僕と先輩2(side永田4/5)
本気になったのは、あの夜からだと思う。
週末のデートの約束を、いとも簡単に取り付けた。
今までの苦労は一体なんだったんだろうと、思わなくもない。
デートの後は、合コンらしい。ふざけんなって。そんなの行けるメンタルじゃないだろうが。
だけど、僕には口出しする権利はない。だってまだ、距離感を測っている段階だし。
そう思いながらも、やはり黙って見ていることはできなかった。
適当なジャージに着替え、口実の為のDVDをレンタルし、髪の毛をわざと乱して、携帯ショップで手に入れた契約書の住所をスマホの地図で確認する。
家の付近まで駆けつければ、案の定、男に流されそうになっていた。バカが!
僕は電柱の影から飛び出ると、声を張り上げる。
「先輩! 遅かったじゃないですか」
部屋に行くのはお前じゃない。僕だ。
彼女の横で三文芝居を打ちながら、男を思い切り睨みつけた。
酔った彼女は、本当にどうしようもなかった。
警戒心もなく僕を部屋へ上がり込ませ、あろうことか無防備にソファで眠ってしまう。
これが自分以外だったら……そう思うと、起こして説教をかまそうか本気で悩みながら、渋々ベッドへ運んだ。
彼女を横たわらせると、
「じゃあ、先輩、僕は向こうにいますからね」
と声をかけて踵を返し────
くんっ、と服を引っ張られ、よろける。
振り返ると、彼女が起き上がって泣きながら、僕の服を掴んでいた。
「な、なに? どうしたんですか」
「……だめ。……っちゃ……め」
ボロボロと大粒の涙を零しながら、上目遣いにこちら見上げている。
まずい。頭の片隅で警笛が鳴る。
乾いた喉が震え、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「いかないで。ここにいて」
彼女は更に手を伸ばすと、腰に抱きついてきた。
白く細い手でぎゅうぎゅうと力一杯しがみつきながら、腹に顔を押し当てて泣く。薄いTシャツに冷たい涙が染み広がっていく。押し当てられた柔らかな感触に、思わず身体が強張った。
普段悲しむ素振りすら見せない彼女が、今、弱々しく僕に泣き縋っている。
僕にここに居て欲しがって、たぶんその先も期待して。
────気付いた時には、彼女を押し倒し、頬や髪にキスしまくっていた。
耳たぶや首筋、髪の生え際や額。あちこちを撫でながら際限なくキスを浴びせた。目尻に口付けると、溜まった涙を吸う。唇が濡れて、しょっぱさが口内に広がった。先輩の味、先輩の匂い。酒に混じって、あのいつかのハンカチと同じ柔軟剤の香りが、ほのかに鼻腔をくすぐる。
衣服に手を掛けようとして身体を指でなぞると、くすぐったそうに身を捩りながら反応した。
つい、はっとして彼女を見る。
膝を内股の間に無理矢理差し込んでみると、受け入れるようにわずかに足を開いた。
処女だって言ってたのに。
いや違う、最後までいっていないだけで、どこまで受け入れたかはわからない。
これで、こんなんで、責任取らなくていい言い訳になると思うのか、クソ男!
