9
花散祭二日目。
目覚めとともに若干の二日酔いに襲われ、璃華は寝台に沈んだまま少し調子に乗りすぎた昨日を思い出してぐったりとした。
「あー、今日は芭磁さんのとこの仕事があるのに秋沙に怒られるぅー」
重い頭を枕にぐりぐりと押しつけて呻いていると、一足先に起きて外に出ていた夜煌が部屋に戻ってきた。
「璃華? どうかした」
「二日酔いぃ」
枕に顔をうずめたまま、璃華はくぐもった声を返した。
「弱いくせに、調子よく飲むからだよ」
「……わたしは弱くない。普通だもん」
笊な夜煌と一緒にするな。
文句を言いながらも、璃華は顔を上げられない。
二日酔いの影響ももちろんあるが、昨日部屋に戻ってきてからの記憶が曖昧なのがいたたまれなかった。
なんだか彼にひどく甘えたような気がする。頭を撫でられてうっとりしていなかっただろうか、自分。
そんなことを考えていた璃華は、後頭部に大きな手の感触を感じてぴくりと反応した。
昨日与えられたぬくもりを思い出させるような優しい仕草で髪を撫でられると、枕に押しつけている顔が熱をためていく。
これでは顔を上げられないと思った璃華だが、熱を上げるのとは別に、すっと酔いの怠さが引いていくのを感じて目を丸くした。
顔を上げると、穏やかな目をした夜煌が首を傾げた。
「下で、昨日の踊りに参加してた人たちが璃華を待ってるよ。行くでしょう」
「……行く」
夜煌の魔法は本当に都合がいい。まさか二日酔いさえ治せるとは思わなかった。
もぞもぞと起きた璃華は手早く着替えて夜煌とともに一階の食堂へと下りた。
朝食を食べている間、客や給仕が次々に声をかけてくれる。それに応えながら食事を済ませると、とりあえずバスティード商会に向かった。朝一番にじゃらじゃら系の打ち合わせをするのだ。
隊商はいつも騒がしいものだが、今朝のそれは少しばかり種類が違うようだった。もちろん昨日の高いテンションのものとも違う。
隊商をのぞきに来ている買い物客には気づかれない程度の違和感。接客をしている売り子は、いつもどおりの輝く笑顔だ。
だがこの隊商で生活していたこともある璃華だから気づいた。
どこか不安げで、落ち着かない空気。みな璃華と挨拶は交わしてくれるが、詳しいことを教えてはくれない。口にしていいものか、迷っている雰囲気だ。
誰か捕まえて詳しく聞き出すべきか。
悩んでいると、璃華に気づいた従業員が秋沙を呼びに行ってくれていたようで、ほどなく親友がやってきた。
「璃華、おはよう。待ってたわよ、いらっしゃい」
いつも通りの明るさで声をかけてきた秋沙だが、璃華は彼女の目尻に浮かぶ僅かな憂いを見て取った。いつもはきりっとした綺麗で細い眉が、微かに下へ垂れている。
「おはよう。なにかあったの?」
「……中で話すわ」
単刀直入に聞くと、秋沙は困ったように微笑して璃華を促した。
「そういえば、今日は彼氏たち連れてきてないのね。みんながっかりするわ」
「だから、彼氏違うし。……常に一緒に行動してるわけじゃないし」
凱は昨日から行方が知れず行動を共にしてないので、嘘にはならないだろう。
「一応、用心棒なんでしょう。役に立たないわね。それで今日の代わりのナイトはその子なの?」
「あはは、そんな感じかな」
璃華の腕の中を見下ろした秋沙に、璃華は誤魔化すように乾いた笑みを浮かべた。彼女の腕の中には白いもこもこの毛玉が収まっている。
白い艶やかな毛並みに、真っ赤な瞳の猫だ。
白猫は覗き込んできた秋沙に、にゃーと鳴いた。
「あら可愛い。触ってもいい?」
「えっと……」
どうだろうと腕の中を見下ろすと、白猫はぷいと秋沙から顔を逸らし、璃華の腕に顔をうずめて丸くなった。
これは間違いなく拒絶の意だろう。
