触れてはいけない
ローゼン砦攻略の主力を担うのは、灰の魔王国と国境を接する諸侯国同盟の連合部隊だった。
魔王国と人間諸国家の緩衝地帯として作られた山間小国の連合体たる同盟は、魔族との最前線という立地のため、国力に見合わない軍備を強いられていた。
後方国家の支援があるとはいえ、第一次産業は貧弱で傭兵業以外の産業もほとんど育たず、国民は魔族との戦いで日々の糧を得ている状態だった。
そのため、貧困から脱する手段は軍での栄達こそが唯一無二。若い男たちは軍で青春を費やし、ぼろぼろになって故郷へと帰っていく。
そんな人々にとって、今回の戦いは決して負けられない戦いだった。
「この戦いに勝てば、もっと豊かな土地が手に入る」
灰の魔王国は特筆するほど豊かな土壌を抱えているわけではない。
しかし、諸侯国同盟の山がちな国土に比べれば、それこそ天と地ほどの差がある。
「魔族どもに天罰を! 我らの同胞に平穏を!!」
同盟の部隊は高い士気を保ったまま、ローゼン砦へと近付いていた。
◇ ◇ ◇
「敵軍主力、防衛線まで距離四〇〇!」
伝令の報告で、地図の上の駒が砦へと近付く。
ローゼン砦は元来砦としてではなく、補給拠点として整備されていたが、戦略拠点としていくつもの防衛機構を増設された。
砦の正面にいくつも点在する防塁陣地はそのひとつで、これは防衛のための拠点であると同時に砦の目としての機能もあった。
今、司令室に届けられている情報は、この拠点からもたらされたものだ。
「正面の各防塁に徹底させよ。敵への攻撃は牽制に留め、人員の撤退を優先するように」
「はっ!」
リーゼの指示は魔王の意向を受けたものだ。
彼は防塁に死守を命じるのではなく、可能な限りの情報を取得しての撤退を命じた。
それもあって、敵の主力はほとんど損害を受けることがないまま砦へと近付いている。
「あいつ、なにを考えているの?」
リーゼの呟きは、喧騒に満ちた司令室の中に溶け消え、他の誰の耳にも届かなかった。
◇ ◇ ◇
「それで、なぜこんな面倒なことをするんだ?」
真人は砦の一室で、鬼火に向かい合っていた。
敵がある程度まで近付いたところで、彼は出陣する手筈になっている。
それまではほとんどすることがない。というよりも、なにもさせては貰えなかったのだ。
「お前の部下、明らかに呆れてたし、怒ってたぞ。こうやってひとりにさせているのも、余計なことをさせないためじゃないのか?」
『察しが良いな。というか、俺とお前はほぼ同じ存在だからな、思考が似てくるのも当然か』
「確かに顔は似てるけど……」
真人は自らの顔を撫で、その感触が今朝顔を洗ったときに感じたものとまったく変わらないことに、内心驚いていた。
いくら同じ顔でも、ここは自分のいた世界とはまったく違う場所だ。そこで権力者として生きてきた人物と自分がまったく同じ姿をしていることに、違和感を抱かないわけがない。
『この世界の外には、無限に近い数の別の世界がある。俺はその無数の世界の中から、俺にもっとも近い別人を召喚した。それがお前だ』
鬼火は淡々としていた。
その態度があまりにも堂々としていたために、真人は勝手に自分を呼び寄せたことへの怒りを忘れてしまうほどだった。
『俺とお前には多くの共通点がある。同じ存在でも育ち方や知識に差があり、そうした連中では俺がお前にそうしたように、自分の存在をすべて同化させることはできないからだ』
真人は一卵性の双子でも、別の場所で育てられれば好みや容姿に差が出ることを思い出した。
遺伝子は同じだったとしても、育てられた環境や栄養状態で性格も体質も変化する。
しかし、まったく同じ場所で、まったく同じものを食べ、まったく同じ教育を受ければ、限りなくそっくりな双子が出来上がるのだ。
『お前は、俺と同じような知識を持ち、同じような体質を持っているはずだ』
「魔王の教育なんて受けてないぞ」
『お前の世界では教育が充実しているようだな。そんな世界でなければ、今のような受け答えはできない』
「――なるほど」
自らの教育状態を理解できる時点で、その人物は高度な教育を受けていることになる。
真人は鬼火の言い分の一部を認めるしかなかった。
「だけど、魔法とかは知らないし、みたこともない」
『しかし、それを理解するための下地はあるはずだ。魔法といっても技術のひとつに過ぎない。理解できれば扱えるし、しばらくなら俺が補佐することもできる』
「そうじゃなきゃ困る。なんせ、一度も使ったことがない魔法を、こっちを殺そうとしてくる大勢の前で、ぶっつけ本番で使わなきゃならないんだから」
『心配はない。その体は魔法ふたり分の素養がある。――少なくとも、血統は最上だしな』
そういって、鬼火が沈黙する。
真人はまったく表情というものがない存在相手に、これ以上同じ話をするのは得策ではないと察した。
空気を読む技術はどんな職場でも要求されるのだ。
「そもそも、なんでお前は死んだ」
それは、真人にとって最大の疑問だった。
自分が呼ばれた理由でもあるのだから、当然だ。
それに対し、鬼火は声音に憤りを滲ませ、答えた。
『殺された。高度に練られた呪術魔法だ。俺を殺すためだけに作られた、最上級の呪法だったんだろうな』
「おい、だったら俺も危ないんじゃないのか?」
『心配はない。あれだけの呪法をこんな短期間で二度も使うことはできない。そんなことをすれば、世界が壊れる』
鬼火の自信に満ちた言葉に、真人は魔王という存在の大きさを感じた。
『おそらく数十年。大魔王が勇者とともに倒れ、俺が灰の魔王となったときから計画していたのだろう。そうでなければ、魔王を一撃で葬る呪法など作れないし、実行も不可能だ』
「なら、とりあえずは安心していいってことか」
『ああ、今回の無茶は、いうなればその実行犯に対する特大の牽制でもある。俺が生きていると知れば、そいつが誰であれ、次の行動は慎重にならざるをえない』
殺したはずの相手が生きているとなれば、確かに警戒を強めて慎重になるだろう。
少なくとも、事実関係を確認できるまでは動くことができない。
『下手人は俺に近い誰かだ。どれだけ時間を掛けようとも、魔王を呪殺するにはその魔王の近くで情報を集める必要があるからな』
「――もしかして、その犯人も探さなきゃならないのか?」
『それは俺がやる。お前にも手伝ってはもらうが、余裕はないだろう。魔王というのは、存外に激務だぞ』
「激務には慣れてるよ」
真人の目から光が消える。
不幸自慢はしない主義だ。しかし、記憶に刻まれた苦難の日々は彼の心を闇に沈めるに十分だった。
『そうか、頼もしい限りだ。俺はいつ消えるかわからないし、できるだけ早く仕事を覚えることだ』
「――ははっ」
すべてを呪うかのような乾いた笑いによる返答に、鬼火が少しだけたじろいだ気がした。