127.意味を知ろう
「……それですべて?」
「いや、俺が知っていることのすべて
ってだけで、俺じゃなくてもっと
別のやつから聞いたら別の話も
聞けたんじゃn」
「いいや、十分だ。それだけで十分」
手を前にして俺にストップをかける。
「んで、てめぇはそれを聞いていったい
何がしてぇんだよ。んなこと聞く
ために俺たちの監視役についたっつー
だけじゃねぇだろうなぁ?」
「やっぱりそう思うよな」
やっぱり、ということは別の用件が
俺たちにあるということなのか。別に
ここで「貴様ー」といいながら殴り
かかってこられても、何もできないし
「助ける」といって縄をほどくなんて
まねもできない。
「……いや、これは私が考えていた
すべての物事に終わりを迎えるため、
それだけのためなんだ」
「「……は」」
「君たちは私と出会ったときに、本物の
ベートーベンは聴覚障害を持っていて
耳が聞こえないといったな。私には
それがどうにも不思議でならなかった。
私たち、絵の世界の住人が生まれてから
かれこれ数ヶ月がたとうとしているけど
私もその始まりからいる住人なんだ。
私という存在が生まれ、絵に「絵」の
世界が生まれたときに私の目の前に
創造主様が現れ、この世界はどういう
構造で動いているかを説明してくださった。
私はベートーヴェンという名で立派な
作曲家であったこと。この絵のほかにも
絵の世界というのはあって、そこには
別の絵の住人がいること。そして、君たち
外部の人間が来たときは気をつけた
ほうがいいということも。そうやって
何不自由なく、ただ創造主様の作った
この世界でのうのうと過ごしている間に
私の中に何か、目新しく不気味な何かが
蠢き始めた。
その正体が君たちが来たことで
わかったんだ」
それは”レゾンデートル”だ。
ベートーベンはそう言う。ある程度
博識ではある俺でもそんな言葉は
知らない。
「レゾンデートル?」
「そんなに難しい言葉ではないさ。噛み砕いて
言うと「生きる意味」だ。君たちの世界では
私はやはり、作曲家で、聴覚障害者で
肝臓の病気で亡くなって、その死ぬ間際ですら
病床で曲を書き続けた。そういうことで
いいかい?」
「そう言ったが」
「わかっていると思うが、私自身にはそんな
記憶なんて微塵もないし、これからも
そんなことはないだろう。特に絵の中という
言ってしまえば永遠をすごせるこんな環境
では亡くなるなんて概念なんてないし、それ
以前に「病床」なんて場所はこの絵の中に
なんてない。
それに私はずっと疑問に思っていた。
創造主様が私が有名な作曲者であると
私に告げてから、私が本当は何者なのか
わからなくなっていたんだよ。何より
私はこの世界に生まれてから曲なんてもの
書いたことなんてなかったからね。
君たちも見ただろう? 最後の晩餐の
イエス・キリストとその弟子たちを。彼らも
キリスト教の救世主とその弟子だと
告げられても、本当に自分たちがそこ
までの人物なのかなんてわかっていない。
ただこの世界に生まれただけだというのに
あれ有名だ、それ立派だといわれるだけの
努力と知能を私たちが持っているとは
思いがたかったんだ。だからあんな風に
裏切り者であるユダとも仲良くわいわい
できると言っていい。
そこで私たちはある結論をもって
このわだかまりを押さえつけようとした。
「私たちは記憶喪失なんだ」とね。
私たちはれっきとした有名人で、その
有名だったとき、努力に満ち溢れた時期の
記憶はすべてなくなってしまい、絵の中で
具現化し、すごしているんだって。そう
思うことで、この何ともいえない心の
空間を埋めようとなんてせず、見なかった、
そんなものはなかったと考えた。でも
私だけはそうは思えない。記憶がない
のであればその記憶がなくなった頃の私、
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが
いたはずなんだと、逆にそう思えて
仕方がなかった。
そして君たちがここに来てすべてが
わかったんだ。私のことを、私のすべてを。
