観音
丈部山継は、武蔵の国多摩の郡、小川の里の生まれで、白髪部氏の生まれの妻がいた。山継は兵士となり、蝦夷の討伐に出かける運びとなったが、当然、妻は山継の身を案じ、木で観音像を作り大事に拝んだ。その甲斐あってか、山継は戦から無事に妻の元へと帰り、観音像に感謝して、妻とともに大切にしたのであった。
それから時が経ち、称徳天皇の御代、天平宝字八(七六四)年十二月。朝から降り始めた雪が、河原の石を覆っていく。山継は、藤原仲麻呂の乱に参じたかどで連座し、打ち首を待つ身となっていた。そのときの列は十三人、山継はそのしんがり。
少し離れたところに小屋がこの日のために建てられている。その中に、死刑を眺める女帝、その隣にはあの道鏡が手もみをしながら嘲りの笑みを満面にたたえている。
一人、また一人。近衛府の官人が振り下ろす刀により、首が雪に落ちてゆく。淡々とした刀さばきは、こうした状況になければひたすらに美しかろう。女帝が塗りたくっている白粉のような地に、いささか毒々しい唇の紅にも劣らぬ血痕が放射状に飛ぶ。けれども降り続く雪により、十二人目の打ち首と同時に、一人目の血潮が消え去った。
次は己。明快な事実を解することがこれほど峻拒できぬとは思いもよらなかった。それでも、官人は雪を踏みしめて鷹揚に近づいてくる。とうとう、その手が山継のうなじに触れた。
「伸べよ」
刀を握る官人の命じるのに残りの付き人が応じ、山継の首の皮が徐々に伸びてゆく。風に混じって刀の冷気が山継の頬をなでた。
突然、山継は冷気から護られた。山継の周囲にのみ、一足早く春が訪れたようだ。地の雪が溶け、表れたのは御足の形に切り取られた地面。
「やいやい。なにゆえそなたがこの穢い土地におるのじゃ」
御声に驚き山継が顔を上げると、足形のあたりに観音様がお立ちになっていた。音もなく空中に姿を現した木の観音様は、五寸(十五センチメートル)程だったはずの背丈が、半丈(一五〇センチメートル)程に伸びている。けれども、その衣の滑らかさは、紛れもなく山継と妻が日々手を合わせ、読経していた観音像のそれであった。山継は両手が縄で縛られていることを忘れ、合掌しようと試みた。
連座となった山継を観音様がお叱りになった。それから御足をお上げなさると、山継の首筋の真上に移動し、そのままざっくりと御足を落とされた。振り下ろされた御足は、山継の首を貫き通し、気付いた時には山継は乗馬用の足覆い、行縢に姿を変えられていた。それを見届けた後、観音様は再びお姿をお消しになった。
「丈部山継はこの中にいるか」
勅使の声で山継の周りの春はどこかへ吹き飛んだ。
「ここにおります。只今、打ち首になるところでございます」
山継は有らん限りの声を張り上げて叫んだ。官人の刀が首から三寸と離れていなかったのだ。
「殺すな」と勅使は言った。「流刑に減刑である」
山継は信濃の国に流されたが、やがて呼び戻され、故郷で助役に官職を得ることとなった。難に遭った際に引き伸ばされた首の痕は遂に消え失せることは無かった。されども、山継の命が救われたのは、ひとえに観音様のお陰であった。
善いことをして功徳を積め。信ずる心を持て。そうすればたちどころに喜びを得られる。災いをまぬかれるものだから。
(了)
この『観音』は、『日本霊異記』の『木の観音像に救われた縁』をもとに、私自身の想像を書き加えて著した作品です。『木の観音像に救われた縁』の現代語訳は河出書房より出版された『日本文学全集 08』(個人編集:池澤夏樹・二〇一五年)の『日本霊異記』(現代語訳:伊藤比呂美)の『木の観音像に救われた縁』を参考にさせていただきました。
『日本霊異記』は、平安時代初期に薬師寺の僧・景戒によって編纂された仏教説話で、主に奈良時代の畿内を舞台にした奇跡や怪異の物語を一一六編収録しています。善い行いをすれば良い報いが、悪い行いをすれば悪い報いを受ける、というような教訓が主となっており、『木の観音像に救われた縁』はそうした教訓に帰結する典型的な説話です。