ぎゅっと強く抱きしめると、彼女もそれに応えるようにしがみついた。
泣きながら、ボソボソとうわ言のように言葉を漏らす。
「誰か、ねぇ、誰でもいい。でも、誰でもよくないの……だから、誰か。ひとりに、しないで」
わかるような、わからないような事を呟いては、涙を零す。
誰でもいいなら、僕だって構わないはずだ。
ちゃんと尽くすから、大事にするから、このままなし崩しでいい、自分を選ぶしかなくなればいい。
「……忘れなよ。僕が忘れさせてあげるから」
頰に軽く触れながら、できるだけ優しく、唇にそっとキスをする。
酒に濡れ、ひんやりとして柔らかい感触。
触れるだけではもどかしくて、軽く食んだ。
と、彼女の唇がふいに戦慄いて、押し込めたような嗚咽が口の端から漏れる。
ぎょっとして慌てて唇を離すと、彼女はさっきよりも苦しそうに泣いていた。
「ごめ……っ! 嫌だった?」
「いや、いやだ。いやだよ、私────忘れたくない」
そう言って両手で口を覆った。指の間から零れるくぐもった嗚咽が、静かな部屋に響く。
ふいに思い出す。
「悟くん、周防さんにフラれちゃったんだって? あたしが忘れさせてあげよーか?」
茶髪の巻き髪に薄化粧をした中学の先輩が、部屋に誘って来た。僕は頷いてついていく。彼女の部屋でカーテンを閉め切って、裸になる。音を誤魔化すためか、テレビをつけた。
午後の映画がやっていて、それは失恋映画だった。寄り添っていちゃつきながら、いつしか彼女より映画に夢中になっていて。
気がつくと、泣いていた。
泣きながら、彼女そっちのけで映画を見た。
萎えている僕を見て、彼女は不貞腐れながら黙って服を着た。
「忘れたくない。まだ、もう少しだけ……」
そう言って、自分の気持ちにしがみついた。
まだ悲しんでいたい。まだ好きだという気持ちと悲しみの海で溺れていたかったのだ。
「忘れたくない、忘れたくないの……」
泣きながら繰り返す染谷芽衣子を見下ろしながら、あの時の彼女には悪いことをしたな、と、今更ながらに反省した。
その晩は彼女を抱きしめて眠った。
正確には眠れはしなかったが、かーくんの代わりに「めいちゃん」と呼びかけながら、抱き抱えるようにして、一晩中、優しく体を撫でていた。
「かーくん、かーくん大好き」
彼女が僕の胸の中、蕩けそうな甘い声で繰り返し囁く。
堪らない。慰めてるのは僕なのに、眼中にすらないのかよ。挙句、誰でもいいとか。泣きたいのはこっちだ。
「めいちゃんは本当に、しょうがない子だなぁ……」
あぁ、僕がかーくんだったら、どんなにいいだろう……。
──次の朝。
何か変わるかと思った。特別な何かがあると期待していた。
だけど。
あんなに尽くしてやったのに、起きたらスッカリ忘れてやがったのだから、本当に腹が立つ。
そもそも、思い出そうともしていないようだった。
たくさんキスをして名前を呼んだのに。
もっと好きになりたい、大事にしたいと思ったのに。
目が覚めて僕を見て、
「……永田か…」
なんて、二度と言わせない。
────僕が忘れさせてあげるから。
本気で言ったんだ。一方的な約束だったとしても、守ってやろうじゃないか。
誰でもいいなんて思わないように。毎週末一緒にいて、一緒にいるのが当たり前にしてやる。追いつめず、答えを求めず、だけど、好きだと教え続けよう。
他の男を呼ぶ暇なんて与えない。
寂しい時は、一番最初に僕の顔を思い出せ、このやろう!
****
「さっちゃん、今好きな人いるんだって?」
ウェディングドレス姿のヒナキが、嬉しそうに言った。
兄、賢介の嫁になる幼馴染みのヒナキの、今日は結婚式だ。
忙しくなる前にと、控え室に挨拶に行く梨花に、無理矢理引っ張って来られたのだ。
「梨花、お前しゃべったな……」
「えー、いいじゃん。おめでたいじゃんアゼルバイジャン!」
「……どんなテンションだよ」
サラム!とかなんとか叫ぶ梨花を睨みながら、数日前の電話のやりとりを思い出す。
「好きな人が結婚式でのスーツ姿を見たがっているから、写真を撮って欲しい」とお願いしたのだ。
電話口で最初に「結婚式の日……」と言いかけた時、「ヒナちゃんの邪魔したらぶっ殺すかんね!」と凄まれて焦ったっけ。そのせいで先輩の存在を白状せざるを得なくなった。
「写真撮るんだっけ? それ、みんなで撮ろうよ」
「なんで!」
ヒナキがとんでもない提案をする。
説明していないとはいえ、昔好きだった人の写真を送る気にはなれない。
「だって、家族になるかもしれないでしょ?」
「気がはえーよ! まだ付き合ってもいねーよ!」
「え、兄貴まだ付き合ってないの? なのに写真送ろうとしてるの? ナルシスト?」
「ちがっ……ああもう、いいだろ別に!」
これだからうちの女どもは……!
