その2
日曜日の朝。
目が覚めると、永田はまだ夢の中。
私を抱えて眠る腕は力無くだらんとたれていて、ちょっと重たい。身じろぎすれば、寝惚けた声で「……さむい?」と囁く。
ううん、寒くないよ。あったかい。胸に埋まるように身を寄せれば、抱きしめてつむじにキスしてくれる。
「……もう起きる?」
「ううん、もう少し……こうしてたいです」
微睡みながら言って、また夢へと落ちていく。
絡まった足の重み、あたたかい吐息、永田の心臓の音。心地よくて目を閉じると、すぐに眠気が襲ってきた。
二度寝って気持ちいい。
そうやってだらだらと、お昼近くまで彼の腕の中で過ごした。
────パチリと目を開ける。
「あれ、悟くん……?」
横を見るともぬけの殻だ。
ベッドを降りてリビングに顔を出す、と、甘くて香ばしい香りが漂ってきた。
「おはようございます」
「わ、なに、おはよう」
私に気付いた永田が、台所から顔を出す。
「気持ち良さそうに寝てたから、ちょっとお買い物してきました」
テーブルの上には、近所で美味しいと評判のベーカリーの袋が置かれていた。
中を覗き込めば、デニッシュ食パンが入っている。
「メープルと、チョコ、どっちがいい?」
「えーっと……両方!」
「そう言うと思って、すでに両方焼いてます」
「さすが!」
この甘い香りはチョコとメープルの香りだったのか。
どうぞ座ってて、というお言葉に甘えて、私はテーブルにつく。
すぐに焼きたてのデニッシュパンとサラダと目玉焼きが運ばれてきた。
「美味しそう!」
「お嬢様のお口に合いますかどうか」
永田は給仕のような仕草でテーブルにお皿を置くと、恭しく一礼してみせる。
私は笑いながらのっかった。
「あら、セバスチャン。あなたもお掛けになって?」
「いえ、お嬢様と同じテーブルを囲むわけには」
「なにを言うの……あなたと私の仲じゃない……」
「お嬢様、それは……」
「あの夜のこと、忘れたとは言わせないわ」
手を握れば、セバスチャン(永田)がハッとしたような顔をして、恥じらうように視線を逸らした。演技細かいな!
身分差の恋、そして抑えきれぬ想いが一夜の過ちを……
「ちょっとこれは、夜、スーツ着てもっかいやってもらおう」
「嫌ですよ。ほら、冷めるからさっさと食べますよ」
「えぇー! 素に戻るの早いぃ」
もうちょっとセバスを堪能したいのにぃ。
ぶーぶー文句を言う私を無視して、永田は席に着くとパンを食べはじめた。仕方ないので私も倣う。
焦げ目のついたカリカリの表面をかじると、もっちりとした柔らかな中身が姿を現す。デニッシュ生地に織り込まれたメープルの香りが、ふわりと鼻腔へ抜けた。
「おいしーい!」
甘過ぎないほのかな風味のメープル。デニッシュは噛めば噛むほどに小麦の美味さが口いっぱいに広がる。
本当に美味しいパンは、飲み込んだ後も口の中に残るものだ。
「これはリピート確定だね」
「ですね……町のパン屋舐めてました」
次はチョコ。わずかにビターで、味も香りも強いのにパンはしっかりと感じる。このバランスが素晴らしい。
「大発見だ」
「パンの歴史が変わりましたね」
ひとしきり褒めちぎって食事を終える。
ものすごい満足感に包まれた私たちは、ほう、と恍惚のため息を吐いた。
「ごちそうさまでした。悟くんの目玉焼きも美味しかったよ?」
「ついで感がすごいですね。いや、仕方ないか」
「パンが強敵すぎたからねぇ」
ふたり苦笑して立ち上がる。
私は台所で洗い物を、永田は洗濯をすると言って洗面所へ向かった。
なんとなく、鼻歌を歌いながらお皿を洗う。
すると洗面所から、同じ歌を歌う永田の声が聞こえてくる。
低くもない、高くもない、でも柔らかい永田の声。
たまにわざとらしくハモったり、自由に主旋律へ戻ってきたり。
なんだか楽しい。
お皿を洗う水の音も、回る洗濯機の音も、まるで楽器みたいだ。
洗い物を終えても、永田は楽しそうに洗面所で歌っていた。
たぶん、ついでにお風呂も洗ってる。
私はパソコンを開いて、永田の歌声をBGMに小説を書こうとする。
空気の入れ替えのために開けた窓から、風が入り込んでカーテンを揺らす。
その風が、書きながら調子を外してしまった私の歌声をさらって、きっと永田に届いたんだろう。
お風呂場で、クスリと笑う彼の気配が、したような気がした。
*
そのあと、少しだらだらと緩慢な午後を堪能し、私たちはシャワーを浴びて着替え、外出の用意をする。
「まだ合流には早いよね?」
「そうですね。ただ、5時すぎくらいには店に入りたいかな」
実は今日、まっつんと後輩ちゃん、合わせて4人で飲む約束をしているのだ。
念願の4人飲み!
