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花散祭中は隊商に泊まっていけばいいという秋沙に、すでに宿を取っているからと断って、璃華たちは午後の仕事へと繰り出した。
自分の中の消化しきれない感情や肉体的ではない疲れは、踊ることで発散できる。舞を見せている間はただ無心で、喝采を浴びれば心は浮き立つ。自分でも会心の出来だと思ったとき、動いたことで上気した頬のまま、どうだと優雅に一礼してみせる瞬間が大好きだ。
祭りの最中だということもあって、客の金離れもいい。次々投げ込まれる硬貨を、凱が興味津々に覗き込んでいるのが印象的だった。
その凱は、いつのまにか璃華たちの側からいなくなっていた。
今日は中央噴水広場で一回、領主館前広場で一回、南小広場で二回、商店街広場で一回、最後に中央噴水広場に戻って一回の公演をおこなったのだが、彼がいつからいなくなっていたのか分からない。
(あ、そういえば)
宿にある酒場で夜煌とふたりご飯を食べながら、公演のときにふと夜煌の気配が変わったことを思い出した。
あれは確か小広場での二回目の公演だったはずだ。
夜煌がバイオリンに弓を滑らせる動きがわずかに揺れた。いつも彼の伴奏で踊っている璃華だからこそ気づいた微細な違いだが、くるりと回転する動きに合わせて窺うと、一瞬だけ夜煌が凱と目を見交わしているのが見えた。
その後はいつも通りの演奏に戻り、演目が終了しても様子に変わりはなかったのでただの思い過ごしかと思っていたのだけれど、考えてみればその後から凱の姿を見ていない。
「夜煌。凱ってどこに行っちゃったの」
「さぁ」
「さぁって……」
薄情な友情に呆れた目を向ければ、訝しげに見返される。その視線にこそ首を傾げる璃華に、彼は不満げに口を尖らせた。
「あいつがどこに行こうと興味ないし。璃華は興味あるの」
「興味っていうか」
「同行も許すし、楽しそうに喋ってるし」
「いや、普通でしょ」
「君はもう少し色んなことに警戒した方がいいよ。あいつは魔族だよ」
「だから、その単語を出すなってば」
いまさら魔族だということで遠ざけるのも変な話だ。常に一緒にいる目の前の青年は、魔族の筆頭である魔王なのだから。
「俺の意見聞かないし、俺のこと置いてくし、いまも俺よりあいつのこと気にかけてるし。璃華は俺よりあいつの方がいいの?」
「いやいや、なんでそうなるかな」
目の前に置かれたパエリアを意味もなくかき混ぜながらぶつぶつと文句を言う夜煌に、璃華は冷や汗を掻いた。
(なんかすっごい子供返りしてない? いや、夜煌の子供の頃なんて知らないけど)
まだお酒は入ってないし、仮に飲酒していても、人間界のお酒は弱くて酔えないと前に言っていたはずだ。
璃華が凱のことを気にするのは、それこそ凱が魔族だからだ。夜煌のことはそれなりに信頼できるだけの時間を過ごしたが、彼のことはまだ知らないことばかりで、目の届かないところでなにかやらかしていないかと心配になるのだ。
つまり気にかけているのは、凱のことではなく彼に迷惑をかけられるかもしれない周りの人々のことである。
しかし仮に夜煌にそう説明したところで、やっぱり彼は自分より凱のことを気にしているとふてくされる気がする。
「せ、せっかくだから、ここで踊らせてもらえないか女将さんに聞いてこようかっ」
璃華は無理矢理話題を変えて立ち上がった。
こういった酒場も璃華にとっては踊り子の仕事場になる。宿を取るために昨日話しただけだが、ここの女将さんは気のいい人だったし、施設内での興行はギルドを通さず自己交渉でも規約違反にはならない。
思った通り女将さんは店を貸すことを快諾してくれた。
まだ文句を言いたそうな夜煌を引っ張り出し、店内にある一段高くなった舞台スペースに上がる。
