14
暗がりからのそりと巨大な体躯が現れる。
璃華と秋沙はそろって息をのんだ。
それは例のキメラだ。飼い慣らされた犬のように大人しく座ってこちらを見ている。
キメラの背中にある女性の顔。このとき初めて寝台に横たわる女性と同じ姿をしていると気づいた。
死んでいるはずの彼女より、さらに生気の濃い顔色。その顔だけ見ると、どうして瞼を開けないのかと不思議になるほど穏やかな表情だ。
震えているのは璃華か秋沙か。繋いだ手が小刻みに震えている。吐き気をもよおすほどの恐怖と嫌悪感に、視界に薄い膜が張った。
泣くものかと、ほとんど意地で歯を食いしばる。
「長かったね、もうすぐだ。もうすぐ、生き返らせてあげられるよ」
恋人の頬を撫でて、領主の息子はうっとりと呟いた。
璃華は部屋中の花の意味を悟った。
これは献花ではない。恋人に贈られた求婚の花だ。
まるでこの世界に自分と彼女だけだと言わんばかりの雰囲気に、呆気にとられる。床に広がる惨状も、そばに侍る異様なキメラも見えていない。
(この人、壊れてる)
一見そうは見えないけれど、完全に精神が壊れてしまっている。それほどまでに、彼にとって恋人の死は受け入れがたいことだったのだろう。
(そうだとしても、こんなの許されない)
どれほど切実な想いがあったとしても、それは死を愚弄し命を弄ぶ行為だ。
璃華は恐怖で干上がった唇を舐めて、口を開いた。
「無理ですよ。死んだ人間は生き返ったりしない。それにそんな方法で生き返ったって、恋人さんはきっと喜ばない。……お願いです。ここにいるみんなを解放してください」
璃華の声に、そこに彼女たちがいることを思い出したように青年は顔を上げた。
きょとんとした目で見つめてくる。壊れてしまった人の、ある意味で無垢な目。
「そんなことないよ。だって彼女がこんな風に死んでいいはずがない。これからずっと僕と一緒に生きるって約束してくれたんだ」
夢のように幸せだった頃を語る青年。追憶にしなければいけないそれを、彼は過去のものとして受け入れていないのだ。
「花散祭の花が散るとき、街に巨大な魔力が放出される。そのときに十四人の娘の命が、彼女を生き返らせるんだと言っていた。大丈夫だ、君たちはみんな彼女の中で生きるんだよ」
なにが大丈夫なものか。あまりに理不尽なことを言っているくせに、まるで理解の遅い子供に言い聞かせるような穏やかさ。
璃華は急激に腹が立ってくるのを感じていた。
それは秋沙も同じだったのだろう。我慢ならないというように領主の息子を睨みつけた。
「馬鹿なことを言わないで! たとえ本当に生き返るとしたって、たったひとりのために何人もの罪のない人を殺すって言うの。いいえ、そんなことしたって絶対人は生き返ったりしないわっ。いったい、あなたにそんな馬鹿な話を吹き込んだのは誰なのっ?」
秋沙の激昂に答えたのは、意外な相手だった。
「狂った奴になにを言ったって無意味だぜ」
「――っ!?」
聞き馴染んではいないが聞き覚えのある声に、まさかと目を見張る。
声のした方を見れば、部屋の中にはもうひとり、長身の男がいた。
「……凱」
「よぉ」
いつの間にいたのか、カーテンの開けられた窓に凭れるようにして凱が立っていた。
この前に見た、人間と遜色ない姿ではなく魔族本来の姿だ。尖った耳と顎の下まで伸びた刺青。逆光の中、鋭い双眸が緑に底光りしていた。
「……魔族?」
訝しげな秋沙の声に、璃華ははっとした。
彼や夜煌のことを、彼女にはなにも話していない。
「秋沙、あのね……」
「事情はあとでゆっくり聞かせてもらうわ。……それで、あなたが彼にこんな馬鹿げたことを吹き込んだの」
説明しようとした璃華を遮って、秋沙は凱を睨み据えた。
こうしたとき、なにを優先するべきか咄嗟に判断する力はさすが、いずれ商会を背負って立つ人間だ。
璃華も口を噤んで凱を見つめた。秋沙が聞いたことは璃華もとても気になることだ。
もともと人間がキメラを従わせることは難しい。だがそこに魔族が荷担していたというのなら話は別だ。
もし彼が関わっているなら、夜煌の友だちだから大丈夫だろうと安直に思って放っておいた璃華にも責任がある。