生まれて此の方、一回も口で勝てた試しがない。
「ねえねえ、どんな人? かわいい?」
「かわっ……!」
梨花が興味津々といった様子で質問してくる。
かわいいか? かわいいよ。だけど、一般的に見て普通だ。ましてやヒナキや梨花は控えめに言ってもかなり上。変なハードルを上げたくない……だけど、かわいくないとは絶対に言いたくない。強いて言うなら────
「変わった人、かな」
そう呟くと、ふたりは顔を見合わせた。
「お似合いじゃん」
「お似合いね」
おい、なんでだよ。
「どんな風に変わってるの?」
「うーん……はじめて会った時、強風に煽られながらコロッケ作る歌を熱唱してくれた」
「……変な人だ」
「変な人ね」
気付けば、あの時の先輩を思い出し自然と口元が綻ぶ。
ふたりはそんな僕を見て、嬉しそうに笑った。
あの時があったから、今がある。
悲しい思い出が塗り変わって、今、笑ってヒナキへ向き合える。
「ヒナ、結婚おめでとう。幸せになれよ」
素直な心のまま口に出せば、ヒナキは驚いて一瞬目を見開き──次の瞬間、うるうると瞳に涙が溜まりだす。
「ちょ……っと、やめてよもう、お化粧崩れちゃう」
「わー、ヒナちゃん、上向いて! 上!」
梨花に促されて慌てて上を向き、ティッシュを構えて涙が溢れないように堪えているヒナキを、僕はなんだか微笑ましく見守った。
「ヒナ、って、久しぶり、呼ばれ……うあぁ、さっちゃんのばかぁ」
「ごめん。ちょっとイジワルしたくなった」
「誰かコイツ追い出してー!」
ヒナキのことを、小さい頃はずっと『ヒナ』と呼んでいた。
年頃になって、まずは友達が、同級生が、彼女を好きな奴が、こぞって『ヒナ』と呼んだ。
だから僕は、『ヒナ』と呼ぶのをやめた。その他大勢でいるのをやめた。
だけど結局、特別にはなれなかった。
だって、兄貴は『ヒナ』って呼ぶもんな。
「長い反抗期だったよ……」
「お前は俺のかーちゃんか」
笑い合って、終わりにした。全部終わりにできた。
結婚式は、幸せなすごく良い式だった。
帰りがけ、駅でお土産にバナナの形のお菓子を買った。
「彼女に渡すときさ、俺のバナナも食べてって言ってね」
「梨花……お兄ちゃんは悲しい」
「ほらあんた達、バカやってないで帰るわよ!」
「はぁ〜い」
途中で家族とは別れて、一人暮らしの部屋へ帰る。
休日の電車の中、礼服姿の自分はさぞや浮いているだろう。遊び疲れた若者に混じって心地よい振動に揺られながら、流れていく家々の明かりを眺めていた。
先輩は今、何をしてるかな。
ご飯食べてるかな、それとも、小説でも書いているのかな。
いつか、あの大量の小説のモデルが『かーくん』から僕に変わったら、先輩のして欲しいことはなんだってしてあげよう。
お姫様抱っこも、手を繋いでデートも、会社での内緒のキスも、とても言えないようなことも。
会いたいな。
週末、部屋へ訪れた時の先輩の顔を思い出す。
いつもちょっと迷惑そうに文句を言って、だけど、結局は笑顔で迎えてくれる。
彼女はよく笑う。
最初は、愛想を振りまくための意味のない笑みを浮かべていると思っていた。でも違う。
彼女は、相手と話すのが嬉しくて笑う。楽しくて笑う。喜ばせようと笑うし、慰めようと笑う。いつも笑っている。
だから僕もつられて笑ってしまうんだ。
ほら、今も────
電車の暗い窓に、微笑みかけた自分が映っている。
どこが好きかなんて明確にはわからない。
嫌いなところなら10個以上すぐに出てくるけど、どこが好きかと聞かれたら、わからない。
だめなひとだと思う。放っておけない。
笑っていて欲しい。
僕の傍で、僕のために。
このまま仲良く過ごしていけば、きっといつか。
────そんな気持ちが、わずか数日で打ち砕かれるとは、この時は思ってもいなかった。
結婚式にあてられて、幸せオーラで脳が溶けていたのかもしれない。
とにかく、僕は染谷芽衣子という馬鹿を侮っていた。
彼女が、僕の気持ちに全く気付こうとしていなかったなんて。