バカは風邪引かないのです
「──永田くん、起きて。お粥できたよ」
よく眠っていたから気が引けるけれど、思い切って声をかける。
食べてお薬飲んで、もう一回寝た方がいい。
何度かそっと揺り動かすと、永田は唸りながら寝返りをうった。
額にじっとり汗をかいている。
タオルで軽く拭ってやると、ゆっくり目を開けて私を見て、じわじわと覚醒していくのがわかった。
「具合どう?」
「もう、全然へいきです、なんならちょっと走れるくらい……」
軽口を言って、フラフラしながら起き上がる。全然平気そうじゃない。
私は彼を支えて小さなローテーブルの前に座らせると、土鍋とふたり分のたまご粥、お漬け物や梅干し等を用意する。
お粥を取り分けて渡すと、
「ありがとうございます。いただきます」
と掠れ声で丁寧にお礼を言って、食べはじめた。
「おいしい……」
「よかった。何気に初めて作ったよ」
「へぇ、やっぱりバカは風邪引かない的な意味で縁がなく?」
少しご機嫌になった永田が、いつものように毒を吐く。
ホッとした私はわざと怒った表情を作る。いつものじゃれ合い。
「バカじゃないもん。風邪の時は、ポカリと桃缶って決まってるの」
「あぁ、桃缶もいいですね」
「そういえば、お粥自体、すごく久しぶり」
そう言うと、永田は少し申し訳なさそうにする。
「……もしかして苦手でした?」
「ううん、違う違う! かーくんが、ベタベタのご飯は嫌だっていうから作ったことなかっ────
…………あ」
言ってから、しまった、と思った。
慌てて口を噤むけれど、時すでに遅し。
「そう……かーくんはお粥が嫌いなんですね……」
永田のテンションが、目に見えて萎んでいくのがわかる。
憮然とした表情で、黙々とお粥に口を付け、喋らなくなってしまった。
元彼の名前を言うのが、完全にマナー違反なのはわかってる。
だけど、10年も生活の中心だった人だ。どうしたって物事の端々にチラつく。
気をつけてはいるけれど、ちょっとした気の弛みで、こうやって口をついて出てしまう時があった。
「……ごめんね」
自己嫌悪で永田の顔が見れず、俯きながら謝る。
彼は、うん、と小さく頷いた。
「僕も、変な絡み方してごめんなさい。……ねえ、このたまご粥、塩と出汁だけ? シンプルで美味しいですね」
たまご粥を啜りながら永田が尋ねる。
話題を変えてくれたのが嬉しくて、「そうだよ!」と飛びついた。
「風邪だから、余計なもの入れない方がいいと思って」
「なるほど、お気遣いありがとうございます。そういえば僕の実家では、たまご粥にお味噌が入ってるんですよ」
「へぇ、そうなんだ!」
お味噌入れるレシピ、調べた時にあったなぁ。あれも美味しそうだったし、今度作ってみよう。
「母と、ヒナキも風邪の時によく作ってくれて」
……ん?
