僕と先輩1(side永田3/5)
染谷芽衣子は馬鹿だ。
長いこと彼女を観察してきたおかげで、それは断言できる程の確信を持って言える。彼女は馬鹿だ。
休憩室で、よく一緒にいる後輩と話しているのを盗み聞きしながら思っていた。
彼氏は完全にダメ男なのに、そんな人間を心底信頼して、自分というものの主導権を明け渡している。
──そう、例えば今も。
「彼氏がね、玉子焼きが甘いとか有り得ない、絶対食べないって言うの。でも、私は甘いのが好きなんだよね」
「は? なにそれ。自分で作れって言った方がいいすよ」
もっと言ってやれ、名も知らぬ後輩よ。
資料を読むフリをしつつ、斜め後ろの席から心の中でエールを贈る。
「でもね、どうせなら喜んで欲しいから、うちでは作んないの。で、お弁当にたまにコッソリと入れるんだ」
「コッソリ。……はぁ。堂々と食べたらいいのに」
本当に。気の使い方がおかしい。
僕だったら、好きなだけ甘い玉子焼きを食べさせてあげるのに。
そんな事を考えながら、うわの空で紙を捲り──紙質が変わったのに気付く。手元に視線を落とすと、そこには数枚の手書きのルーズリーフが挟まれていた。
……なんだろう。
明らかに間違えて挟まれていたものだが、気になって読んでしまう。手書きの文字は紙をビッシリと埋め尽くしており、勢いに乗って書き殴ったであろう印象を受ける。そのくせやけに綺麗で丁寧だ。
この字……見たことある。
どうやら小説のようだ。拙い表現で描かれたそれは、たぶん、恋愛小説だろう。男性描写はファンタジックで、妹の持っていた少女漫画に出てくる男を思い出す。主人公の女に、有り得ないほどの甘い言葉を囁いている。
一体誰がこんなもの書いて────
その時、染谷芽衣子が大あくびをした。
「先輩、寝不足ですかぁ? 今日ずっとそんな感じ」
「そーなの、昨日はノっちゃって……あー、夜更かししちゃって。えへへ」
「不摂生はお肌の大敵っすよー。10時には寝なきゃ!」
「無茶言わないでっ」
あはは、と楽しそうに笑っている。
僕はその会話を聞きながら、手元のルーズリーフを捲る。小説の中では男女が盛り上がっていた。恋愛小説から、やや大人向けにシフトしている。
なんだか変な汗が出てきた。
笑っていいのか泣いていいのか。
顔が熱い。耳まで熱い。
だけど、読む事をやめなかった。なぜなら──
「あれ、永田さん、大丈夫っすか?」
「なんか顔が赤い。熱あるんじゃないかな?」
ふいに、笑っていたふたりが振り返った。
「え、そうですか?……ちょっと暑いのかな」
小説を資料の中に隠しながら、平静を装う。
「ところでこの資料なんだけど、誰が用意してくれたかわかります?」
「あ、それ私。何か不備ありました?」
資料の表紙だけを反対側へ向けると、染谷芽衣子が体を乗り出して答えた。
疑惑が確信に変わり、心臓が高鳴る。
「いえ。忙しい中有難いなと思って、お礼を言いたくて。ありがとうございました、助かります」
「そう? なら良かった。いつでも頼んで下さいね」
「はい」
にっこりと微笑むと、彼女も微笑み返してくれる。
僕はそのまま挨拶をして、そそくさと休憩室を後にした。
染谷芽衣子は本当の馬鹿だ。
こんな、弱味になるような物を不用意に他人に渡してしまうなんて。
僕はそのままトイレに駆け込み、個室で小説を完読した。
──ああ、これは妄想なのか? それともこういうこと、いつもしてるの?