そしてもうひとつわかったのが……
……違うね、もうわかっていたことが、
私は記憶なんてものはなくなってなんて
いないことを。私はちゃんとこの世界の
外にいたし、その世界では私はやっと
ベートーヴェンだったとやっと思えた。
そして私の中に蠢く何かにやっと気づき、
その何かを取り除くための方法もすぐに
わかったよ。
そんなものはないんだよ。ただ
何もない空白があることがわだかまり
だって認めたくなかっただけだ。
君たちはこの気持ちはわからない
だろうね。だからってわかってほしいとも
思わないし、これを聞いて納得してくれ
とも言わない。ただ、私が今抱いている
このなんともいえない感覚と疑問に終止符を
打ちたいだけだ」
「……それで、てめぇはどうしたいんだよ」
「君たちに協力したいんだ」
「「え」」
「さっきも言っただろう? 私の中には
その「生きる意味」なんてものはない。
生きる意味なんてないのであれば、生きる
必要性なんてない。当然の条理だ。
君たちのことは創造主様から最初によく
聞かされているし、これから仮にここを
出ることができたら何をしようとしている
かも予想がつく。今、私にならその意味も
わからなくもない。私たちはやはり元は
といえば絵の住人であって、私たちは
作曲家でもないし、救世主でもないし、
芸術家でもないし、裏切り者の弟子でもない。
ましては、私はベートーヴェンを名乗る
ことすらも許されないはずだろう。
私たちも最初のころはね、この感覚を
他の住人と共感をしてはいたが、時がたち
記憶喪失なんて偶像にすがって見ないよう
見ないようにしていたが、私だけだなどと
決して思わないが、この感覚と闘争を延々と
続けていたのは確かだ。
私がここにいる意味はなんなのか。
創造主様は何を考え、私を生み出したのか。
他の住人たちは何を考えすごしているのか。
私はいったい何者なのか。
……それは当の前から知っていたし、
それを正解だと認めなかったのも私だ。
私はただの絵の住人であり、創造主様が
外の世界から飛び出した先がこの世界な
だけであり、他の住人たちも私と同じ
絵の住人であり、私がここにいる意味なんて
ものはここに生まれてからもないままだ。
私は絵の住人だ。それ以外なんでも
ないし、それより上も下もない。
だから私たちは決めたんだ。この
世界はあるべき姿に戻すべきだと。
……そうゴッホ君は言っていたよ、
最初っからそう。彼はやはり曲がりなりにも
芸術家を名乗ってはいなかったと
いうことなのかな。だから君たちが
やろうとしていることの手伝いに
なりたいと、そう思った。それに君たち
じゃないといけないのだろう? ミスター
コウサキ、創造主の長である君が」
「……あぁ、そうだな」
俺の名を呼んだ。”ムム”と”ビビ”から
名前を聞いていたのか。それに俺が
あいつらのマスターであることも
聞いてあったのか。
「だが、俺たちは今のこんな状態では
何もできない」
「その縄を解けばいいのかい? それ
くらいなら私でもできるよ」
「いや、これはちょっと変わった縄で
そんじゃそこらの力じゃ解けない」
いや、逆に絵の住人であるベートーベン
なら義堂の縄ならほどけるのかもしれない。
と思ったが、それはたぶん公約違反だろう。
絵の中とはいえこの絵の住人はショパンだ。
だから解けるとしたらショパンに限るし、
それでもできるかもわからない。
「……」
「……そっちの君は不満そうだね」
そっちの君とは義堂のことだ。俺の
名前はマスターだからというだけあって
教えられているとはいえ、言ってしまえば
まったくの部外者である義堂の名前までは
さすがに知らないか。
「お”い、それが何を意味してるか
わかってんだろうな?」
「もちろんわかった上でここにいる」
そうだったな。義堂はどちらかといえば
この世界をこのまま残して置きたいと
俺よりも先に考えていたやつだった。
それを踏まえたうえで、壊すといったのも
義堂だったが、ベートーベンの話で
それが何を意味するかを再確認したのか?
