オレンジとさくらんぼ
喫茶店に入ると、永田はアイスコーヒーを、私はオレンジジュースを頼んだ。
「僕がいて良かったですね。一人じゃスマホの契約とか出来ないでしょ」
「あんたがいなかったら、スマホなんて買わずずっとガラケーよ」
「時代に取り残されちゃいますよ?」
「取り残すような時代が悪いのよ!」
「……みんな必死でついて行ってるのに、先輩って子供みたい」
ふいに拗ねたように唇を尖らせる永田。
「そのオレンジジュースもお子様チョイスだし」
「オレンジジュースのなにが悪いのよう」
氷が浮かぶ橙色の底には、シロップ漬けの不自然に甘いサクランボが沈んでいる。半月型に切ったオレンジが、グラスの縁を彩る様に飾られていて華やかだ。
「えへ。喫茶店のオレンジジュースって好きなの」
ストローで氷をつんつん突きながらニヤニヤすると、永田は呆れたように頬杖をつきため息を吐いた。
「ほんと、お子ちゃま。あーあ……僕だって、オレンジジュース好きなのに」
カッコつけてコーヒー頼んじゃった、とひとりごちる。
いつもコーヒー飲んでるじゃない。そう思いつつ、ストローから口を離して永田の方にジュースを移動させる。
「一口いる?」
だが、彼はなぜか顔を引きつらせ、嫌そうに一言「いりません」と答えて、ジュースを押し戻した。
間接キスとか気にしたのかもしれない。あれって虫歯が移るって言うし。
あ、でも前にお弁当の玉子焼きをあげた時は、お箸そのままだったな。いや、永田はお箸を咥えてないからオッケーなのか?
あれこれ考えながらオレンジジュースを飲んでいると、つまらなそうにコーヒーの氷をカラカラとかき混ぜていた永田が、不意に何か思いついた様にこちらを見た。
「携帯、弄らせてもらってもいいですか?」
「うん、どうぞ。まだなんも入ってないし」
「じゃあオススメのアプリとか入れときます。あと、勝手に整頓しちゃいます」
「うん?」
よくわからないが、人の携帯を黙々といじり倒す永田。
オレンジをかき混ぜて、氷を突きながら、今度は私が暇を潰す。
「うん、これでよし」
携帯が返却される。
画面が見えるように手渡されたそこには、『永田 悟』の文字と数字列が表示されている。
「僕の携帯の番号とメアド、入れときました。あと、メッセージアプリも」
「え! まだ誰のも入れてないのに!」
「まるで僕専用受信機。そういうのも悪くないですね」
「いやもったいないでしょ」
「あぁ〜わかってないなぁ。独り占めしたいって意味でしょ? もっとロマンスを、感じてください、先生!」
「無理」
おちゃらけた口調に冷たく返すと、永田はふるふると首を振った。
そろそろ飲み会の待ち合わせ場所に移動しようかな。
私はオレンジジュースを一気飲みする。と、底に沈んでいた赤い塊が姿を現した。
「ねぇ、永田くん。サクランボいる?」
底に残ったサクランボを指差して、試しに言ってみる。
「先輩のヨダレにまみれた残り物のサクランボをこの僕に?」
「やだその言い方! じゃああげない」
私が顔をしかめてサクランボを拾い上げると、永田が少しだけ身を乗り出してあーんと口を開けた。
思わずきょとんと見つめてしまう。
「ほら早く。恥ずかしいでしょ?」
動かない私に焦れたのか、拗ねたように急かされ、慌てて口の中に放り込んだ。
あ、蔦のまま入れてしまった。
永田はモゴモゴとしばらく口を動かすと、ペロリと舌を出す。
紅い舌の上に、器用に結ばれたサクランボの蔦があった。
私は思わず噴き出す。
「あ、それ、中学くらいの時流行った」
「みんなやる。そして選ばれし者だけが習得する秘技」
紙のナプキンに種と蔦を吐き出しながら、訳のわからない秘技の伝承者は自慢気に言った。
「ふふ。キスが上手いんだっけ、なんかそんな、迷信」
「迷信じゃないと思うなぁ」
「ハイハイ、この自惚れ屋さんめ」
アホな呟きを流すと、永田はムッとして口を尖らせた。
そんな顔されましても。確かめようがないし。
「試してみます?」
え。
た、試す?……って、キスを?
突然の申し出にポカンとしながら、つい永田の唇に視線を這わす。先程の半開きの口と赤い舌を思い出し────
はっ。いかんいかん!