夕闇の中、電車に乗ってお互いの中間地点にある駅へ向かう。
繁華街のあるその駅にはよく訪れるので、見慣れた景色の中、予約をとったお店に入った。
といっても、個室のある普通の居酒屋。
予約名を告げて中へ入ってしばし待つと、個室の薄い暖簾をくぐって、まっつんと後輩ちゃんが姿を現した。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様です、先輩」
「おつつー」
社会人って休日もお疲れ様とか言うのはどうしてだろうね。
そんなことを思いながら、ふたりを席へ促す。
私と永田が隣り合い、テーブル越しにふたりが並んで座った。
「うわ、永田さんお風呂入りたてだ、やーらしー」
「うるさい」
まだ襟足の湿っている永田を見て、後輩ちゃんがからかうように笑う。
永田は彼女を睨みながら、ドリンクのメニューを差し出した。
「今日は誘って頂いてありがとうございます」
各々が好きなお酒と料理を適当に注文すると、まっつんが軽く頭を下げる。
永田とプライベートで会うのに高揚しているのか、頬が赤い。
「別に、たいしたことじゃないだろ。飲み会だって参加してるし」
「それとこれとは同じじゃないですよ!」
まっつん曰く、友達に踏み込みそうな微妙な距離感がドキドキするんだそうな。恋する乙女かよ。
「その後、先輩たちはどうです? って、聞くまでもないか」
後輩ちゃんには常日頃、会社で惚気まくっている。だから永田をからかうためにわざと訊いているんだろう。
永田はそっぽを向いて答えないので、私が「うふふ、幸せ」と定番の返しをしておく。
「へえ、地味子幸せなのか。よかったな」
すると、まっつんがへらへら笑った。
瞬間、私の隣から「……地味子?」と地を這うような低音が聞こえ、冷気が漂う。
「あ」
しまった! と、まっつんが勢いよくバフンと手で口を塞ぐ。
そういえば、永田の前でそのノリだったことってなかったね。
「なに、お前、ひとの彼女をそんな風に呼んでるの?」
「いえ、いえっ、これはあの、あだ名っていうか、なあ!?」
「私に振らないでよ。まっつんに地味子って言われて迷惑してます!」
「……前から気になってたけど、まっつんって」
「え、あ、あだ名だよ!」
「仲良すぎません?」
「誤解です、染谷先輩となんて、ありえないです!」
「むっ」
「ひとの彼女に『ありえない』ってお前な」
「え、えぇー!? ちょっと、華ッ! 助けて!」
「永田さん、相変わらず器が小さいっすねぇ」
「…………」
「華ぁ! 誰がケンカ吹っかけろって言った!?」
「ちょっ、ちょ、みんな、お酒来たよー!?」
いやぁ、はじまる前から盛り上がってるね!
