蕉が奥の細道の途中、福井県南越前今庄にある(ひうちケ城(木曽義仲が築城)址に立ち寄った時に詠んだ句である。

朝廷をないがしろにする平家の打倒が果たせず、後白河法皇にも誤解され、源頼朝に打たれた義仲の無念な心情を思い、燧ケ城の夜空に浮かぶ月を眺めて詠んだ句と思われる。


芭蕉が弟子への遺言で義仲寺に埋葬を希望した理由が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人(第16回)』を見て判った。

木曽義仲(源義仲)は信義に厚い人物だったようで、源頼朝の命を受けた源義経に敗れ、死亡した人物であるが、源頼朝を恨まず、頼朝の人質に出した嫡男・義高に源頼朝を恨まず平家打倒を見届けるよう遺言した人物である。

芭蕉は、その義仲の義理の厚さや男気に惚れていたようである。


木曽義仲は埼玉県嵐山町鎌形で生まれたようで、鎌形八幡神社の境内に産湯に使った湧水の泉がある。また、鎌形八幡神社の近くに義仲の側女(便女)であった山吹姫(山吹御前)が自分が産んだ義高と義仲の霊を供養するために創建した班渓寺もある。私の自宅から車で20分くらいのところにあり、近くに都幾川の支流があり、その土手には桜並木がある。毎年の春、この桜並木の土手に幼少の子供たちとピクニックに来たのを思い出す。『第一話・比企の風』のエピローグで私立探偵の大和太郎が散策している土手がそれである。


2022年5月10日 追記   目賀見勝利 記

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