「ヒナキ、って、妹さん?」
「いいえ。妹は梨花っていうんです」
「…………じゃあ、いったい」
誰? そう訊こうとする唇が震える。
本能的に、言葉の中に刺のようなものを察知してしまう。
永田はこちらを一切見ずに、梅干しをお粥の中でほぐしながら話し続けた。
「ヒナキは幼馴染です。僕がずっと好きだった人。長い片思いをしてたって、前に言いましたよね?」
「……うん」
想いが通じ合った日、私を好きになった切っ掛けとして、その話は聞いていた。
ずっと片思いをしていた相手に失恋して、私が意図せず慰めたのだと。
「ヒナは、今は幼馴染じゃなくて兄嫁なんです」
「あ……」
お兄さんの、奥さん……。
だから諦めたんだ。以前に送ってもらった、結婚式の写真を思い出す。
新婦さんは、すごく綺麗で優しそうな女性だった。あの人のことを、ずっと……。
そう思うと、なんだか胸が痛い。
「……まだ好き?」
「…………」
「好きなんだ……」
そうなんだ……。
そうだよね、あんな素敵な人、忘れられないよね。
しかも、兄嫁になって、ずっと親戚として付き合っていかなきゃならないし。
可哀想で、悲しい。そしてそれだけ想われて、ちょっと羨ましい。
ヒナ、って呼んでるんだね。
永田くんは、なんて呼ばれているんだろう。
私のことも、いつかそんな風に呼んでくれないかな。
ヒナ、っていいな。可愛い名前……。
胸のチクチクは増して、息苦しくなった。
ご飯が急に喉を通らなくなったけれど、悟られたくなくて、俯いたままレンゲでお粥をかき混ぜ続ける。
唇を噛んでぐりぐりとお米をつぶしていると、
「……ごめんなさい、嘘です」
やや間があって、掠れた声で永田が言った。
私は「へっ?」と間抜けな声を出しながら顔を上げる。
「ごめんなさい、勘違いさせようとしました。ちょっとだけ、やり返したくなって……本当に……ごめんなさい」
眉を眉間に寄せ、苦しげに私を見つめる。
その瞳には、昨夜と同じ翳りが見てとれた。
嫉妬と、情欲……。
本当は怒るべきかもしれない。
けれど、怒りよりなにより、安堵と喜びが勝った。
つまり、私にも嫉妬させたかったってわけね?
永田はいつも、かーくんのことで、これくらい悲しい気持ちになってたってことだよね?
「じゃあ、これでおあいこ!」
「……おあいこにしてくれる?」
不安そうに尋ねる永田に、大きく頷いてみせる。
「もちろん。今が大事だよ」
「うん。今も、これからも……僕は先輩だけだよ」
そう言って顔を赤くする。
まったく、自分で掻き混ぜて空回って、うじうじしたり怒ったりして。彼の面倒くささは、後輩ちゃんから聞いていた通り。
だけど、そんなところさえも愛しい。
こうやって微妙な空気になっても、私に向けられた感情なら、きっとそう思ってしまう。
許された永田は胸を撫で下ろし、再びお粥にとりかかる。
「あーあ、おかしいな。僕はこんなに嫉妬深くないはずなのに」
と、ほぐした梅干しを食べて酸っぱい顔をしながら愚痴った。
「はず、ってなによ」
「だってこんな風になったことない」
「こんな風って?」
わずかに視線を外した永田の頬が、風邪以外の熱で再び赤くなる。
「先輩といると、ほんと、わけわかんないんです。好きすぎて、おかしくなる」
「……なにそれ、褒めてる?」
「褒めてるって表現はおかしいような」
「じゃあ、夢中?」
「……夢中ではあります」
そっか、夢中か。嬉しいな。
そんなこと言われたら、嘘だってなんだって許しちゃうかもしれない。
「えへへ」
「……なんですか」
「夢中なんだ?」
「そう言ってるじゃないですか」
プイと顔を背け、不機嫌に眉をしかめる。
可愛い照れ隠しに私がニヤついていると、永田がふいに深いため息を吐いた。
「だから、他の男と楽しそうにされると辛い」
「え?」
他の男?