そりゃ、同棲してるならしてるだろうけど。それにしたってこんな甘ったるいこと言う? 彼氏は言ってくれるの? いや、まさか実録じゃあるまいし……。
嫉妬なのか興奮なのかよくわからない感情で頭がぐるぐるする。
だって、結構エロかった。
少なくとも、染谷芽衣子がこういうことを考えてこんな小説を書いているのは間違いがない。ヒロインも自己投影なのか、本人に似ている気がする。
普通はドン引きなんだろうな……。
間違いなく自分も引いている。だけど──これを、先輩が、1人で妄想しながら書いているところを想像すると──…
あ、ダメだ……。
トイレから出られなくなる前に、頭を振って思考を追い払う。
まったく、厄介だ。あの女、やっぱ変だ。
こんな危険なもの、手元に持っているのは怖い。
返そう……でも、どうやって?
直接手渡すなんてできない。
第一、これを僕が読んだことを知ったら、どんな顔をするだろう。
嫌がるだろうか。恥ずかしがるだろうか。
怒る? それとも泣く?
──どの顔も、見たことがない。見たい。
想像して、即座にそう思ってしまった。
彼女の色々な顔を見たい。会社では見せない顔を見たい。
それには、もっと近付かなくてはならない。
そうだ、この紙束は、何か話しかけたり、もっと仲良くなるきっかけになるかもしれない。適当に「凄いですね」とか言って褒めて、染谷芽衣子が書いたものを内緒でもっと読ませてもらったりして。
恋愛小説だから、僕を書いて欲しいと言ったら、僕を相手に想像してくれる?
そうなったらいい、凄くいい。
よし、何かタイミングの良い時まで、これは仕舞っておこう。
ここぞという時に切り札として使おう!
────そう心の中で決めた後。
切り札を使う機会は、すぐにやって来た。
あの日。
伊達メガネをかけて、化粧もそこそこに会社に来た彼女を見かけた。
目元は少し赤く、彼女の笑顔はどこか不自然で哀しげだった。
カラ元気が、ヒナキに振られた時の自分と重なった僕は、嫌な予感に胸を締め付けられた。
休憩時間、いつもの休憩室に現れなかった彼女が気になり、久しぶりに、あの吹き抜けの非常階段にある『秘密の場所』へ向かう。
重い扉を開けた瞬間。
僕の耳に飛び込んできたのは、びゅうびゅうと吹きすさぶ風と共に、反響しながら上へ上へと登っていく、彼女の苦しそうな歌声だった。
……ほら、言わんこっちゃない。
あんなクズ男、さっさとやめておけばよかったんだ。
僕は声をかけることもできずゆっくりと扉を閉めた。
まだ肌寒い外の空気に、指先がわずかに震えた。
数日後。
休憩室で後輩としゃべっている彼女に、僕はゆっくりと近付く。
いつものコーヒーを片手に、彼女達の話に耳を傾ける。タイミングを見計らい、思い切って声をかけた。
「え、染谷先輩、あの10年モノの彼氏と別れちゃったんですか?」
僕が話しかけたことで、周囲に人が集まってくる。
染谷芽衣子の彼氏の話は有名だったらしく、みな驚きつつも興味津々だった。追い風のように話の流れが出来、僕は調子に乗ってどんどんと質問攻めにした。
どんな人だったの? どこがよかったの?
聞けば聞くほど、無性に腹が立った。盗み聞いていたよりももっとひどかった。
全然大事にされてない! あの小説と全ッ然違うじゃん!