だが凱はふたりの探る視線に軽く手を振った。
「俺はただの傍観者だ。見ているだけ、聞いているだけ、知っているだけ。俺の興味は別にあるんでね」
あっけらかんと答える凱に嘘を言っている様子はない。そもそもこの状況で、彼が璃華たちに嘘をつく必要があるとも思えなかった。
「ああ、そういえば」
凱と話している間、こちらに意識を向けている様子のなかった領主の息子が、ふと顔を上げて呟いた。
そちらに視線を戻すと、領主の息子は何気ない様子で室内を見回している。
「生き返らせるのに必要なのは十四人って言ってたかな。……一人多いね」
彼が言っているのは、恋人を生き返らせるためにここに集められた女性の数だろう。
ギルドで確認されていた行方不明者は十三人。璃華と秋沙を合わせて十五人だ。
青年が寝台の脇にいるキメラを振り返った。
「ひとり食べていいよ。そうだね、一番最初に来た子がいいかな。もうだいぶ生気がなくなっているし」
それはまるで、大人しく待てをしている犬にご褒美を与えるように。
青年の言葉を受けて、キメラがのそりと立ち上がる。
「や、……」
無意識に声が出た。
このままではここに居る誰かが喰われる。キメラは人間のどの部位から食すのだろうか。
生きたまま犬の頭で食いちぎるのか、さきに猿の腕で握りつぶすのか、爬虫類の尾で絞め殺すのか。なにか璃華では想像できないことが起きるかもしれない。
恐怖が腹立ちに勝る。血の気が引いて全身が震え出しそうだ。いっとき喉が詰まり、だが璃華は意を決して息を吸い込んだ。
泣き叫びそうなくらい恐ろしい。けれどそれ以上に、
「やめなさい、この馬鹿犬っ!」
体の芯から突き上げる怒りのまま、璃華は声高に叫んだ。
(冗談じゃない。絶対許すもんかっ)
こんな理不尽、受け入れてなんてやらない。馬鹿げた妄想にも付き合わないし、誰も殺させたりなんてしない。
一度引いた血が全身を駆け巡って、ひどく体が熱かった。
「あんたみたいな中途半端な犬っころに喰われたんじゃ、それこそこっちは死にきれないから。犬のなのか猿なのか蜥蜴なのかはっきりしなさいよ!」
挑発するようにまくし立てる璃華に、領主の息子もキメラも振り返った。
次に発する言葉を考えながら、さりげなく秋沙と繋いだ手を離そうとする。ある意味で自殺行為なこの行動に彼女を巻き込むわけにはいかない。
しかし秋沙は、璃華の意図を悟って逆に強く手を握ってきた。
離そうとしない力強さに彼女を見れば、秋沙は青ざめながらも毅然と顔を上げている。
「死体のためになんて死んでやるもんですか。彼女もキメラに生かされるなんて可哀想。百万が一生き返ったって、そんなの化け物じゃない。わたしなら絶対にご免だわ」
馬鹿にするように顎を上げているけれど、秋沙の口元が引き攣っているのに気づく。
それでも手を離そうとしない彼女に、璃華も腹をくくった。
領主の息子は顔を顰めてこちらを見ている。
大事な恋人を貶しているも同然の言葉に、かなりの不快感を感じているのだろう。
璃華は手のひらに魔力を集めた。凱が面白そうにこちらを見ているのが視界の端に映る。
「殺せるものなら、わたしたちからやってみればいいっ!」
言葉とともに魔力を放つ。
風の刃となった力は、寝台につけられた天蓋に当たり、わずかな柱の欠片と紗布を散らした。
領主の息子が庇うように恋人に覆い被さる。
その隙に璃華たちは室内唯一の扉へと駆け寄った。
「あの女たちを殺せっ!」
幸いにして鍵は掛かっていない。青年の怒りに満ちた激昂を背に、璃華たちは廊下へと飛び出した。
見回りをしていたギルドの男たちを見つけるのはそう難しいことではなかった。
夜煌が路地から大通りに出て行き交う人々を見回すと、それだけで様相の違う屈強な男たちが視界に入る。
もともと囮となったシーカたちをいつでも助けに入れるようにと、つかず離れずの位置で彼女たちを見守っていたのだ。
璃華たちに持たせていた発信器が急激に移動したことには、彼らも気づいているのだろう。しかしあれだけの移動速度ではおそらく見失ってしまったはずである。