我に返って永田を見ると、彼はちょっと困ったように微笑んでいた。
あ、これ本気にしちゃいけないやつ?
「……うわぁ、セクハラおやじだぁ」
「オヤジはやめてください」
慌てて冗談として切り返すと、ぎこちなく笑う。
そして私は、ワザとらしく時計を確認した。
「あ、もうそろそろ時間だから行かないと」
なんだか早く逃げ出したい。
つい、妄想してしまった。
──キスを試したらどうなるか。
つまり、件の小説の題材と成り得る、永田が私を好きだという甘い妄想。
いやいや、でも待て。
妄想ならむしろ目一杯しろと言われてるようなもんではないか?
だって、彼が主役の恋愛小説を書くって、そういうことだ────。
ああ、かーくんごめんなさい。あなたが居なくなったら、私はすぐに浮ついてしまうダメな女でした。
からかわれているだけだって、わかってるのに!
平静を装って立ち上がった私を見て、永田は整った眉を下げ苦笑する。
「……送っていきます」
永田は私に続いて席を立つと、荷物を持ってレジへ向かった。
言葉通り、待ち合わせ場所近くまで送ってもらうと、私は永田に改めてお礼を言った。
「ありがとう。なんか今日、すごく楽しかった。デートみたいだった」
「みたい、じゃなくてデートでしょう」
言葉とは裏腹に冷たく見下ろされ、やれやれとため息を吐かれる。
デート相手にする態度ではない。
「そうなの? 男女で出かけたら的な定義で?」
「そうです、男女一緒に出かけたらデートです。オシャレして、プレゼントをもらい、あーんしてサクランボを食べさせたでしょ? まごう事なきデートです」
「おおおっ。なんかそれっぽい」
「それっぽいじゃなく、それそのものです。参考にして下さい」
私が感心してみせると、永田はワザとらしくふるふると頭を振る。
わかってないなぁ、こいつ。そんな心の声が聞こえてきそうだ。
「そうか。私、ちゃんとしたデートってはじめてだったわ」
思わず呟くと、永田は心底気の毒そうな目をした。
かーくんはギャンブラーだから朝から出かけていて、お金もないからいつも家ばっかりだった。しかもかーくんは劇団員をやっていたから、練習で毎日忙しかった。休日は、平日に働いている人が来れるからって、朝から晩まで通し稽古。だからふたりで過ごす休日とかってあんまりなくて……。
やばいやばい、すぐ自虐的になってしまう。
「ま、まぁ、初デートもしたし、もしかしたら、今日は彼氏まで出来ちゃうかもね!?」
気分をあげるため、ガッツポーズをする。永田がひどい顰めっ面をした。何か言いたげに一度唸ると、眉根を寄せたまま言う。
「……だといいですね。夜中独りで寂しかったら、泣きながら電話してきてもいいですよ」
「なぜ泣きながら……」
「先輩を受け入れられるような、奇特な人類がいることを祈ってます」
人類! そんなに壮大に括らなきゃ駄目?
「まぁ、せいぜい頑張って下さい。では、失礼します。お疲れ様でした」
面倒くさそうに淡々と言って、永田は帰っていった。
え、もう帰っちゃうの? てか流れるように帰ったな。
と、はたと気付く。
「荷物!!!」
着替えた洋服や携帯ショップの袋、全部ヤツが持ってっちゃった!
早速、買ったばかりの文明の利器でメッセージを送ってみる。
フリック入力とかいうの、やりづらい〜!
『永田くん! 荷物!!』
返信はものの数秒で返ってきた。
『これ持って行けないでしょ? 後日お渡しします』
なんだかわからないが、文字と一緒にダルそうにため息を吐く猫の絵が送られてくる。目付きの悪い猫だが、可愛い。
『わかった! 何から何までありがとう!!!』
『ビックリマーク多すぎ。暑苦しいな』
『りょうかい!!!!』
『全然了解してねぇー』
怒りマークがポコンポコンと連続して送られてくる。
数多すぎ! 画面が埋め尽くされる。
『ちょっと! うっざ!』
『ふーんだ。じゃあね。』
面倒くさいのか、手抜きの毒舌が拗ねているようで微笑ましい。
ふーんだって、子供か。可愛いな。
一人でにやにやが止まらない。
緩む口元を隠して画面を見つめていると、不意に声をかけられる。
そこには、しばらく会っていなかった友人と、今日集うメンツの姿が見えた。