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草食女子が 悪の華  作者: S.U.Y
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魔王ディアブロ 闇へのいざない

 気が付いたときには、豪奢な広間の奥に座っていた。朝倉珠代(あさくらたまよ)は、目をぱちくりとさせて視線を巡らせる。広間はレトロな燭台の蝋燭に照らされており、血のように赤い絨毯に金糸の刺繍が見えた。


 ここは、どこ? 頭の中を掠めるのは、ありきたりな疑問だった。周囲を見渡し、新しいものが視界へ入ってくるたびに珠代の疑問はどんどんと強くなっていく。

 椅子に座った体勢だが、肘掛けに精緻な彫刻がある。背中やお尻を柔らかく受け止める椅子の表面は、すべすべとした羅紗のような素材だろうか。椅子の左右、少し前方に等間隔に置かれている、あまり趣味の良くない獣の頭部の石像は、一体何なのか。どれも、珠代の記憶には無かった品物である。


 まるで、そこは中世のお城の大広間のようだった。実際に珠代が目にしたことは無いが、珠代の脳内にあるお城のイメージに、広間は近しいものであった。


 夢でも、見ているのだろうか? そんな考えが、浮かんでくる。だが、夢にしては、空気の質感といい、漂ってくるふわりと甘い香りといい、現実の感覚がある。椅子のひじ掛けの冷たい感触もまた、珠代にこれは現実であると訴えかけてくるようであった。


「お目覚めに、なられましたか」


 ふいに、声が聞こえた。珠代ははっと顔を上げる。先ほど見まわしたときには、誰もいない広間だった。だからこそ、声のした瞬間に珠代は飛び上がらんばかりに驚いたのだ。


「だ、誰?」


 誰何の声を、上げた。途端に、珠代の足元、椅子の少し先で空気が揺らめいた。燭台の灯りが明滅し、黒い稲光のようなものが珠代の膝下に瞬いた。反射的に珠代は手を顔の前にやり、目を閉じる。


「初めまして、新たな、魔王様」


 涼やかで、甘い響きのある声だった。それは、ほんの数語でありながら珠代の警戒心を解くような、不思議な音色をしていた。腕を下ろし、珠代はそっと目を開く。


「……っ」


 珠代の足先に、一人の青年が跪いていた。それは見知らぬ、外国人ふうの青年だった。金色のゆるやかなウエーブを描く髪に、白磁のような艶やかな肌、蒼い深海を思わせる瞳が、珠代を見上げてくる。青年の口元に浮かべられた、微かな笑みの美しさに珠代は思わず息を呑んでいた。


「私は、魔王様の執事を務めます、カリスティレスと申します。長くて呼びにくいようでしたら、どうぞ、カリス、とお呼びください」


 爽やかに名乗りを上げる青年に、珠代はぼうっとして見つめ返すばかりである。


「……魔王様?」


 青年の眉が、わずかに曲がる。神々しいばかりの青年の表情に生じた微かな陰りに、珠代ははっと我に返った。


「ま、魔王って……私、ですか?」


 珠代の問いに、青年は真面目な顔でうなずいた。


「そうです。貴女は、魔王ディアブロ様が選ばれた、正統なる後継者なのです」

「ディア……ブロ……? あっ」


 青年の言葉に、珠代は再び固まった。今度は、青年に見惚れた為ではない。青年が口にした名前をきっかけに、珠代の中で強烈な記憶が蘇ってきた為であった。

 



 その男を目にした瞬間、珠代の中に言い知れぬ電流のような感覚が通り抜けた。生まれてから二十四年、それは珠代の人生でも体験したことの無いほどの強い感情だった。


 これまで、恋を知らなかったわけではない。学生時代からの付き合いの、恋人もいた。人並程度には、恋愛というものをしてきたのだ。しかし、その男を見ているだけで訪れる、息苦しいほどの感情は、珠代にとって初めての体験だった。


「どうした? そんなところで座り込んで。動けないなら、俺が手を貸してやろうか?」


 外国人ふうの顔立ちの男が、流暢な日本語で話しかけてくる。そんな非日常的な光景を、珠代はどこか他人事のような気持ちで見つめていた。


「……言葉が、解らないのか?」


 困惑したように、男が黒い眉を傾げる。男の金色の双眸に映るのは、珠代の姿のみである。自分への問いかけだ、と理解した珠代は、慌てて首を横へ振った。


「い、いえ、その……大丈夫、です」


 差し出された手を払うように、珠代は手をついて身を起こそうとする。だが、腰に力が入らない。長い間、アスファルトの上に座っていたせいか、身体が痺れているのかも知れない。


