1492年7月、スペイン
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在日スペイン大使、アドラ・パブロ・フランコは、カトリック王国スペインのカトリック両王であるイサベル女王とフェルナンド王との謁見の間に進んでいた。スペインは800年に渡るアラブの支配からの奪還戦争を戦い抜き、ようやくにしてアラブ系のグラナダ王国を滅ぼして、この両王の時にポルトガル王国を除くイベリア半島の支配を固めたのだ。
大使は、歩きながら4月1日の時震以来の騒動を思い出していた。時震とその影響については、インターネットが遮断され、スペイン語を含めた日本以外のプロバイダーの通信が途切れた以上、結局は日本のマスコミの報道に頼るしかなかった。とは言え、大使自身は名家であるフランコ家の出身であるが、日本語はほとんどできない。だから、一等書記官のミランダ・コレア・モレラスに逐次翻訳させて事態を把握した。
その混乱の中で、最初に動く必要があったのは、在日しているスペイン人、航空機、船舶との連絡と彼らにおかれている状態の把握である。直前に掴んでいる限りでは、在日スペイン人が約3200人、観光客が210人、航空機は成田にイベリア航空の1機、船舶は1隻が神戸港に2隻が東京港にいた。
これらに連絡を取りつつ、個々の問題を聞き取っていったが、まず問題になったのは金である。永住者または永住に近い人、さらに日本の企業に雇われている人は別として、観光客もそうだが、殆どカードで様々な支払いを賄っている。しかし、そのカードは大抵がスペインの銀行発行なので、本体が消えて無効になってしまったのだ。その意味では、大使館も同じことで、結局は本国からの銀行振り込みに頼っている。
その点では有難いことに、その金の面を含めて、日本の外務省から連絡があって、各大使館の大使以下幹部が集められて話があった。フランコ大使が出た会合は、欧州各国対象のものであったが、その主な点は以下のようなものであった。
①観光旅行者については、日本へのお客さんなので、カードが使えないような場合は、生活が落ち着くまでの一定の枠までの費用は日本政府が負担する。ただし、生活はアパート暮らしのようなレベルになる。
②ビジネス客等については、個別に判断するが、基本的には①に準ずる。
③大使館については、在日の人々の世話等があるので、その運営費については日本政府が借款を与えるが、所有する土地・建物等が担保になる。
④各大使館はこの時代の母国に使者を送って、この時震による事態の説明をして欲しい。さらに、21世紀の世界が持つ技術と、作り上げていた社会について伝えて、産業革命・社会変革を起こすべく努力して欲しい。ただし、とりわけ欧州の国家、スペイン、ボルトガル、イギリス等については、21世紀の価値観においての人権侵害を起こさないように母国を説得して欲しい。そもそも産業革命を起こせば、奴隷労働など必要はないはずだし、外の世界を征服するなどの人的パワーの浪費はできないはずだ。
⑤嘗て、欧州が征服して植民地化した国々・地域にも日本政府は開発援助を行い、それらの国々、地域の防衛についてコミットする。つまり前の歴史のようなことは許さないよ、ということだ。
⑥日本政府は、各国が産業革命や社会変革を起こすのに必要な技術的・財政的援助を行う用意がある。
⑦産業革命や社会変革を起こす際には、日本にいる人々の持つスキルは極めて重要になるはずだ。
⑧時震によって日本列島が1492年に跳んだという意味をよく考えて欲しい。
これを説明した、日本の外務次官は最後の項目を説明した時に、フランコの顔を意味ありげに見た。そして、フランコはその視線の意味をよく解ってはいたが愉快ではない。『アメリカ大陸の発見』という、クリストファー・コロンブスの快挙とされている行動は、つぶさに見れば21世紀の人々の価値観からは絶対に許されないことである。
彼は、カトリック王国スペインのカトリック両王イサベル女王とフェルナンド王を、東回りでインドに至ることができると説得して3隻の船団でカリブ諸島に到着した。彼は、自分が着いたのはインドの一部と信じていたようだが、実際に彼が発見したのは、単に欧州から南北アメリカ大陸に繋がるカリブ海に至る航路である。
アメリカ大陸そのものの発見は、西暦1000年頃に北欧バイキングのレイフ・エレクソンがニューファンドランド諸島を発見したのが最初と言われるが、彼には大陸発見の自覚はなかった。
コロンブスは1492年8月3日、大西洋を横断してインドを目指すべくパロス港を出航した。この時の編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約100人であった。途中で一旦カナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。
大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていき、コロンブス自身も不安を感じるようになる。
