2023年4月、塩竃町と山名村
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澄井千代の一日は忙しい。起床は6時20分であり、部屋に鳴り響く目覚ましベルで起きると、すぐに運動着に着替えて同室のモヨ、ヨシそれに沙月の3人と外に出て、集まってきている100人程とに交じってラジオ体操をする。その後は、部屋に帰る者もいるが、千代達4人は半数ほどの者と場内を廻るジョッキングに出かける。
ペースはまちまちだが、歩く倍の速度として4㎞を20分で走破し、シャワーを浴びて部屋に帰る。この習慣は体操などを教えてくれた人が城田という女性自衛官だったために、その人の勧めで根付いたものだ。むろん、必要以外に“走る”という発想のないかの彼女たちにとって、結構しんどいジョッキングには抵抗があった。
しかし、走ることで良いスタイルになるという素晴らしいスタイルの城田の言葉に、様々な媒体で21世紀のファッションなども熱心に見ていた彼女達にとって、充分続ける動機になった。もっとも、その後今人の女性で走る習慣のある女性など少数派ということを知ったが、その時点ではジョッキングは苦痛でもなんでもなかった。
無論汗をかいた下着を含めた運動着は、洗濯機に放り込んで大食堂に朝食に行く。ベースに住んでいる要員2500人の、7割が4カ所の大食堂を利用するが、効率を上げるために朝は20分ごとの3交代の入れ替えになっている。食事は、バイキング形式であるが、パン、ご飯、麺類か、さらに様々なオカズが選べる食事を摂ることは元人にとって大の楽しみである。
ベースに住んで2年近くになる千代達にとってもその通りで、食事の時間は大きな愉しみである。ただ、量の制限がかけられていないために、食べ過ぎて太る者が多かったために、“食と健康”のコースが定期的に開かれて彼女らも出席させられている。
それなりに栄養が足りていた沙月は別として、栄養失調気味だった千代とモヨ、ヨシは2ケ月ほどで健康体になった。しかし、栄養の過剰摂取により太り始めたところで朝のジョッキングと“食と健康”のコースのお陰で“正常”体重を保てている。ただ、やはり元人ではそのように自分をコントロールできない者も数%はいて、彼らは厳しく指導されて体重減の特訓を課せられている。
千代達の朝食時間は7時20分からであり、千代の場合は食事を終えて部屋に帰って仕事着に着かえて、8時発の職場行のバスに乗るまではばたばたである。他の3人は、ベース内の職場または学校なので8時半の始業にはゆっくり間に合う。千代の職場の山名村役場までは約20kmあるが、道路は舗装こそはされていないが、交通渋滞があるわけでなく、15人乗りのマイクロバスは8時30分少し前に役場前に着く。
この時間は始業時間ギリギリであるが、他の2人の山名村への通勤者と共にバスの都合ということで認めてもらっている。役場は、真新しい300㎡ほどの建物で、壁と2階の床はプレキャストコンクリート製であり、屋根は鉄骨スレートである。現在ここで35人が働いているが、人数の割に広いのは2階に会議室を多くとっているからである。
なお、役場に隣接して体育館と運動場が設けられていて、大人数の集会及び催し物ができるようになっている。さらに、役場の裏には寮があって、ベースと同じ4人部屋、2人部屋、一人部屋があって、4人部屋は原則として元人の若年者、2人部屋は子供のいない夫婦もの、または元人の成年者、一人部屋は今人用である。
さらに、元人については“あばら家”に住んでいる者が多く、寒冷地であることを考えると、人道的に問題があるということで、山名村では200戸の村営住宅を建設している。これは、2階建て2DKの3戸ずつのメゾネット形式のプラキャストコンクリート製のもので、すでに満杯であり、入居に関しては大いにもめた。
その訳は、電気も水道もなく隙間風の入る普通の民家に比べて上下水道・電気完備の村営住宅を、あばら家に住んでいるような小百姓に与えるとは何事だということになったのだ。とは言え、山名村の村営住宅の予算枠はすでにない。
だから、早急に村内の家々に対して電気についてはすでに引き込みを始めていること、さらに水道については、井戸から井戸ポンプによる給水網を早急に行うことを説明した。それでも入居希望が多かったので、村営住宅には少人数の家は2所帯入れるなど、詰め込めるだけ詰め込む形になり、結果的に条件が悪くなったことで不満は治まった。
そこで、活躍したのが、前領主の山名作之進であり、高圧的に出るところと妥協もして懐柔策も出すところを硬軟織り交ぜて巧みに決着させた。このように、様々なトラブルの仲介では、“顧問”として十分に働いており、そこにあまり私情を入れていないと見られた。このことから、北海道庁から派遣されている広田村長は山名が後を引き継ぐに相応しいと認めることになったのだ。
千代は「おはようございます」と、正面に顧問の山名の席がある顧問室のドアを開けて挨拶する。顧問の山名、調整室長の今人の磯谷里美、元人の調整員の木村清吾、川合良次郎はすでに席についており、「「「おはよう」」」と返すのを聞きながら末席の自分の席に座る。