「ごめん。この子、かなり人見知りなんだ」
「残念。でも珍しいじゃない。旅をするのに動物なんて飼えないって前は言ってたのに」
「えっと、わたしのっていうより、夜煌のだから」
「あら。彼、あんな無愛想なのに猫好きなの」
さも意外だというような秋沙に、璃華は曖昧に頷いた。
もちろんこの猫は夜煌の猫などではなく、夜煌本人だ。出会ったころ、璃華も何の疑問も持たず本当の猫だと思っていた完璧な姿である。
昨日さんざん質問攻めにされたのが堪えたようで、今日は白猫の姿に変身してついてきたのだ。
「確かに可愛らしくて素敵なナイトだけれど、璃華。あなたあんまりひとりで行動しないほうがいいわ。ちゃんと用心棒連れて歩きなさい」
重い口調の秋沙に、思わず夜煌と顔を見合わせる。
どういうことかと聞こうとした璃華だが、その前に秋沙が一つの天幕を開けたのでとりあえず口を閉じた。
着替え用の天幕だろう。先に中へ入った秋沙を追うため、腕の中の猫を地面に下ろす。
抗議するように、うにゃーと鳴いた夜煌の鼻先に、めっと指を突きつけた。
「着替えるんだから、ここで待ってなさい。遊んでても昼寝しててもいいから」
璃華の言葉に渋々頷いた夜煌は、日当たりのいいところを探して丸くなった。その仕草はまるっきり猫だ。
思わずくすりと笑みを零す。
「璃華?」
「いま行く」
来ない璃華を訝しんだ秋沙に返事をして天幕に入ると、すでに彼女はいくつかの布を広げていた。
折りたたみ式のテーブルに並べられているのは、ひとり旅ではあまり着用しない一般的な踊り子の衣装だ。どちらかというと歓楽街で働く踊り子たちが好んで着る面積の少ない衣装。
璃華も着る機会は少ないが、着ること自体に抵抗はない。ただ、大したでこぼこのない体つきのせいで、色気がないと言われるのが悔しいが。
「猫は置いてきちゃったの?」
「ナイトは乙女の着替えを覗いたりしないの」
「それはそうね」
可笑しそうに笑う秋沙に差し出されるままに着替えをしていく。
「それで、いったいなにがあったの?」
細かな刺繍のびっしり入った胸当てを付けながら聞くと、秋沙はいくつかある腕輪を見繕いながら答えた。
「実は昨日から、使いに出た子がふたり帰ってきてないのよ」
「誰?」
「知澄と結那」
璃華は眉を寄せた。
そのふたりは璃華も知っている子たちだ。同じくらいの年頃で、明るく活発でおしゃれ好き。ひとり旅をする璃華にもなにかと声をかけてくれていた。
「ギルドには報告した?」
「まだよ。どこかのお得意様につかまって放してもらえないだけかもしれないし、とにかくいまは手の空いている人で街中を探しているけれど」
秋沙の表情からは、本気でそんな楽天的なことを信じているわけではなく、そうであってほしいと願っているのがありありと感じられた。
「もし夕方になっても見つからなかったら、ギルドに連絡するつもり」
「わたしも探すの……」
「駄目。璃華は仕事しなさい。うちでの公演だって売り上げ向上に期待してるんだからね」
手伝うと言おうとした言葉を、ぴしゃりと遮られる。
大きな商会である秋沙のところとは違い、璃華の稼ぎ手は自分と夜煌だけだ。一日働かないだけで、生活にどれだけの影響が出るのか理解している秋沙は、絶対に手伝わせてくれないだろう。それこそギルドに話しがいって、シーカとして依頼されない限りむやみには関われない。
ままならなさに悄然とする璃華に苦笑して、秋沙が鈴のついている腕輪を差し出してくる。
「どうするのか決まったら、ミララナのお店の方に連絡を寄越してもらうつもりよ。だから璃華は仕事に集中してちょうだい。……腕輪は、三連くらいにしたいわね」
「分かった。……三連は重いよ。せめて二連にして」