なにが始まるのだと興味津々の観客たちににっこり笑いかけ、璃華は夜煌と目を合わせた。
基本的に彼は璃華と共演するのが好きなのだろう。こうなるともう、夜煌も文句のある素振りは見せない。
落ち着いた酒場ではしっとりとした踊りを見せることもあるが、本日は花散祭。どこもかしこも浮かれた人ばかりだ。
踊るのは明るく華やかで、底抜けに楽しい舞だ。
パパン、パン。
璃華が鳴らす三度目の手拍子が、夜煌の弾きだしである。
彼の軽やかな音に身を任せる。体は自然と動き、踊りながら思わず笑みが浮かぶ。夜煌と視線を合わせると、彼もバイオリンを顎に当てながら楽しげな笑みを浮かべていた。
たぶん、璃華だけが作り出すことのできる彼の表情だ。
最後も璃華の三度の手拍子で締めくくると、店内にわっと歓声が広がった。掴みは上々。魅せるものではなく見る者をひたすら楽しくさせる踊りを選んでもう一曲。
テンションが上がれば酒も食事も進む。ステージが盛り上がれば盛り上がるだけ、給仕は忙しそうだ。
ちらりと女将さんを視界に捉えると、ほくほく顔で見守ってくれていた。
曲と曲の合間の休憩に、気前のいい男たちや夜煌に見惚れた女性方から次々と酒を振る舞われる。それを景気よく空けていくのが客商売だ。
だが酔いが回れば足腰が覚束なくなるのは当然で、動いて汗を掻いていればなおのこと。正確な舞が怪しくなってきた璃華が最後の曲として選ぶのは、いつも同じ曲だ。
『酒場男の酔狂舞』踊り子としては優美さに欠ける舞だが、こういった場には一番ふさわしいものだ。もちろん店主にも許可を取っている。
演目に気づいた人たちが従業員とともにいそいそとテーブルを脇へ除けていく。曲が分からない人たちが何事かと聞きにいき、内容を知って顔を輝かせた。
璃華はステージから飛び降りて、輪になった人々の中心で拍子を取った。靴が床を叩くと、待っていましたと言わんばかりに客たちも一緒に踊り出す。
これは酒場にいる客を巻き込んでの大衆舞踊である。誰からともなく歌い出すにあたって、璃華はステージで目を丸くしている夜煌を引っ張り出した。
夜煌は曲自体は練習済みであったが実際にこれをやるのは初めてだった。璃華は彼と出会ってから、酒場での仕事をあまりやったことがなかったのである。
これだけ場が盛り上がれば、もうバイオリンの演奏は必要ない。伴奏は肩を組んで野太い声で歌う男たちや、鳴り止まない笑い声だ。
彼を難しい型などない踊りに放り込んで、璃華は隣に来た女性客と手を打ち鳴らした。反対側にいた中年男性に手を取ってくるりと回してもらうと、他のみなと一緒に一斉に頭上で手を叩く。慌てたように遅れて鳴る手拍子が楽しい。
いつもどおり夜煌のバイオリンケースには硬貨が投げ込まれるが、璃華には絶えぬ笑い声がなによりもの報酬だ。
夜も更けて客から解放された頃には、花散祭中の夕食は十分賄えるくらいの儲けが上がっていた。
そこから場所代を女将さんに渡し、ようやく夜煌とともに借りている部屋へと戻ることができた。
「楽しかったねぇ」
「うん。楽しかった」
珍しく楽しかったという夜煌に気をよくして、璃華はうーんと伸びをした。今日はいろいろあって疲れたが、終わりよければ全てよしだ。
心地よい倦怠感に誘われるまま寝台へと向かうと、途中で夜煌に呼び止められた。
「璃華」
「なぁに」
だいぶ酔いの回った声で返事をすると、夜煌が璃華に向かって両腕を広げてきた。
首を傾げて見返すと、彼は腕を狭めて璃華の両手を取る。
「俺、今日頑張ったよ。凱がくっついてくんのにも耐えたし、璃華が居ないとこでもちゃんと人間の相手したし、酒場では楽しかったけど、君の腰に触った男を消し炭にするのも我慢した」
「うんうん。……うん?」