調整室の役割りは、開発を進めていくうえで生じる様々な問題を調整して解決するもので、磯谷里美は地方公務員だった夫が建設課長として赴任するに伴ってきたもので、今人の大卒ということで配置されている。木村と川合はそれぞれ35歳、25歳で元は山名の家来であった者達で、主として内政を担当していたので、ぴったりの人材ではある。
千代は、正確に言えば調整室の要員ではなく、役場全体の元人について、主としてパソコンの指導と、お互いのコミュニケーションの仲立ちである。パソコンの指導が重要なのは、現日本政府が元人の住む3島の状況を把握するために、必須のデータをパソコンに入力する必要があるとしたためである。
そうできれば、インターネットを通じてリアルタイムで予算の執行状態、建設の進行状態を把握できることになる。だから、2年前まで電気も知らない人々にそれを要求するのは無理であることを承知で、多数のパソコンを導入して使わせているのだ。
その意味で、千代のように地頭が良く、パソコンの操作も早く覚えることができた人材は、元人の教育に使うこともやむ無しということになる。彼女はごく普通の農民であった元人であり、11歳になるまでまともな教育を受けていなかったのだから、同じ立場の者達を教えるのに貴重な存在なのだ。
日本国の教育法では、13歳の千代の年だと中学生であり本来仕事をさせることはできないが、元人については時震時に8歳以上のものは教育法の適用はしなくて良いことにしている。これは、要は人材に余裕がなく仕方がないという選択である。
元来、大人と言えどもいわゆる読み書き電卓が出来ないと、今から変えて行こうとする日本の国では社会人として生活を営めない。だから、8歳以下の者は、小学校教育を受けさせることで対応するが、それ以上の年の者も、最小限読み書き電卓が出来るまで教育する教室を用意している。
教師役は、今人と、元人の教育が進んだものが教師役を務めている。また、元人で出来るものは10代前半で幼くとも、ある程度は働かせることはやむを得ないとしている。その代わりに、能力のあるものは、働きながらであるが、国費で高校大学レベルまでの教育を行うことにしている。
実際に山名村にもそのための学校と小学校ができて教育を行っている。小学校は、日本国の教科書を使っているが、残念ながら教科書の出版社が失われたので、当分改定はできないためコピーを繰りかえすことになる。また、中学校、高校の教科書も数多くコピーされて、個々人の進度に応じてそれを使って教育がなされている。
「どう、千代ちゃん。皆のパソコンは?」千代が席につくと、室長の磯谷が聞く。
「ええ、今この村役場でデータ入力をしているのは、5人ですが、美代さんと甚助さんは問題なく入力は行えています。またかなえさん、剛太郎さんは少し間違いがありますが、もうすぐ問題はなくなると思います。だけど、小夜さんはちょっとまだ数字に慣れていなくて、桁上がりも理解していないようで、ちょっと……」
「うーん。やっぱり無理かな?」磯谷は言って、会話を聞いている顧問の山名の顔をちらと見る。
「ふん、小夜か。吉川宗次郎の娘だが、ちょっと無理か……、やむをえんのう。すでに3ヶ月過ぎて、千代が全部やり直すようではな、そうそう手間をかけてはおれん。して、代わりの者はいるのか?」
嫌そうな山名の言葉に千代もほっとして答える。小夜は16歳の山名の郎党の娘であり、それが故に村役場に採用されたのだが、そもそも未だ算数をキチンと理解していない。それに、武家のものであるという誇りがあって、百姓あがりの千代の言うことをちゃんと聞こうとしない。
「はい、今教えている子供たちの中で、出来る子がいます。小山集落の正二という子ですが、ご存知ですか」
千代が言うと、山名は知らない風であったが、川合が応じる。
「小山集落の……、おお正二という賢い子がおるな。たしか15歳だったかの。だから、パソコン教室に呼んだのだが。なるほど、あの子が使い物になるか?」
「はい、多分、正二さんだったら、問題なく入力は出来ると思います。ただ、正二さんはまだ勉強はしてもらったほうが良いと思いますので、学校は続けてもらう方がいいと思います」
「そうだの。出来る者はどんどん勉強してもらわんとなあ。山名様、そういうことで、小山集落の大工の息子の正二を採用ということでよろしいでしょうか。小夜については可哀そうですが……」
川合の言葉に山名が応じるが、このように下役の者の意見も取り入れるところが彼の良いところである。
「うむ、やむをえん。儂から吉川に話をしておこう。小夜は16歳か。また、学校通いだな」
なお、磯谷里美は29歳であり、建設課の課長として北海道から来ている磯谷始32歳の妻でありまだ2人に子供はいない。磯谷始は海蘭市の建設課に係長として勤務していたが、政府の公募というか、割り当てに応じてきたものだ。里美は市内の中小企業で事務をしていたものを、夫の移動に伴ってきたものだが、調整室長というのは、大学教育を受けた今人を本土3島で遊ばせる訳にはいかないということだ。
実のところ、始も里美も500年の時を超えて現れた本土には行きたいとは常々話していた。とは言え、職を辞して迄とは思っていなかったので、公務員の立場を保証される今回の派遣は大歓迎であった。しかも、里美も人材の有効活用ということで、公務員としての採用になるということだからより歓迎であった。地方の中小企業の待遇は相当にひどいものなのだ。