10月6日には小規模な暴動が起こったが、これは何とか説得してさらに進み、10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。コロンブス一行は、その島でアラワク族先住民から歓待を受ける。
アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきたが、コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換したもののコロンブスの興味はただ黄金にしかなかった。
そして彼は、先住民が穏やかで、鉄を持たず、武力に乏しいことに略奪、奴隷化するのに都合が良いと思ったのみであった。彼はこの島で連れて来たスペイン人と共に略奪を働き、数人を連れ去っている。さらに、船団は今のキューバを発見した。次いでドミニカ島で座礁したサンタ・マリア号を利用して要塞を作り、39人を残し、 1493年1月16日発ち、3月15日にニーニャ号とピンタ号の2隻でパロス港に帰っている。
スペインで大歓迎を受けたコロンブスは、両王との契約に基づき略奪品の1/10を受け取って味をしめ、再度の船団による略奪・植民を企てる。1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民も目的としていた。
11月に要塞を残したドミニカ島に到着したが、前回作った基地に行ってみるとそこは先住民により破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスから略奪・暴行の見本を見せられて残された彼らが、どのような行為を繰り返した結果そうなったかは想像に難くない。
コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、一方で周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などの先住民の間で白人の行為に対して怒りが重積していた。
これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍は先住民に対して徹底的な虐殺弾圧を行った。行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。まるでスポーツのように、動物も鳥も先住民も、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。
コロンブスがドミニカ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を駆使して、先住民たちに黄金の在処を白状させようとした。
先住民たちはゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばらまく疫病は先住民の想像をはるかに超えていた。最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがて先住民たちを飢餓が襲ったのだった。
コロンブスが何か月も病に臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。コロンブスが快復するまでに、5万人以上の先住民の死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。
1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だった先住民の村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮のモデルとなった。
まさに鬼畜の行いである。しかも彼は戦利品として、多くの奴隷をスペイン連れ帰ったのだ。しかし、流石にこの行いはスペイン本国では受け入れられず、奴隷は送り帰され、彼はその略奪・殺人行為に対して、何度も調査を受け言い逃れてきたが、最後にはすべての地位をはく奪された。
その後、スペインがアステカ、マヤ、インカ等の文明を滅ぼし、その過程で略奪を繰りかえし、女を犯し、男を殺し、奴隷化して飢えさせて殺す行為のモデルを作ったのは、まさにコロンブスそのものである。
余りに先住民を殺したものだから、労働力が不足して、アフリカから数千万人と言われる奴隷を両アメリカ大陸に運びこむに至ったのだ。運ばれた奴隷の数は1千万〜5千万人と推定に幅があり、運搬中の劣悪な環境で20〜50%が死んだという。このアメリカ大陸での蛮行と奴隷貿易は、欧州の白人国であるスペイン・ポルトガル・イギリスの犯した人類史上最大の犯罪であろう。
フランコ大使は、こうした歴史についても否が応でも学ばされ、クリストファー・コロンブスという男の生涯と人格に強い嫌悪感を抱いている。だから、今回の彼のスポンサーたるイサベル女王とフェルナンド王の謁見では、1ヶ月後に迫ったコロンブスの出航を禁じるように嘆願するつもりだ。
とは言え、実際のところコロンブスが実際に出航してサン・サルバドル島に到着しても、歴史のように略奪行為はできないと考えられる。それは、日本政府が援助してキューバ、ジャマイカ、ドミニカ、ハイチなどの在日の人々が、サン・サルバドル島などにすでに到着しているはずだからである。
