胃袋に消えた玉子焼き
楽しい週末も終わり、週明けからまた多忙な日々を送っていた。
だけど心のどこかで、何かを意識している自分がいる────。
会いたい。早く会いたい。
東京土産のバナナより、ずっと欲しいものがある。
自分のアホな小説の妄想に引きずられて、浮かれているのかもしれない。
わかっている、あれは願望だ。
だって、現実の永田くんは「先輩を食べちゃいたい」とか言わない。絶対言わない。
木曜日。
午前の仕事が長引いて、昼休憩に食い込んだ。
梅雨に入って雨が降りじとじとと鬱陶しいその日、休憩室はやや混んでいた。
少し遅れて中に入ろうとすると、端っこの席に、なんと永田がひとりで座っている。
見つけた瞬間、あっと声が出そうになった。
こうやってここで会うのは久々だ。
今日は玉子焼きをたくさん持ってきている。好きなだけ献上しよう。きっと喜ぶぞ。
そう思いながら彼に声をかけようとした時──
「永田じゃん!」
ふいに女の子の声がして、永田が振り向くのが見えた。
可愛らしい、永田と同じ年くらいの髪の長い女子社員が、ひらひらと可愛く手を振った。
「アミ?! こっちきたの? いつ?」
「先週。また来週には戻るけどね」
──アミ。アミちゃんか。呼び捨てか。
ズキン、と何か重たいものが心に伸し掛かる。なんだこれ……。
そういえば私の事は、ずっと『先輩』としか呼んでないな。
いや、急に『芽衣子』と言われても困るけど、でも、だって、なんか差がありすぎない?
私は永田の擬似彼女だよ。……そうだよね? たぶん。
って、あれ。でもそれって、『本物』ができたらどうするんだろう。もしくは好きな人がいたらどうするんだろう。
彼女は永田の横に座り、二人は話しはじめる。
珍しく永田が砕けている。いや、もしかしたら仲の良い同僚には以外と愛想はいいのかもしれない。後輩ちゃんも私も、普段の彼をそんなに見れるわけではないのだから。
どうしよう。なんか、声かけられない。
思い悩みながら立ち竦む。何もないのに、足が鉛のように重い。
永田が笑っている。私には見せない、人の良さそうな笑顔、ちょっと気怠そうな表情。
……私はあの顔、してもらったことない。
「お前メシは?」
「抜いてる。秋までに痩せないと」
「ばぁか、そんなことするから胸から薄くなってくんだよ」
「うーるさい!」
フンと鼻で笑っていつもの毒舌を吐く永田に、アミさんは笑いながらバシッと肩を叩く。大袈裟に痛がって笑う永田。
私の知らない口調、知らない笑顔。
──やだ、なんか見たくない。
回れ右をしてどこかに行こうにも、逃げるような気がして動けない。だって私には、逃げる理由なんかない。サラッと挨拶して、いつもの席に座って、お弁当を食べればいい。それだけなのに。
勇気を出して休憩室の扉をくぐる。
「永田は食べたの? いつもひとり?」
「外行くのだるい。俺いつもコーヒーだけだよ」
「あたしと変わんないじゃん!」
楽しそうに笑い合うふたり。
その横を素通りして、いつもの奥まった窓際の定位置へ行こうと早足で歩く。
と、永田がこちらに気付いた。
「あっ、先輩! 今日は遅かったですね」
「おっす、永田くん。お疲れさまー」
精一杯の作り笑顔を向け、片手を上げて素っ気なく挨拶し通り過ぎる。
永田は一瞬「あれ?」という顔をしたが、私は気付かぬフリをして窓際へ一目散に向かう。
笑い声が聞こえる。
チラリと伺うと、彼はもうアミさんへ向き直って話を再開していた。
何人も人の居る休憩室で、ざわめきの中で、彼らの声だけが響いてくる気がした。私はお弁当だけを一心不乱に見つめて、心の中で耳を塞ぐ。
なんだろうこれ。すごく腹が立つような、辛いような、惨めなような……。
よくわからないモヤモヤに苛まれながら、いつもより多めに作っていた玉子焼きは、最初にすべて食べ尽くしてしまった。
────しばらくして。
お弁当をほぼ食べ終えた頃、永田が私の横に来て椅子に座った。
「あれ、全部食べちゃったんだ。残念」
空のお弁当箱を覗き込み、口を尖らせる。
「いつも恵んでもらえると思ったら大間違いです」
「確かに。これからは予約します」
笑って、「もう行きますね」と立ち上がる。
え、もう行っちゃうの? なんかないの? もっと、ほら。私怒ってるんだよ。
そう思いながら、彼の方を見向きもしない私に、去り際、永田はそっと耳元で低く囁く。
「じゃあ、また週末に」
その囁きに、私は仏頂面のまま顔を赤くした。
颯爽と去っていく背中をチラ見し、こんちくしょうと心の中で毒づく。
永田め。私の心は今、修羅場中なのだ。
どういうわけか、あんたが女の子と仲良くしゃべってるのが、思ったよりもショックらしい。わざとらしく怒っていますとそっぽを向いて、永田に謝ったり焦って弁解したりして欲しいらしい。
なんだよそれめんどくさっ! そう思いながら、コントロールできない。
そのくせ、秘密の共有である『週末』の合い言葉に、乙女な反応をしてしまう。
私より仲の良い女の子がいるなんて嫌だ。
私の永田に触らないで、そんな風に笑わないで。
ああ──
私は結局、思い上がっていたのだ。
永田と一番近くて、一番仲が良いのは自分だと、自惚れていたんだ。
何も差し出していないのに、もう手に入れた気になっていたんだ。
いつも部屋に来てくれる本当の意味を考えた事もない。
確認したこともない。それでいいとすら思っていた。
自分のことで精一杯で、だからこそ今まで何も答えを求められなかったんだ。
どんな気持ちで、どうしていつも一緒にいてくれるのか。
それを言葉でちゃんと知りたいと、初めて思った。
そもそも、彼女はいるの?
好きな人は?
それすら知らない。
あのアミさんとは、もしかしてイイカンジだったりする?
私と同じ、辛い何かを誤摩化すために一緒にいるとか。理由があるのかもしれない。その理由を、問いただしたことは無い。
自分の思考でがんじがらめだ。
こんな小さな事で、自信がしおしおと萎んでいく。
永田が私を好きだなんて、嘘だ。
────そしてまた、週末がやってくる。