「そのようには、見えないが……そうだな」


 すっと男が手を伸ばし、珠代の膝と背中の下へと差し込んでくる。ふわり、と浮遊感を感じる。一瞬の後、珠代の顔の側には男の赤い革のコートに包まれた胸板があった。


「えっ? あっ、あのっ!」

「少し、俺に付き合ってくれないか。こちらでは、『袖振り合うも他生の縁』とか、言うんだろう」


 男の低い声が、珠代の耳朶を優しく打った。きついウェーブのかかった前髪の間から見つめてくる瞳には、揺るがぬ強い光がある。鼻孔をくすぐる、ほんのり爽やかな香りに珠代は首を縦に振る。


「わかりましたから……下ろして、いただけますか?」


 蚊の鳴くような声で、珠代はようやくそれだけ口にする。


「ふむ。そうか」


 あっさりと男が言って、珠代をそっと地面に下ろす。男の身体が離れることに、寂しさのようなものが珠代の中を駆けてゆく。踏みしめる地面の堅さが、頼りの無いものへと変わってゆくようだった。


 皺の寄ったシャツを整え、ワイドパンツのほこりを払う。今日という日のために、それは珠代の選んだ服であった。だが、男の派手な赤いコートと並んで見れば、いかにも平凡に見えてしまう。


「あの……」

「何だ。やはり、歩くのは辛いか」

「い、いえ、その、私で、いいんですか……?」


 珠代の問いに、男は判らない、といった目で見つめてくる。


「い、いえ、私、その……地味ですし」


 俯いて、自嘲気味に珠代は言った。膝を抱えて座り込んでいれば、解らないかも知れない。上目遣いであれば、可愛らしさもあるかも知れない。だが、化粧で誤魔化そうとも、生まれついた顔の平凡さはどうにもならない。男の美貌であれば、自分などよりも格段に容姿の整った女たちが、いくらでも群がってくることだろう。そんなことを、言外に含めていた。


「俺と、歩くのは嫌か?」

「い、いえ……でも」

「なら、決まりだ。心配せずとも、お前は充分に()()()


 男が野生的な笑みを浮かべ、珠代の手を取った。


「ど、どこへ行くんですか?」

「足の向くまま。帰りたくなれば、帰してやる」


 強く男に手を引かれ、珠代は寄り添うような形になって男の横を歩く。平日の、人気の少ない夕方の公園。僅かに人目はあったが、珠代にそれを気にする心の余裕は無くなっていた。


「……面白い、って、どういうことですか?」


 背の高い男の顔を見上げ、珠代は問いかける。話す時は、ちゃんと人の目を見て話すこと。そんなマナーを建前に、珠代は男の横顔をじっと見つめる。男は、目だけを珠代に向けていた。


「そのまんまの意味だ。こんな所に一人で、どす黒い感情抱えてうずくまっているにしては、お前の見た目は普通すぎる。人間にも、面白い奴がいたものだと感心していたところだ」

「私……そんな」

「一部始終、というわけではないが、それなりには見させてもらった。男と、何か揉めているところと、男が去ってお前が崩れ落ちるところもな」


 見られていた。男の言葉に、珠代の胸の中にまず浮かんだのは羞恥であった。みっともなく、泣いて縋ったわけではない。普通に、それは男の言うようにごく普通に、別れ話を切り出した恋人と、少し揉めてしまっただけのことだ。


「やはり、歩くのは辛いようだな。そこへ、掛けるか」


 まだ血の噴き出ているような傷口に触れられ、珠代の身体から力が抜ける。さっと男の手が腰に回り、導かれるように珠代はベンチへと腰掛けた。


「……何も、無くなっちゃったんです、私」


 ベンチの上で、うなだれた珠代はぽつりと言った。男は黙って、珠代の肩を軽く抱く。男の気ままな振る舞いに、珠代は戸惑いこそ覚えるものの、忌避感は微塵も浮かばない。ただ、男の肩に軽く頭を預けさえしてしまう。出会って間もない男に心を許していることの違和感を、しかし珠代は感じることができずにいた。


「全てを、無くしてしまったか。あの男は、お前の最期の希望だった。そういうことか」

「……っ、は、い」


 こみ上げてくる嗚咽を、珠代はぐっと抑えつけた。泣いている暇は、無い。もっと、男に聞いてほしい。そんな感情に衝き動かされるままに、珠代は口を開く。


「あの人とは、学生時代からの付き合いだったんです。初めてできた、恋人だったんです。でも、社会に出て、お互い忙しくなって……私の勤める企業、そんなに大きくないところなんですけれど、そこが、倒産して……コンビニのバイトで、何とか食べていけるように、なったんですけどれど……そんな時に、あの人が、他に好きなひとが出来たって、だから、別れようって。あんなにも、好きだって言ってくれたのに、もう、あの人の中には、私への気持ちは残ってはいないんだって、そう、思ったら……何も、言えなくなってしまって」


