姉妹
魔王グレイザール。
かつて大魔王に仕えし六魔将が一人、灰のヴァルキュリアの息子にして、その名を継いだ灰の魔将。
大魔王の死によって灰の魔王となったが、その実力については不明な部分が多かった。
灰の魔王国の兵のうち、古参の者たちは灰のヴァルキュリアの時代から人間たちと戦い続け、それ故に灰のヴァルキュリアに深い敬服の念を抱いている。
忠誠心や信頼という面では、未だに『グレイザール個人』ではなく、『灰のヴァルキュリアの息子』に向けられるものが大半だった。
「フィアナ。お前がついていながら、何故こんなことになった?」
親衛隊長リーゼは、司令室のほど近くにある自らの個室で妹を問い詰めていた。
魔王秘書官たる妹フィアナに、グレイザールを逃がすように命じたのは彼女だ。しかしフィアナは姉の言い付けを果たせなかったばかりか、グレイザールが戦場に立つことに賛成している。
その心中は、沸き立つ溶岩のような状態だった。
「姉さんはお兄様を信頼していないのですか? ヴァルキュリア様の息子と色眼鏡で見られ、どれほど研鑽しても決して自らの実力と認めて貰えない。そんな状況のまま三〇年以上も耐え続けたお兄様を、これ以上待たせるつもりなのですか?」
そんなリーゼに対するフィアナの態度も、或いはリーゼと同じほどに激しかった。
永久凍土に吹きすさぶ極寒の風のような瞳と声音で、姉を糾弾する。
「――陛下の力はわたしとて理解している。だからこそ、こんなところで危険に晒すべきではないといっている」
リーゼとフィアナは、グレイザールの幼馴染みといっていい存在だった。
幼少の頃に両親を失い、ヴァルキュリアに引き取られたふたりは、その代わりとして彼女のひとり息子だったグレイザールの遊び相手を頼まれた。ヴァルキュリアからすれば、リーゼたちが独り立ちするか引き取り手が見つかるまでの口実のようなものだったのだろうが、リーゼたちはその頼みを真摯に捉え、全身全霊をもって応えた。
リーゼはヴァルキュリアの一番弟子として武技を磨き、その継承者として周知されるほどの実力者となり、フィアナは最年少の文官として城に勤めるほどの才媛となった。
彼女たちにとって、グレイザールは生きる理由といって過言ではない。
しかし、その方針については大きく異なっていた。
「姉さんの言う通りにいつまでも城の奥にいたままじゃ、いつまで経ってもヴァルキュリア様を知っている兵たちはお兄様を認めない。そんな古参兵を見ている若い兵たちはお兄様を侮るようになる。そんなことを姉さんは望んでいるの?」
「望んでなどいない。しかし、陛下を守ること以上に重要なことなどない。侮りたい奴など侮らせておけばいい」
「それじゃ遅いの! この戦いでお兄様が魔王として相応しいことを示さなきゃ、人間たちじゃなくて他の魔王国に隙を見せることになる! 姉さんは戦いだけしかしらないかもしれないけど、今の六魔王国は大魔王様がいた頃の魔王国じゃないんだから!」
「……それほどまでに状況は悪いのか?」
リーゼは政治に疎い。
元々の性格もそうだが、あえて妹の領分に踏み込まないようにしてきたからだ。
彼女たちはお互いの領分を決め、その中でグレイザールを支えることを決めた。明確に取り決めたわけではない。だが、いつのまにかそれが当然のものとなっていた。
「お兄様の力は本物だけど、他の魔王様たちはそれを知らない。大魔王様の遺命だからこそ、六人の魔王が相争う事態を防げているだけなの。でも、どこかで均衡が崩れてしまえば、次の大魔王を決めるための争いになる。そして勝った誰かが正しい者として歴史になる」
大魔王の遺命に叛いたとしても、他の魔王を倒して大魔王となれば、いくらでも理由付けはできる。
今の均衡状態は、六人の魔王の力関係が崩れていないからこそ維持されている。もしもいずれかの魔王が突出した力を持てば、一気に事態は動き出す。
「姉さん、きっとお兄様はそれを理解した上で戦場に出ると仰ったのよ。そんなお兄様の気持ちをどう考えているの?」
「それは……」
「私たちはあの人を幸せにしなければならない。私たちがあの人にそうしてもらったように」
「分かっている。必ずそうしてみせるとも。だが……」
リーゼは答えられない。
姉妹にとって、グレイザールは自分たちを自分たちにしてくれた存在だ。
ヴァルキュリアがふたりに命を与えた存在ならば、グレイザールはふたりに心を与えた存在といえる。
ふたりがグレイザールに抱く感情とは、もはや通常の言葉では言い表せない類のものとなっていた。
「だが、それでも勤めは果たそう」
「ええ、お願い。私も自分の役目を果たすから」
◇ ◇ ◇
一方、姉妹が今後の方針について意見を戦わせていたころ、姉妹にとって一番大切だった男は、自分と同じ存在に重要なアドバイスをしていた。
『なにかあれば、リーゼとフィアナを頼るといい。リーゼは軍事、フィアナは政治について、お前を支えてくれるだろう』
「そんな有能なブレーンがいるのか、羨ましいな」
『母が残してくれた、大切な幼馴染みだ』
「なるほど」
グレイザールは自分と姉妹の関係について、幼馴染みや兄妹のようなものと捕らえていた。
それはある面では正しく、ある面では間違っていた。
『俺のことを俺以上に知っているからな、頼りにならないわけがない』
「いいなぁ、そういう幼馴染みがいてくれて」
致命的な齟齬。
そう、命に至るやもしれぬ齟齬である。
それがここで引き継がれたことに、ふたりは微塵も気付いていない。
もしも真人がこれに気付いていれば、今後の対応を誤ることはなかっただろう。
◇ ◇ ◇
連合部隊の兵がそれに気付いたのは、砦まで一〇〇を切ったあたりだった。
砦の城門前、大軍勢を待機させることが可能な人工的な平原に、ひとつ小さな影を見つけた。
「おい、あれはなんだ?」
兵士たちは当初、それを敵とは認識しなかった。
自分たちの前にたったひとりで進み出るような存在がいるなど、彼らの常識には存在しなかったのだ。
だが、彼らは新たな常識を知ることになる。
「魔王だ」
誰がそう呟いたのか、後の世では様々な説が存在する。
連合部隊に参加したいずれの国でも、最初に魔王を識別したのは自分たちではないと主張したからだ。
しかしこのときの兵たちに、後々発生するそれらの問題を予想することはできなかっただろう。
「魔王だ!」
「魔王だ!」
「魔王だ!!」
彼らは、目の前の存在を倒すべき存在。
倒せる存在だと認識していたのだから。
「なに? 魔王だと!?」
「い、急ぎ事実を確認せよ!」
「なぜ、魔王がそんな場所にいるのだ!?」
情報が齎された部隊の頭脳たる司令本部でも、魔王の行動についての議論が交わされた。
ただ、ここでの議論はさほどの意味を持たない。
「い、異常魔力検出!! 魔力計が……!!」
「本隊に伝えろ! 急げ! これはまるで、三〇年前のあの戦いだ!」
本部に帯同している魔法使いが、魔王を中心として発生している異常な魔力の集束を察知。すぐさま本部へと報告する。
彼らの動きは正確で素早く、称賛されるべきものだ。
ただ、どれほど正しくとも、早くとも、間に合うとは限らない。
人間たちの暦で聖ゲオルギウス暦八七〇二年十月三十一日の正午過ぎ。
魔王を知らぬ人間たちは、その日再び魔王を知ることになる。