「てめぇはとっとと俺たちに慈悲もなく、
ただの絵になってくれりゃよかった
っつーのによ…… この世界が消えりゃ
てめぇも死ぬだろうが」
「いいや、ベートーヴェンはとっくの昔に
肝梗塞で死んでいるよ。だから
私はただの幽霊だということだ。
それでいいし、仮に私がここで死んだ
としても私は君たちの世界では
立派で有名な作曲家、ベートーヴェンさ。
それだけで私はここで過ごした数ヶ月に
意味があったのだといえるよ」
「……ちっ、だからんなことしたくねぇ
っつったんだよ。だが、てめぇがそう
言うならそうしてやる。どんな手を
使おうが、この世界をぶち壊してやる。
そしててめぇはただのくだらねぇ
単なる音楽室のおっかねぇ絵画に
戻っちまえ」
「それが本望さ」
神前とこちらを振りかぶって言う。
「てめぇはどうするだよ」
「どうするって?」
「どうするも何も、どーせてめぇのこと
だからなんかは考えてんだろうがよ。
俺もコイツもそいつに乗っかって
やるから、とっととここから出るぞ」
いや、そんなこと言われても俺は
長ったらしいベートーベンの話を
聞いている間も考えていたさ。ただ
絵の中の住人の一人がこちら側に
ついてくれただけでも良しとして、俺を
含め義堂もそろそろ行動に移らないと
いろいろと時間が間に合わなくなる。
義堂の縄だけでもほどけれb
……もしかして、この手は使えるのか?
「ベートーベン」
「どうしたんだい?」
「この世界について、さっき幽霊が
どうとか言ってたけど、それは
この世界がやっぱり、実態のない
ものだからってことか?」
「あ、あぁそのとおりだが。だから逆に
縄みたいに壊れなかったりするけど」
そうなのか、そういうことなのか。
ならばこの手は使える。使えるぞ。
「ベートーベン、これからこの部屋を
出て、こう創造主様に言ってくれないか」
「え、別にいいが」
「えーっとだな
ヒソヒソコソコソ、ボソボソゴニョゴニョ」
「え、そんなヒソヒソとか言われても
何を言ってるのか……」
「察しろよ! 今言ったらネタバレに
なるからさぁ!?」
今はネタを披露している暇はない。
「それで、それを言って何になるんだい?
そもそもさっきそれはできないって」
「いや、ちょっと事情が変わったからな。
とりあえず、そういって……あぁ、
できればこの絵の世界の中で一番
広い場所、あるいは被害が出ても安全
そうな場所にほかの連中を集めれたら
集めておいてくれ」
「それだけでいいのか?」
「それだけだからいい」
ベートーベンは不思議そうな顔をした
また、俺たちの部屋を去った。本来なら
監視の持ち場を離れている時点で、処罰に
値するのだろうが、それは俺の知った
ことではない。
「神前、あん野郎になんて言ったんだ?」
「”俺が逃げ出した”そう言ってくれって
頼んだよ」
「は”ぁ!? さっきここから出れねぇ
とかなんとか言ってただろうが!」
「それがさっきも言ったが、ちょっとばかし
この世界の条理に俺向きな設定がある
ってわかっちまったからな」
「あ? 設定?」
「そう。まぁ義堂、少しばかし気味が
悪いことになるかもしれないが耐えて
くれ。これなら俺も縄から抜け出せるし、
義堂も縄から開放することができる。
さらにはあいつらに勝てるだけの勝機も
生まれるんだ」
「はぁ? 耐えるだぁ?」
俺はスゥーーーッツと息を吸い込む。
体の中に空気が流れていくのが感じられる。
そして俺はその感覚のまま唱える。
「*****************」