さらには、アステカ帝国のあるメキシコ、マヤ文明が残っているグァテマラとその周辺諸国、インカ帝国のあるペルーなども同様に、在日の人々が現地の人々と接触して活動をしているはずだ。
ちなみに、フランコ大使は5日前にスペインのパロス港に入港したが、東京〜ジャワ島のシレゴン〜モーリシャス〜ケープタウン〜後年別の歴史でウガンダの首都になるダカールを経てやってきたのだ。
これらの中間点は、日本政府が設けた給油ステーションであるが、スペイン船の他にイギリスが3隻、フランス・ドイツ・オランダ・イタリア・ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、ポルトガルの各1〜2隻が共に来ている。
各船には、50人から200人が乗っており、基本的には母国に着けば日本に帰ることはなく、発電機や工作機械を設置した工場として機能することになっている。
なお、イギリスについては、一緒に豪華客船のグランド・オーシャン号が来ているので、3800人が乗っており、イギリスのみならず、他国に行く予定の人々も乗せている。この客船はたまたま日本に寄港していたのだ。先述のカリブ海や中南米向けの船は、欧州行きと船団を組んでダカールまで同行したが、そこから分かれた。
欧州の国々は、日本に停留していた自国の船を使って、それを改修して持ってきている。これは。日本政府の提言もあって、15世紀の自国を発展させるために有効と考えられる機材を積み、データベースを整え、船内を工場に仕えるように工作機械、燃料を積めるだけ積んでいる。
彼らは長い付き合いがあるので、国どうしである程度融通しあうことも考えて、持ち込む機材や工作機械を選定している。武器についても、日本政府と交渉して、小銃・拳銃などの小火器を持ってきているが、日本の意向で弾の支給が限定的なので、規模の大きい戦いができるほどではない。
中南米に向かった船も、船の中身は同様であったが、彼らの国はあいにく自国船が日本になかったケースが多いために、日本から贈与されたオンボロ船が多い。彼らも小火器を持っており、それはコロンブスやスペイン軍が、大西洋を渡って送り込む程度の軍勢は蹴散らせる程度の物量になっている。
フランコ大使が乗って来たのは、ホセ・ドミンゴ号排水量1万2千トンであり、コンテナ船を改修したものだ。この船の乗員は、本来25人であるが、150人が乗ってきたので、船内を仕切って、居住区を作り、トイレやシャワーなどの衛生設備を増強している。
むろん、最大で200トン足らずの帆船しかいないパロス港に、1万トン以上の鋼鉄製の巨船が現れたので港内は大騒ぎになった。だから、まずは港外でスペイン国旗を掲げ停泊して、ボートで港に入って集まって来た兵達に拡声器で呼びかける。少しでも警戒を緩めるために女性がマイクに向かってしゃべる。
「私は、スペイン人のカルク・シエラ・カセロスです。日本という国の大使館のものですが、いろんなお土産を持って帰ってきました。そして、大事なお話があるので、イサベル女王陛下とフェルナンド王陛下に謁見したいと思っています」
そして、ボートを岸壁に着け拡声器で呼びかける。
「いいですか。私が上陸します。何も武器は持っていません」
32歳でまだ美しい2等書記官のカセロス女史は、一緒に乗って来た男性船員に手を借りながらボートから岸壁を上がる。その後、彼女に会う人が入れ替わり立ち代わり現れ、警備兵の指揮官、港長、市長と段々偉くなってきて、次の日には宰相付きの書記官がやって来た。
かれらに話をして説明するのに、最も有効だったのは、カラー写真集とタブレットの動画であった。見せたのは衛星からのイベリア半島を含む、21世紀のスペインの様々な光景、21世紀の国王陛下の写真、諸外国の様々な音声付きの動画などである。
結局、3日後に入港の許可が得られたので、車両等を陸揚げした。大使は到着5日後にセビリアの仮宮殿に到着し、カトリック両王への謁見の運びとなった。それは7月5日でコロンブス出航の29日前であった。
フランコ大使は、「日本国大使、アドラ・パブロ・フランコ殿」との声で、儀仗官の指示のままに、謁見の間に正面を見ないように眼を伏せて入って進み、指示された位置で膝まづく。
「フランコ大使、面をあげよ」
穏やかな女性の声に顔を上げると、正面の玉座に面長の女性と、その配偶者にふさわしい年ごろの男性が座っている。イサベル1世は今36歳のはずだが、年頃より若く見えるものの若くから苦労したらしく厳しい目つきだ。
「私は日本国大使のアドラ・パブロ・フランコでございます。日本という国は、530年後の世界からこの世界に移転して来たものです。私を大使として派遣した我がスペイン王国も530年後の国であります。私は陛下たちから25代を経た国王フェリペ6世陛下より信任されて派遣されたものです。
両陛下には、初めてご挨拶をさせて頂きますが、両陛下には、私が仕えていたフェリペ6世陛下と同じ忠誠をお捧げするとお誓い申します」
フランコ大使はゆっくりと両王に向かって言う。