 口にしてみれば、珠代の中でそれは現実として浮かび上がってくる。耐えようとせずとも、涙の源泉は静かに枯れてしまっていた。執着さえも、虚しい感情になる。視界が、薄暗いものに覆われてゆく。全身の力がゆっくりと抜けてゆく珠代の一部始終を、男はじっと見つめていた。


「あの人が好きになったって言った人も、私、知ってるんです。二つ年下の、あの人の勤める会社の新入社員で……よく、仕事のことで相談を受けていたんです。私も、一度、一緒に食事をしたことがあるんですけど、可愛らしくて、誰からも愛されそうな、明るい子でした……私とは、違って」


 問われぬ事を、つらつらと語り並べてゆく。珠代の頭の中は、そうすることで少しずつ、静寂を取り戻してゆく。男は珠代の言葉に肯定も否定もせず、ただ胸を貸して黙っているだけだった。


「……人並みに、幸せになりたかったんです、私。一歩一歩、堅実に生きていれば、それは叶うと思ってました。けれど、何一つ、上手くいかなかったんです。仕事も、それから、恋も」


 暗く沈んだ表情で、珠代は男の胸をそっと押した。男は珠代に逆らうことはなく、珠代の身が男からわずかに離れる。


「ごめんなさい……面白い、お話じゃなくって」


 珠代の言葉に、男は小さく首を横へ振った。


「そんなことは無い。お前は、充分に興味深い存在だ。己の暗い欲望を押し殺し、身に訪れた不幸を甘受している。だからこそ、お前は闇を、大きな闇を抱えていることができる。闇の中で、ひっそりと綻ぶことを待つ蕾のように」


 男の声が、珠代の中へすっと入り込んでくる。


「闇……?」


「そうだ。付けられた傷口の、滴る鮮血を糧として、どこまでも美しく咲き誇る、常闇の大輪。その蕾が、華開く瞬間を、俺は見てみたい」


 男の手が、珠代の手に触れる。あっと思う間も無く、珠代の左手が男の口の前まで持ち上げられ、紅い唇へ薬指の付け根が押し付けられた。


「名を、聞かせてくれ。闇の大輪」


「朝倉、珠代……です」


 男の行為に、珠代は呆然となったまま自分の名を告げる。薬指にかかる男の吐息に、痺れるようなくすぐったさを感じた。


「そうか。俺は、ディアブロだ。珠代、お前の裡に秘めたる闇を、俺に咲かせて見せてはくれないか? お前にとっても、これは悪い話ではない」


 お腹に響く、低いけれども優しい声音。珠代は、反射的にうなずいていた。男が、何をしようとしているのか。騙されて、何か酷い事をされてしまうのだろうか。ちらりと過ぎった考えは、珠代の中で横滑りに消えてゆく。どうせもう、何も残ってはいない。一種捨て鉢な気持ちが、珠代をうなずかせていた。


「はい……」


 掠れた声で答えた珠代に、男はにっと笑みを深くする。挑発的に歪んだその表情に、珠代の心臓がズキリと鳴った。


「契約、成立だ。お前に、俺の持つ全てのものをやろう。お前はこの魔王ディアブロに成り代わり、俺の世界で闇の魔王として君臨する。心のままに、振る舞うがいい。それが、この契約において俺がお前に求める唯一のことだ、珠代」


「ディアブロ、さん……? 魔王……?」


 問うた珠代の眼前で、男、ディアブロの全身から黒い霧のようなものが噴き出してくる。同時に珠代の身体がディアブロに抱きすくめられ、顎に冷たい指が当たる感触がした。


「さあ、やり直しの時間だ、珠代……ん」


 甘い吐息が、珠代の口の中を満たしてゆく。なすがままに、珠代はディアブロのキスを受け容れ、目を閉じた。身体の中へ、色濃い何かが侵入してくる。瞳を閉じて、珠代はその感触に身を任せた。それは、かつての恋人とした幾多のキスのどれよりも、濃厚で、そして鮮烈なものだった。

 ふわりと身の浮き上がるような、不思議な感覚があった。珠代の意識は、ゆっくりと甘い闇の中へと落ちてゆく。


 黒い霧に包まれ、珠代の姿が公園から消える。それを見ていた人間は、誰もいなかった。一陣の風が走り抜け、霧の晴れた跡にはただ、平凡な公園のベンチだけが残されていた。



 そうして、珠代は見知らぬ場所で目を覚ましたのであった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


週一ペースで更新予定ですので、よろしければお付き合いください。


今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。

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