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影のためのレクイエム  作者:


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Ep4.玲香の挑戦

 ――事務所の、厚みのある木の扉が開き、一人の女性が音もなく足を踏み入れた。

 深紅のドレスの裾がふわりと広がり、結わえた黒髪がしなやかな背に沿って落ちる。その姿を見た瞬間、公証人であるエマ・ロランは、思わず肺の空気を奪われた。


 (……なんて、可憐なお嬢さんなの)


 それが、エマの抱いた最初の印象だった。

 端正な顔立ちにわずかに残る幼さと、湖のように静かな佇まい。エマにはそれが、若き挑戦者の抱く「緊張」のように見えていた。


 「Bonjour, Madame.(こんにちは、奥様)」


 玲香は流暢なフランス語で挨拶を交わすと、レールの上をすべるような動作で椅子に腰を下ろした。その優雅さは、もはや習慣を超えて本能の領域にある。


 「初めまして。玲香です――エレーヌの挑戦を、受けに来ました」


 「はじめまして。公証人のエマです……ご存じかと思いますがエレーヌの権利は私が管理しております。早速ですが、説明をさせてください」

 エマは手元の資料を整え、事務的なトーンで告げた。


 「“影のためのレクイエム”を、彼女が生前使用していた地下稽古場で踊り、正しく完遂できた場合に彼女のすべての作品の権利があなたに譲渡されます。判定は地下稽古場に設置された各種センサーで行います」


 エマはページをめくると、説明を続けた。

 「挑戦は一人一回限り。挑戦料は、リストにある指定バレエ団の所属者であれば一万ユーロ。それ以外の方は五万ユーロです。この費用はすべて、未来のバレリーナを育てる基金へ寄付されます。一度挑戦を受けたら、どんな理由があろうとも返還されません」


 エマが提示したリストには、『レペルトワール』の名も記されていた。所属を名乗れば一万ユーロで済む。だが、玲香はそのリストを一瞥もせずに聞き流した。


 赤いドレスの胸元で、彼女の呼吸がわずかに上下する。

 その瞳は深く澄んでいて、どこか聖女のような純粋さを湛えていた。


 「玲香さん、あなたも例外ではありません……完璧に踊りきった者だけが、エレーヌのすべてを継承する。チャンスは一度だけ。失敗は、即座に脱落を意味します」


 玲香はゆっくりとまぶたを閉じ、短く息を吸い込んだ。

 その横顔は、可憐でありながら、触れれば指が切れるほど鋭利だ。

 組織を背負わず、プリマの看板を外し、ただ一人の「玲香」として死者の影に挑む――その覚悟が、彼女を研ぎ澄まされた刃のように変えていた。


 やがて瞳を開くと、彼女は揺るぎない声で告げた。


 「……条件は理解しました。五万ユーロ、お持ちしています。お確かめください」


 エマの顔がわずかに強張った。「個人」として挑む者は玲香が初めてだった。テーブルに置かれた封筒が、彼女の本気を物語っている。


 「……確かに。受領いたしました」


 エマは入場許可証にサインを入れ、玲香へと差し出した。

 「では明日の午前8時にまたここにお越しください。現地にご案内します」


 「ええ。明日、また」


 深紅のドレスが揺れ、彼女の影が床に長く、細く伸びた。

 それはまるで、明日対峙する「エレーヌの影」へと、すでに手を伸ばしているかのようだった。


 ――エレーヌ・ベルナールの元邸宅。地下へと続く階段は、外の喧騒を拒絶するように冷たく、深い静寂を湛えていた。


 エマは純白のドレスをまとった玲香に最終説明を伝えた。

 「稽古場の入口で、指紋と虹彩を登録してください。センサーに影響が出るため、挑戦中は完全な密室となります。入った扉の方角が正面となります」


 エマの最終説明に頷きながら、扉を開け、鏡のように磨かれた稽古場へ足を踏み入れた。

 「あなたが合図をすれば音楽が流れますので、そこからが『審判』の始まりです。もし正解を踊りきれば、エレーヌの遺言書の入っている、金庫のロックが解除されます。幸運を、玲香さん」