ヒヤヒヤしながらお酒を配り、乾杯する。
「かんぱーい!」
カチンとグラスを付き合わせれば、カランと氷の揺れる小気味よい音が響く。
一応、会社とは関係ない飲み会なので、とりあえずビールみたいなのはない。
永田はハイボール、私は青リンゴサワー、後輩ちゃんはカシスオレンジだし、まっつんは芋焼酎だ。
「……華、って呼ばれてるんだね」
お酒を一口飲んで、私がポソッと呟く。と、
「ブフォッ」
「あ、はい。こっちは『慎吾』って」
まっつんは噴き出し、後輩ちゃんはにっこり微笑む。
そっか、松澤慎吾だもんね。
「つ、つき、付き合ってるんだから普通だろ」
口元を慌てておしぼりで拭きながら、まっつんが恥ずかしそうに答える。
「先輩は『芽衣子』って呼ばれてるんですか?」
「そうだよー。私は『悟くん』って呼んでるんだ」
「……んぐっ」
てへへ、と笑いながら惚気れば、今度は永田が噴き出しかける。
「へーえ?」
「……ニヤニヤすんな」
「永田さん頑張りましたね。一生『先輩』って呼ぶのかと思ってましたよ」
「そんなわけないだろ……」
とか言いながら目線を外す永田。
「先輩呼びも、なんか背徳感あってよかったけどねー」
「なにも背徳的要素がないんですが」
「なんかこう、誑かしてる感じ?」
「よくわかりませんが、じゃあ、たまに呼びます」
「あっ…………うん」
そう言われるとプレイ的な感じでますます背徳感あるんですが。
と思って赤面すると、目の前のふたりがニヤニヤする。
ますます縮こまって赤くなった私に、小首を傾げてきょとんとしていた永田が意図を理解し────
「そ、そういうんじゃないですから!」
と、慌てて弁解したのでした。
*
そうやってわいわい話していると、お料理が運ばれてくる。
枝豆、お造りにサラダなどの定番と、あ、シメサバだ。野菜の天ぷらも美味しそう。
そして例によって例のごとく、後輩ちゃんがあっという間に平らげていく。
彼女の食べっぷりに呆れながら、永田が松澤くんに、
「こんだけ食べると大変じゃないか?」と尋ねた。
「いやぁ、そうでもないです」
大食いなことを自覚している後輩ちゃんは、食べていい時を弁えている。
誰かに奢ってもらう時、食べたら安くなる時、仕事で活力使う時。
彼氏のお財布事情だって把握しているので、無理にたくさん食べたりはしない。外食は雰囲気を楽しむんだそう。
「は? じゃあ、前の中華と今は?」
「前回は奢りだし、今回もセーブしてますよ」
「マジか……」
前回の中華で奢った永田は、驚愕の表情で引いていた。
「華は家デートの時は料理作ってくれるんですけど、大食いなだけじゃなくてグルメなんで、量は多いけどめちゃくちゃ美味しくて」
「大皿料理しか作れないっすけどね」
おかげでちょっと太りました、とまっつんが苦笑する。
そうやって節約しながら一緒に過ごしてるんだね。
「胃袋つかまれまくりだねぇ」
私がニヤニヤすれば、彼は照れつつ
「むしろ握りつぶされてます」なんて言う。
「握りつぶされたら死んじゃうだろ」
「そうっすよ、生かさず殺さず」
「いや生かしてよ!」
永田のツッコミに乗っかる後輩ちゃんにツッコむまっつん。
後輩ちゃんは楽しそうに笑って頬杖をつき、まっつんを見つめる。
「そーね、生かしといてあげる。元気に長生きして、あたしが死ぬまで稼いでもらわないとねー」
それって一生一緒にいること前提でしょ。
遠回しのノロケに、私と永田は顔を見合わせて苦笑する。
幸せそうでなにより。
──と思った、その時。
視界の端で、何かがキラリときらめいた。
それは後輩ちゃんとまっつんの左手の薬指で、銀色に輝いている。
────指輪!!!
カップルのド定番、お揃いの指輪!
あれ、そういえば、私たち指輪とか買ってない。
色んなゴタゴタでスッカリ抜け落ちていた。
もう同棲してるのに、こんなに仲良しなのに、私たちってどっか抜けてるよ!
気付かなかった自分にビックリしながら、今日の帰りに勇気を出しておねだりしてみようと決めた。