「華やかさがぜんぜん違うのよ」
もう二つ渡された腕輪を、渋々同じ手首に付ける。
「でも秋沙、もうずいぶんこの街では失踪者が増えてるんでしょ」
「そうらしいわ。まぁ、これだけ人が多ければ事件も増えるし、駆け落ちとかだってしやすくもなるわ。……鈴は銀じゃなくて金がいいわね」
テーブルに置いてあった例の透ける薄紅色の布と璃華を見比べて、秋沙は違う腕輪に付け替える。
話しながらもいっさい手と目が止まらないのはさすがだ。
「知澄と結那に駆け落ちしそうな相手はいたの?」
「いないわね。あの子たちは駆け落ちするくらいなら、きっと相手を隊商に攫ってくるわ」
「あ、やりそうかも」
あえて軽い感じで話をしながら踊り子の姿になっていく自分を鏡で見ると、同じように璃華の後ろで鏡を見ていた秋沙と目が合った。
「髪型はどうしようかしら。上げる? 下ろす? 髪飾りも選ばないと」
「頭に付けるのは、さすがに軽いのにしてね。動いている間に首がもげちゃう」
「もげたら付け治してあげる」
冗談を冗談で言い返されて、ふたり顔を見合わせて笑った。
金色の鈴になった腕輪を左右の手首につけて振ると、シャンと高く少し甘やかな音が鳴る。
「この音に合わせるなら、髪は下ろして巻きたいな。そこに小さな花の飾りをたくさん付けるの。あったよね、そういう髪飾り」
「あるわよ。ちょっと待って……あら」
鏡越しに何かを見つけた秋沙が振り返って、璃華も彼女の視線を追った。
そこに見つけたものに眉をつり上げる。
「――なに入ってきてんのよ!」
いつからいたのか、天幕の中に夜煌がいた。
白猫の姿のままの夜煌は、白猫の姿のままのくせになぜか分かりやすく愕然とした顔で璃華を凝視していた。
外から「猫ちゃん、入っちゃったー」という子供たちの残念そうな声が聞こえてくるので、子供に見つかってちょっかいを出され、耐えきれずに逃げてきたのだろう。
それにしても着替えていると知っていて入ってくるとは。猫の脳みそで常識が分からなくなってしまったのか。後でぜったいお説教だ。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない、璃華。ほら、こっちへいらっしゃい」
璃華の剣幕に不思議そうにしながら秋沙が抱き上げようとすると、夜煌はするりと逃げて璃華に近づいてきた。と思ったら飛びついくる。
「わっ、なに? ……こら、痛いってばっ」
腕の中に飛び乗ってきたかと思ったら、急に肩や腕に甘噛みしてきた。痕にならない程度に爪まで立ててくる。
「なに? ちょっと、どうしたの」
璃華が顔を顰めて首根っこを掴まえると、夜煌は猫の顔で器用に顰めっ面をしてみせた。赤い瞳で睨みつけてくる。
なにかを訴えたいようだが、もちろん猫の体では口がきけない。夜煌はにぃーと唸ってなおも璃華の肌をてしてしと叩いた。
「お腹が空いているんじゃないの」
「朝ご飯はちゃんと食べたんだけどな」
「じゃあ構ってほしいのね」
「んー……」
首を傾げつつ猫を下ろして、秋沙に渡された布を広げた。ひらひらした薄い生地の短い下衣だ。
さすがに夜煌の前で着替えるのはと思っていると、再度飛びかかってきた白猫は、布に爪を引っかけて璃華の手からそれを奪っていった。
唖然とする璃華の目の前で、ばりばりと爪を立てて布を使い物にならなくすると、ふんと満足そうに胸を反らす。
そんなことを何回か繰り返していると、さすがに微妙な空気が流れた。
「……」
「……」
構って欲しいからいたずらをしているだなんて、もちろん思わない。
呆れた溜め息をついて、璃華はもうすこし大人しい衣装に手を伸ばした。
次話から少し物語が動き出します。