きょとんとすると、彼は眉間のシワを深めた。
「……松澤。最近よく休憩室でバカ笑いしてる」
「バカ笑いはしてないよ!」
「大口あけてさ、距離も近いし、無防備すぎでしょ。いくら好きな人がいるとはいえ、いつ先輩に鞍替えするかわかんないし。そうなったら、今の僕は忙しくて構ってあげられないから、阻止する術がない」
おいおい、飛躍し過ぎだよ。
冗談めかして言っているけれど、昨晩の行動といい、たぶん本気で嫉妬している。
「それって私がフラフラしてること前提だよね? 失礼しちゃう」
「先輩にその気がなくても、流されて持っていかれる危険性が」
「う」
合コンで前科アリなので、何も言えない……。
どう答えようか考えあぐねていると、
「まあ、そうやって流しに流して手に入れたのは僕なんですけど」
と永田が小声で自己ツッコミを入れ、お椀に残ったお粥をぱくりと食べた。
そして「ごちそうさま」と微笑むと、会話を打ち切ってしまった。
*
永田は思ったよりよく食べて、たくさん作った土鍋のお粥をほぼ空にした。
お薬を飲んで再びマスクをつけ、横になる。
私は洗い物してからお風呂を借りよう。
その後、彼が出しておいてくれたお客様用の布団を敷いて隣に寝る。
今夜はもう何もないし、早めに寝ようっと。
そう思って台所へ立とうとすると、永田が呼び止めてきた。
「なに?」
「こっちきて」
手招かれるままベッドの縁に座る。
すると、永田が上体を起こして私の手をグイと思い切り引いた。
「ふぇっ!?」
「松澤の件はまだ決着ついてないよ」
耳元で、低く剣呑な声が響く。
気が付けば私はベッドに倒れ込み、彼はひらりと私を跨いで組み敷いていた。
熱あるのに元気だな!
逃がさないように伸し掛かった永田は、ベッドの中で私を抱きしめ頬ずりし、マスク越しに耳や額に口付ける。
ただでさえ熱い吐息がさらに熱を帯び、体温が上がっていく。
「先輩のこと、もうちょっと懲らしめたい。本当はずっと怒ってた。今週は本当に辛かったです」
情けない声で、彼は弱音を漏らす。
松澤くんのことも、かーくんのことも、心の中でずっと燻っていたのかもしれない。
「風邪、うつすから。覚悟して」
小さい罰だな。そんな風に思いながら、覚悟を決める。
キスとか、それ以上のことをされるんだ。私はぎゅっと目を閉じる。
──けれど、いざキスをしようと顔を近付けて、永田はやっぱり躊躇った。
私を抱きしめた手は、いつまで経ってもマスクを外さない。
本当にうつったらどうしよう。そんなことを考えているのがバレバレだ。
……こういうところが、とても可愛い。
「バカは風邪引かないんでしょ?」
いつまで経っても降ってこない唇に、私は笑いながら、そっと彼のマスクをずらす。
私からちゅっとキスすると、永田が困ったように柳眉を下げた。
「……知らないですよ」
「自分ではじめたくせに。平気だよ、覚悟したもん」
さらに煽るように啄ばむと、ようやくキスに応じてくる。
何度も角度を変えながら唇を重ねた。彼の骨張った長い指が、確かめるように髪を撫で、耳朶をなぞる。くすぐったくて気持ちよくて、永田の下で身をよじった。
唇も舌も吐息も手も全部、触れている部分がものすごく熱くて────
ってコレ、熱すぎじゃない? 熱、すっごくない!?