彼等は、出来るだけ500年前の世界を見て回ろうということで、北海道から出来たばかりの国土縦貫道を使って愛車を運転してきた。室蘭から函館まで高速道路で行き、函館からフェリーに乗って八戸港に着く。今のところ青森港はまだ工事中であり、八戸から青森の縦貫道部分も開通はしているが、舗装中である。
国土縦貫道の八戸〜大崎間は距離280kmであり、用地は片側3車線、3mの中央分離帯を考えて幅を取っているが、現状では片側1車線のみの開通である。また将来は交叉点のないハイウェイにするが、現状では数は極力絞っているが平面交差になっていて信号機がついている。
これは、交差点を無くしインターチェンジ方式にすると曲線を持つ橋梁が多くなって、工期が長くなるという理由による。また、国道に並行して広軌の鉄道が走っているが、これも将来は複線にするが、当面は単線になっている。現状では新幹線型の12両編成の車両が1日に3本往復していて、半分ほどの乗客は観光客である。
彼ら夫婦はフェリーを降りてからは、まずはまだ未舗装部分が残っている十和田湖への道をたどり、十和田湖周回道路を巡る。十和田湖は貴重な観光資源ということで、早くからこの道路は整備されており、湖畔には国際観光ホテルも既に完成している。
途中には田んぼや畑は目につき集落もあって、所々に最近2年以内に建てられた近代的な建物もあるが、多くの家は現在の基準から言えば古い形式であり、掘っ立て小屋のような家も多い。また、あちこちに砦があるが、江戸時代のような天守閣のある城は見当たらない。辺りに見える人々の7割程度は、今人風の服装で残りは野良着が多いが、これは21世紀の服が圧倒的に安いことによる。
磯谷夫婦はこの十和田湖観光ホテルに宿泊して、新婚旅行再びの気分を味わった。そのホテルには、北海道、沖縄から来た日本人もいたが、海外からの観光客の方が多く、とりわけアメリカ人が多く含まれている。これは、日本がアメリカの保護国になったことから、手続きが簡易になったことと、アメリカ政府も国策として日本への旅行を勧めていることもあるが、保護国ということで親近感が増したことが大きいとされている。
一方で嘗ては日本への旅行者数が最も多かった中国・韓国人は前の1〜2割程度に少なくなっている。この原因は、コロナ騒ぎと世界の全方向に喧嘩を売った中国の振る舞いと、それに同調した韓国が世界のサプライチェーンから外されて、明らかに経済が衰えている。さらに、両政府がアメリカの傘下に入った日本への旅行を制限していることが決定的な要因になっている。
十和田湖を発って乗り込んだ真新しい国土縦貫道のドライブは非常に快適だった。岩手山を右手に見て岩手県を抜け、宮城県に入り大崎で縦貫道を降りて山名村に向かったのは、僅かホテルを出て4時間後であった。山名村赴任後も、磯谷夫婦は車であちこちに行っているが、現状では舗装道路は少ないため、むしろ縦貫道を走って各地の建設基地だった街に行く場合が多い。
このように、望んでやって来て私生活では楽しんでいる磯谷里美であるが、夫の始にとってはなかなかハードな職場であった。元の職場の建設課では、予算があり発注の手続きさえすれば、良く条件が判っている場所と条件で設計と施工をそれぞれの受注業者に任せてその管理と住民対応をすればよかった。
それが、ここでは、大いにやり方が違う。ここでは、建設計画の大枠のみが決められた段階で、設計と施工の両方をやる受注業者が決まる。そして、ブルドーザー等の重機で整地し道路を作りながら、施設の配置を決めていくのだ。これは全てスピードアップのためだ。
一方で、道路の仕様、擁壁・水路などの構造物は全て標準化されており、さらにはプレキャストコンクリート材を用いる建物も同様である。これらの多くは、北海道の工場でパーツを作って船で塩竃に揚げて運んでくる。
だから、施設の配置を決めれば取り合いの設計が必要であるのみで、個々の部材の詳細な設計は要しないが、日々時間毎に調整すべき事項が生じる。それに、始は各々立ち会って決めていかなくてはならないのだ。
そして、当然そこに工事金額の増減が生じるので、それを適正に評価する必要があるのだ。一方で部下は元人であり、常識の根底が異なるためになかなか有効に機能しない。そこで、里美からのアドバイスもあって、山名顧問や、場合によって千代からも中に入ってもらって何とか対応している。
里美とて楽をしているわけではないが、毎日疲れて帰る夫を労わることで、夫婦としてのつながりはより深まったと思う彼女であった。とはいえ、開発開始から1年を経て山名村の外形は概ねでき上ったということで、磯谷始もようやくひと段落と思っている。
これは、漸く変則的な仕事のやり方、元人との協働に慣れてきたことも大きいであろう。一方で里美は、おなかに子供ができて、今後北海道に帰るのか、それともこちらに落ち着くのか思案中である。
別の連載をよかったら読んで下さい。
https://ncode.syosetu.com/n9801gh/
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