なんだか最後に物騒な言葉が聞こえた気がする。調子よく頷いていた璃華は、回らない思考に眉を寄せた。
そんな璃華を意に介さない様子で、彼は握った手に力を込めてくる。
「だからご褒美ちょうだい」
「ご褒美って、……ふぁ、ちょっ、――むぐぅ……」
取られた手を引かれ、バランスを崩した璃華は青年の胸に顔面から飛び込んだ。見かけ以上にたくましい胸板へ強かに鼻をぶつけた彼女を、夜煌はむぎゅうっと抱き込んでくる。
「ちょっと、夜煌」
「ご褒美、もうちょっと」
文句を言おうとした璃華を遮って、夜煌はますます力を込めてきて少し苦しい。ただ意外に心地よい体温に振り払うことができない。
つむじに柔らかな感触が落ちてくるが、酔っている璃華にはそれがなにか思い至らず、思考はふわりふわりと霞んでいった。
大人しく身を預けてくる璃華に不可思議な充足感を味わいながら、夜煌は彼女の金茶色の髪をひたすら撫で続けた。
普段の璃華は長いひとり旅のせいか、人に頼ることが苦手だ。荷物持ち程度でも申し訳なさそうな顔を向けてくる。
夜煌としてはもっともっと甘やかしたいのだが、ぜんぜん甘えてなどきてくれない。逆に彼女は、魔族である夜煌の人間らしく装えないところなどを、仕方ないなという態度ながら甘やかしてくれる。
夜煌からの抱擁など、いつもの彼女ならすぐに振り払ってからかうなとちょっと怒った顔を向けてくるだろう。けれどいまは酒のせいか、心地よさそうに目を細めて身をゆだねてくれている。
夜煌にとってはまったく酔えない弱い酒だったが、こんな風に甘えてくれるのならば、たまには彼女を酔わせるのも悪くない。もちろんこんな可愛い璃華の姿を他の人間の目にさらすのは業腹ではあるのだが。
あまりにも可愛くて、注意しなければ力を込めすぎてしまいそうだ。
少し加減を間違えれば、すぐに腕の中で潰れてしまう体。夜煌の手にかかればあまりにも呆気なく消えてしまう命。
慎重に触れなければ簡単に壊してしまうのに、どうしても手を伸ばさずにはいられない。
彼女に引っ張り出された踊りの輪の中、驚くことに璃華ではない人間と手を打ち鳴らすことさえ嫌ではなかった。それどころかとても楽しかったのだ。いままで生きてきた中でこんな経験はない。
「璃華」
「んー?」
眠気でほとんど意識がないのかもしれない。返事の声は明瞭とせず、うとうとと何度も夜煌の肩に彼女の額が触れる。
「璃華」
「……ぅん」
覚束ない手であやすように背中を叩かれる。甘やかしたいのに、甘やかされる。
夜煌は璃華の長い髪を指に絡ませながら、もう一度頭のてっぺんに口づけた。ぎゅうぎゅうと小さな体を抱きしめながら、自分と彼女に強力な目眩ましの魔法をかける。
昼間の広場での公演中に、夜煌は魔族の気配を感じていた。この街のどこかに魔族がいて、どうやら魔法を使ったようだった。
どんな魔族がなんの目的でこの街にいて、なにをしていようと夜煌には興味がない。だが注意しろと凱に警告を受けたばかりだ。
凱も魔族の存在にはもちろん気づいたようで、その後から彼の姿を見ていない。悪友がなにを考えて行動しているのかしらないが、それすらも夜煌にはどうでもいい。
自分を狙うなら好きにすればいい。魔王の称号も叩き捨てても未練などない。
けれど、いま夜煌の傍には璃華がいるのだ。どうしようもなく大事な存在。彼の命。彼女を守るためなら、世界を滅ぼすことさえも厭わない。
この街にいる魔族は確実に夜煌よりも格下だ。そもそも魔王である夜煌よりも強い奴は現時点では存在しない。
それでも、璃華を傷つけられない保証はない。夜煌から切り離し、彼女を害する方法ならいくらでもあるだろう。
だから夜煌は強力な魔法をかける。
誰にも知られないように、誰にも気づかれないように、誰にも奪われないように。大事な少女を胸の中に隠す。