「ほんっと、ダメんずですねぇ〜」
思わず出てしまったボヤキに、周囲はうんうんと頷き、染谷芽衣子だけがむっとして唇を尖らせた。
****
休憩室の会話は、正直やりすぎたと思う。
知らなくていいことまで知ってしまったし、恥をかかせた。今後はさらに避けられることを想定しなければならない。
落ち込みながら歩いていると、思わずため息が漏れる。
その時、ふいに背中をトンと叩かれた。
「なーがたさんっ」
振り返ると、ふわふわとした茶髪を揺らしてニヤニヤと笑う、可愛らしい顔をした、あの、ええと……染谷芽衣子の後輩が立っていた。
「……なんですか?」
なにがそんなに楽しいのか、後輩はずっとニヤついている。なんとなくイラっときてぶっきらぼうに尋ねると、彼女は怯みもせずに距離を詰めてきた。
「協力してあげましょっか?」
「…………何をです」
「染谷先輩、今日みんなと飲みに行ってくれるんですってぇ〜。ガード甘くなってますよねコレぇ〜」
「んぐっ」
思わず変なうめき声が出た。
コイツ、鋭い。
そういえば先程、好きなタイプを聞かれて答えた時も、どん引きする周囲の中でコイツだけニヤニヤしていたような気がする。なんとなくヤバイと思って「処女は譲れない」なんて思いつきを付け足してみれば、とんだやぶ蛇だった。
「先輩ってよーく見たら可愛いからぁ〜すぐ次の彼氏出来ちゃうかもですよね〜」
「…………何が言いたいの」
「いいえ別にぃ? ただ、永田さんが心配だって言うんなら、先輩をガードしてあげてもいいですよ?」
「──マジでっ!?」
条件反射で喰い付けば、後輩がカラカラと大笑いした。
「わっかりやすっ」
「…………」
これは完全にからかわれているな……。
笑っている後輩を軽く睨みつけながら考える。
今まで、どんなに誘っても誰の誘いにも乗らなかったのに、これからはどんどん乗ってしまうんだろう。
あの馬鹿で危機感のない性格で、唐突にゆるゆるになったガードでは、同年代の男になんて簡単に突破されてしまう。流されるまま恋をして幸せになれるなら、それもいい。
だけど、ずっと誘ってきた僕を無視して飛び越えていくのは、ずるい。
それに次はちゃんと、いいように使われずに、想い合って向き合える相手と恋愛してほしい。
僕もそうするために足掻くから、君にも足掻いて欲しい。
これは、完全に僕のわがままだけど。
「……わかった。協力、お願いします」
「お、話が早いっすね!」
あっさりと認めた僕に、少し驚いた様子で目を見開く後輩。
確かに自分は、今までこういうことをとことんはぐらかす傾向にあった。ましてや、こんな接点もなかった後輩相手には。
「で、何か見返りが欲しいんじゃない?」
「見返りっていうかぁ、上手くいったら、3人で飲みに行って、たくさん驕ってくださいよ」
「そんなんでいいの?」
「あたし、結構大食いですよ」
ふふふ、と笑って、後輩は楽しそうに去って行った。
何を考えているのかわからないが、ただの世話好きのお節介なのか、彼女なりに染谷芽衣子が心配なのか。悪意はなさそうだし、まあいいか。
それから、後輩はちょくちょくやって来ては、染谷芽衣子の情報を落としていった。
会社経由の飲み会やら、友人の誘いやらの話を聞く度に、僕の胃はキリキリと締め上げられる。後輩がいる時は守ってくれているとはいえ、どこかでまかり間違って何かあったらと思うと気が気でない。
こうなったら、少々避けられているからと弱気になっている場合ではなかった。
僕はその日、家に厳重に保管していた『切り札』を持ち出した。
強引でもいい。だめだったらそれでいい。
とりあえず、こっちを向いてもらわないと、何もはじまらない。
人気の疎らになったオフィスで、一人パソコンと格闘する染谷芽衣子に声をかける。
警戒してうざったそうに対応されるのも構わずに、僕は彼女に話しかけた。
「なんです? これ。この字、先輩の字ですよね」
そう言って、ルーズリーフに書かれた小説を見せつける。
彼女の驚愕と絶望に満ちた顔を見ながら、僕は頬が緩むのを抑えられなかった。
──さあ、先輩。
今度こそ、僕を見て。僕の思い通りになってください。