途中まで追えたキメラの気配が不自然に消えたことを考えると、夜煌が感知した屋敷には外部からの探知を阻害する強力な結界が張ってある。
おそらく魔族が張った結界。そこに入り込まれたら人間の魔法具などほとんどガラクタ同然だ。
夜煌は難しい顔を突き合わせて話している男たちに近づいた。
夜煌に気づいた男のひとりが驚いたような顔をして手を上げてくる。作戦開始前にだいぶ駄々を捏ねたので、夜煌の顔は彼らの知るところになっているらしい。
璃華たちが攫われたことと連れて行かれた先を告げる。瞠目した彼らは詳しい話を聞き出そうとしてきたが、眉を寄せて黙らせた。
若干顔を青ざめさせた男たちは、それ以上の追求を止めて仲間たちに連絡を取り始めた。
その伝達方法も移動手段も夜煌にしてみたらあまりにまどろっこしい。苛立たしいなどという感情は久しく感じていなかったが、まさにいまがそれだ。
璃華と共にいることは、夜煌には覚えのなかったり忘れていたりする煩わしい感情も呼び起こす。
ときにそれが全てを破壊してしまいたい衝動を与えてきて面倒だが、それでも彼女の傍を離れるという選択肢はない。
この世にまたとない彼の宝。懐に収めて、誰にも見せずに、この手の中に囲ってしまいたい。
けれど夜煌を魅了した輝きは、外で弾けてこそ本当の意味を持つ。
彼女を人形のように囲ってしまえば夜煌は毎日が安心で幸せだろう。だが璃華が見せてくれる世界ごと全部を愛しているから、制御を失いそうな感情の中、必死に自制する。
頂点に君臨するはずの魔王が、あらゆるものを我慢してでも共に在りたいと望む存在だ。そんなのこれまでの長いときの中でも、これからの気の遠くなる先の未来でも、きっと彼女だけだ。
街の喧騒が遠い。
切羽詰まった異様な雰囲気で通りに集まる男たちはかなり目立っていて、祭りの賑やかさの中で浮いていた。
遠巻きにこちらを眺めながら通り過ぎていく人たち。この街で起こっている連続失踪事件は噂になりつつあるようで、みな不安げな顔を見合わせながら身を寄せて歩いて行く。
夜煌は少し離れたところで、何かの店の壁によりかかってそれらを眺めていた。
街ごと蒸発させてしまいたい衝動と戦いながら待っていると、ほどなく散らばっていたシーカたちが集まってくる。
その中には芭磁もいた。娘を攫われた彼は顔色こそあまりよくないものの、他の人間よりしっかりした様子で夜煌に笑いかけてきた。
「ずいぶんと恐ろしい形相だな。みんな怖がってお前さんに近寄れないみたいだぞ」
そう言いながらも、芭磁は遠慮なく夜煌の背中をばしばしと叩いてくる。
恐ろしい形相と言われても夜煌に自覚はない。たぶん無表情になっているだろう。傍に璃華がいないのに、愛想のいい顔など作れない。
「お前さんの言う屋敷だがな、どうやら領主の館のようだ。どうしてそんな所に連れて行かれたんだかは分からんが、本当に領主が絡んでいるならこりゃあ骨が折れるぞ。おそらく領兵は俺らを中へ入れんだろう」
参ったというように唸りながらも、芭磁の様子はそれほど困っているようではない。
彼はちらりと夜煌を見て、真意の読めない笑みを浮かべた。
「だからお前は、屋敷の敷地に入ったら先に奥へ行っていい。責任は俺が取る。璃華を取り戻すんだろう。ついでに俺の娘も助けてもらえると助かるんだが」
不意に芭磁の瞳に油断できない光がはしった。
夜煌はその目を見て、この男が夜煌の素性について何かを察しているのに気づいた。
なにもかも分かっているわけではないだろう。だが少なくとも、夜煌が人間ではないことには気づいている。それもいま気づいたわけではなく、きっともっと前から感じ取っていたはずだ。
人間という種は弱いばかりでない。夜煌にとって璃華は特別だが、璃華だけが特別ななにかを持っているわけではない。
夜煌はこのとき、初めて人間というものを正面から見る気になった。
芭磁の目を真っ直ぐに見返す。表情は変わらないだろう。だが、
「璃華の友人なら助けることに異論はない。覚えておく」
夜煌の素っ気ない返答に、芭磁は満足そうに笑った。