「ま、まってまって、永田く、っんん」
「だめ、覚悟、したんでしょ」
「ちが、ちがうちがうっ」
大慌てでなんとか引き剥がし、永田のおでこに手を当てる。
めちゃくちゃ熱い。
引き剥がされた永田は、真っ赤な顔でボーッとこちらを眺めている。目が虚ろだ。
「寝ろ。寝るんだ、永田くん」
私はするりと抜け出すと、まだキスし足りないのかこちらに手を伸ばす永田を、無理やり布団に仕舞い込んだ。
そして、おでこに冷却シートを貼って寝かしつける。
最初はむくれていた永田も、しばらくすると落ち着いたのか、眠るための深い呼吸に切り替わった。
洗い物をしながら様子を窺っていた私は、そっと振り向く。
すると、眠りに落ちそうな永田が、とろりとした目でこっちを見ていた。
「……明日、また、懲らしめるから」
弱々しく眠気を含んだ声で呟く。
「うん。楽しみにしてる」
「楽しみは、おかしい、でしょ……」
ツッコミながら、すう、と意識を手放したのがわかった。
熱で苦しそうではあるけれど、心の中の苦いものを少し吐き出したせいなのか、その寝顔は穏やかだった。
****
頭に触れるあたたかな感触で目を覚ます。
瞼を閉じていても感じる光が、朝だと伝えていた。
目を開けると、ベッドの上から片手を伸ばした永田が、横で布団を敷いて寝ている私の頭を、ゆっくりと優しく撫でていた。
「……おはよう?」
驚きながら挨拶すれば、彼は柔らかく微笑む。
「おはようございます」
そう言って縁に身を乗り出し、私を甘く見つめた。
顔色もだいぶ良いし、マスクも外していて、すっかり元気そうだ。
「体調、どう?」
「もう熱もないし、大丈夫です」
「そっか、よかった……」
「…………」
昨夜の余韻が残っているのか、見つめ合うと赤面してしまう。
そんな私を見ながら、永田は少し辛そうに顔を歪めた。
「昨日は、本当に申し訳ありませんでした」
昨日、『ヒナ』さんのことを当てつけて嫉妬させようとしたこと。
松澤くんのことでの八つ当たりと、風邪なのにキスしたことも、もう一度謝ってくれた。
正気に戻った永田は、朝からひとりで反省会をしていたらしい。
「もう消えたいです……」
しゅんとして腕に顔を埋める。
ぐったりしてベッドに突っ伏す彼を見ながら、そんなに自己嫌悪しなくってもいいのに、と私は呑気に思う。
きっとお互いに、振り回して、振り回されて。
知らない自分に戸惑ったり、嫌な自分と向き合ったり。
そうやっていっぱいいっぱい悩むんだろうね。
永田は今、そういう状態。
じゃあ、私は?
正直、『ヒナ』さんのことは、まだ胸にもやもやしていた。
どうして今まで気にしなかったんだろう。
永田が必死で追いかけてくれるから、私はただ安心していた。そういうところが永田を不安にさせて、かーくんに放っておかれる結果になったんだろうか。
「……結局、僕は、自信がないんです」
腕の中で、永田がくぐもった声を響かせる。
「私、永田くんが自信を失くすほどのいい女じゃないよ?」
その発言に驚いてそう訴えれば、
「わかってないなぁ。自分の魅力が」
と、顔をあげて腕を伸ばし、ツン、と指先でおでこを突つく。
「こんなに僕を夢中にさせるのにね」
珍しく素直な甘さを出して、彼はじっと妖しく私を見つめた。
胸がドキリと高鳴って、また頬が熱くなる。おでこを突ついた指が、誘うように降りて頬を滑った。
私は吸い寄せられるように、少しだけ体を起こす。
すると永田も、ベッドからぐっと身を乗り出した。
「ねえ、ごめんね? 悲しい思いをさせたかったわけじゃないんです」
「うん……」
永田の腕が、私の体をつかまえて引き寄せる。応えるように首に腕を回せば、強く抱きしめられた。
「先輩、好き」
耳元でキスとともに囁かれ、熱い吐息がかかる。
「好き」
抱きしめたまま、永田がずるりとベッドから落ちてきた。
うわっ、と叫んで後ろへひっくり返る。そのまま折り重なって、布団の上で抱き合ったまま見つめ合う。
どちらともなく、瞳を閉じた。
そのままゆっくりと顔を傾けた、瞬間────
大音量で、携帯の着信音がけたたましく鳴り響いた。
鳴っているのは、昨夜サイレントにするのを忘れてしまった私の携帯だ。
驚いて飛び起きた私たちは、思わず顔を見合わせる。
「目覚まし?」
「ううん……電話だ」
休日の午前中に、私に電話をかけてくるような相手は少ない。
訝しみながら枕元に置いていた携帯に手を伸ばし、画面を確認する。
そこには、発信者の名前が大きく表示されていた。
「かーくん……」
私の戸惑った呟きに、永田の瞳が不安そうに揺れた。




