第七章 同棲は突然に
ぱしゃっ、ぱしゃん…
ぴちょん…ぴちょん…
♪〜♫〜♩〜♪
浴室から聞こえてくる水音に鼻歌のようなものが混じる。ここだけの話、脈絡もなにもない、音になってないような音で、いわゆる音痴。しかし本人には分からないのか、気にせず鼻歌は続く。
♪〜
鼻歌の歌い手は、新品とまではいえないがよく手入れされた小綺麗な浴槽に浸かっていた。浴槽に満ちるお湯には入浴剤か何かが入っているんだろう、ほのかに白く濁っており馥郁たる香りが浴室内に満ちていた。
ピチャンっ
濡れた髪が肌にぺたりと張り付く。
張りのある若い肌は水を弾き、水滴となって肩を伝い風呂へと戻っていく。お湯は暖かく身体を温めてくれているようで、浴室に充満する温かな湯気の合間に見える肌はほのかに朱色に染まっていた。
ピチャンッ〜♪ピチャンッ〜♫
定期的にシャワーから落ちる水が洗面器に落ち、跳ねる音は素っ頓狂な鼻歌に混じり、謎のビートを刻んでいる。
「ふぅっ…。」
浴室の主は大層ご満悦にため息をつく。そのため息には一種の色気も感じられた。
スーッと水面が割れ、水面に脚がみえる。
脚は上に出たと思えば水中にもぐったりを繰り返していた。浴室のライトが脚を照らし、水を纏った足に反射しキラキラ光る。
そしてその脚はまるで少女のように細かった。
少女のように――。
ガチャン!!キーッ…
音は大きかったが、それに反して脱衣所の扉はゆっくり開いた。神楽だ。神楽は人が脱衣所にいないことを確認すると安堵し、大きく口を開けた。
「鼻歌を歌いたくなるほどリラックスして、ゆーっくりお風呂につかるのもいいですけど、私もはいりたいの!はやくしてくださいませんこと?暇!」
「あーごめんねぇ、久々にこんなしっかりした対応してもらったから感慨深くってねぇ。」
あははと楽しそうに笑う暇の声が浴室の壁に反響した。
「暇、あなたって人はこれまでどうやって生活してましたの?」
「んーどうだろう?どうしてたと思う?」
「質問に質問で返さないでくださるかしら。」
本当であれば言っても言わなくてもどうだってよかったけれど、なんとなく話を逸らしたくなる。
「それよりも…一緒に入るかい?」
「んなっ!…」
勢いよく裏返った声が薄い扉一枚隔てた脱衣所から聞こえてきた。半透明の扉の向こうで、見覚えのある長い髪の影がわたわた動くの見える。いい反応だねぇ全く。これでこそ、からかいがいがあるってものさ。
「ふっ、ふざけていますのかしら?」
なるべく平静を保とうと努力しているようだが、声のトーンは上下し、冷静を欠いている。
丁寧を通り越して、もはやぶっきらぼうにも感じられる口調とのギャップに思わず笑いがこみ上げてきた。
「くっくくく…。」
「なにがおかしいんですの。」
どうやらちょっと怒っているらしい。
でも僕は止める気はないよ、だってその方がおもしろそうだからねぇ。
「ていうかさぁ、僕がお風呂から上がっていたらどうしてたのさぁ。あーあ、学校で僕が女の子の着替えてるのを見てたって誤解してたあなたが、出会ったその日のうちに若い男を手籠にするだなんてねぇ。」
少し芝居がかった言い方をして神楽の反応を伺う。
「そんなことありましたっけ?」
少し、変な間があく。神楽はその辺りについては覚えていない様子だった。
そこについてもリセットされてるのか。うーん、対応に困るが仕方ない。これだから神坂ってのは、本当に厄介な場所だ。
「あーそうかぁ勘違いだったみたい。でも、覗かないでくれよぉ。」
「わ!た!く!し!は!タオルと着替えを持ってきただけですわ!」
もしかしたら脱衣所でバッタリ…なーんてことになってしまったら困る。けれど、一応お客さんなんだしタオルすらおいてないっていうのもどうかと思う。神楽の父親も母親も人をもてなすことが好きだったし、神楽もその姿を見てきた。
だからこそ、暇に会わずにタオルを置くためおっかなびっくり脱衣所に入った神楽であったのだが、まさかそれがからかいの種になるとは思わなかったに違いない。
「なんでこんなことになったのかしら。」
神楽は、こうなった経緯を思い出してみた…。
どうやら神楽が寝ていた間に暇と田植の話はついたらしく、起きたら即帰宅することになった。ぐいぐいと玄関まで腕をひっぱられる神楽だったが、すでに暇に対して諦めモードに入っていた神楽は抵抗しない。
引っ張られながらも、キョロキョロと受付付近に先程の女性を探してみたのだがどうやらいないようだ。先程の女性にお礼をいいたかったのだが…仕方ない。
ぼーっとそんなことを考えながら、なすがままにされる彼女だった。しかし、医院から出るや否や突拍子もなくそう告げられた言葉にはっと正気を取り戻す。
「僕、誰にも見えませんし、可哀想ですよね?このまま野垂れ死ぬかもしれませんよぉ?」
情に訴えたかと思えば、若干最後らへんは脅しにかかっている。出会ったときよりも遠慮がなくなってるのは、気のせいではないかもしれない…まあそれくらいのほうが接していて気が楽ですけれども…。
そして仕方なく、家に連れて帰って今に至るという訳だ。お父さんとお母さんがフィールドワークでいなくてよかった。
そういえばお父さんとお母さんがフィールドワーク行ってるみたいって言ったとき、暇が少し変な顔してましたけど…会いたかったのかしら?まさかね、だって暇、他の人には見えないって言ってましたし。
「はぁー。」
今日何度目かのため息が、再び浴室から響く鼻歌に重なって聞こえた。