 扉が閉まり、ロックされる。

 天井から降り注ぐ無数のライトが、玲香ただ一人へとゆっくりと向きを変える。全方向から彼女を照らし、床には逃れられないほど長く薄い「影」が刻まれた。


 ドレスの紐に指をかけ、肺の奥までひんやりとした空気を吸い込んだ。

 ――衣擦れの音が、静寂を鋭く切り裂く。

 ドレスは重力に従い、床に白い花弁を散らしたかのように広がる。


 玲香は稽古場の入口で、惜しげもなくその裸体をさらした。

 厳しい練習の上で管理された、贅肉の一片も許さない均整の取れた肉体。余計な装飾を脱ぎ捨て、舞踊という神事の「器」へと戻るための、ひどく純粋な儀式。


 彼女は迷いのない所作でレオタードを身にまとい、チュチュを身体に滑り込ませた。その場に跪くと、機械のような正確さでトゥシューズのリボンを締め上げる。指先の動き一つ一つが、すでに始まっている演目の一部であるかのように。


 レオタード姿となった玲香は、ゆっくりと、だが堂々と舞台の中央に向かって歩みを進めた。天井の無数のライトの光が、従者のように彼女へと付き従う。


 準備は整った。


 玲香はゆっくりとまぶたを閉じ、意識を自分の輪郭から、この地下室の隅々へと拡張させていく。数分後、静かに目を開けると、天井に向かって、ただ一言だけ告げた。


 「Commençons(さあ、始めましょう).」


 その声は、震えさえ持たないほど鋭く、透明だった。天井のライトが玲香に合わせるように微かに動く。

 次の瞬間、物悲しいチェロの旋律が空気の底から立ち上がる。

 音の振動が地下室の空気を震わせ、玲香の周囲を満たしていく。

 細く、冷たく、甘い調べ。まるで“影の歌”解き放たれたかのようだった。


 玲香は静かに腕を上げた。

 指先が光を切り裂き、影が床にしなやかに伸びる。旋律が彼女の呼吸に寄り添い、心臓の鼓動と重なり、身体の奥で脈動を始める。


 玲香はただ踊り続けた。


 ――曲が終わりへと向かう。

 いよいよ、エレーヌが遺した空白、玲香の身体を導くように最後の跳躍(グラン・ジュテ)が訪れる。


 玲香の身体は、何かに縛り付けられたかのように沈み込んだ。

 視線は深く床を這い、内側へと向かう。肺からは全ての空気が吐き出され、胸は硬く閉ざされた。まるでこの世界の光を拒絶するように扉へと背を向け、左足を後ろへ引く。


 一拍の沈黙。

 床に落ちた影もまた、彫像のように動かない。


 その直後、左足が床を蹴った。

 高くは飛ばない。だが、その身体は重力から見放されたかのように、極めてゆっくりと宙を滑り始めた。


 空中で、まるで誰かに支えられているように時間が引き伸ばされる。

 玲香は呼吸を止めた。生と死の境界、その狭間に留まるように。

 閉ざされていた胸が、遠心力に導かれてわずかに開き始める。下を向いていた視線は水平へと上がり、それと同期するように、空中で左足から右足へと軸が入れ替わった。


 過去から未来へ。影から光へ。

 身体が螺旋を描きながら反転し、正面を向く。

 滞空時間は限界を迎えようとしていた。その浮遊の中で、影は玲香の足元を滑るように追い縋る。玲香はそこで、天を仰ぐように最後の一瞥を上へと向けた。


 次の瞬間、舞い落ちる一片の羽のように、右足が音もなく床を捉えた。

 閉ざされていた胸は、今や世界を受け入れるかのように完全に開き、玲香はそこで初めて、肺いっぱいに新たな空気を吸い込んだ。


 「…………っ」


 視線は正面をじっと見上げたまま。

 沈んだ姿勢から一歩、確かな意思を持って、彼女は扉の方へと足を進めた。

 影は静かに彼女の背後に収まり、音楽の余韻が地下室の隅々へと溶けて消えた。


 演奏が終わると、残ったのは峻烈な静寂だった。

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