閉店時刻
午後十時五十五分。私は駆け込むようにスーパーの自動ドアをくぐった。
「すみません、まだ間に合いますか」
レジにいた店員は無表情で頷いた。十一時閉店。あと五分ある。私は急いで店内に入った。明日の朝食用の食パンと牛乳、それだけあればいい。
店内は蛍光灯の白い光に満たされていた。客の姿はまばらだった。奥の方で、中年の女性がカートを押している。精肉コーナーには、作業着を着た男性が一人。冷凍食品の前には、学生服の少年が立っていた。
私はパンコーナーへ向かった。足音が、やけに大きく響いた。
店内放送が流れた。
「お客様にお知らせいたします。当店は本日午後十一時をもちまして閉店とさせていただきます。お買い物のお客様は、お早めにレジまでお越しください」
機械的な女性の声。それが途切れた瞬間、何かが変わった。
空気が、重くなった。
私は立ち止まった。背筋に冷たいものが走る。振り返ると、レジにいたはずの店員が、こちらを凝視していた。首だけをゆっくりとこちらに向けて。
その目は、焦点が合っていなかった。
「あの」
私が声をかけた瞬間、店員の口から、低い呻き声が漏れた。
「アアアア……」
次の瞬間、店員は走り出した。私に向かって。
私は反射的に後ずさった。何が起きているのかわからない。ただ、あれは人間じゃない。本能がそう告げていた。
「助けて!」
奥から悲鳴が上がった。振り向くと、カートを押していた女性が、精肉コーナーの男に襲われていた。男は女性の肩に噛みついていた。鮮血が床に広がる。
女性は倒れた。そして数秒後、痙攣しながら立ち上がった。
その目は、もう人間のものではなかった。
私は走った。パンコーナーを通り過ぎ、日用品の棚の間に身を隠した。心臓が激しく打っている。呼吸が荒い。
これは夢だ。そう思おうとしたが、肌を刺す冷気と、鼻を突く血の匂いが、現実を突きつけてくる。
店内のあちこちから、呻き声が聞こえてくる。足音。複数。近づいてくる。
私は棚の商品を見た。洗剤、漂白剤、スポンジ、ゴミ袋。
待て。落ち着け。
私は必死に考えた。あれは何だ。ゾンビ? そんなものが実在するのか。でも、目の前で起きている。感染する。噛まれたら終わりだ。
ならば、噛まれないようにするしかない。
足音が近づいてくる。私は洗剤のボトルを掴んだ。角を曲がってきた瞬間、店員の顔が現れた。私は迷わず投げつけた。
ボトルは店員の顔面に直撃した。店員は怯んだ。その隙に、私は反対方向へ走った。
菓子コーナーを抜け、飲料コーナーへ。そこで、学生服の少年と目が合った。少年は私を見て、呻き声を上げた。
私は棚からペットボトルを掴み、投げつけた。一本、二本、三本。少年の頭と胸に当たる。少年はよろめいた。
私はその隙に、店の奥へ走った。「従業員専用」と書かれたドアが見えた。そこに逃げ込めば、少しは時間が稼げるかもしれない。
ドアを開けて飛び込むと、そこは事務室だった。デスク、ロッカー、壁には業務連絡のホワイトボード。
私は慌ててドアを閉め、内側から鍵をかけた。
外から、呻き声と引っ掻く音が聞こえる。このドアが、どれだけ持つだろうか。
息を整えながら、私は部屋を見回した。何か、武器になるものはないか。脱出経路は。
デスクの上には、書類が山積みになっていた。
その中に、一枚の赤い紙が目に入った。「緊急回収通知」と書かれている。
私は手を伸ばし、それを掴んだ。
『本社食品衛生管理部より 至急対応願います
冷凍食品「雪素食品ミックスベジタブル」ロット番号BX-2847に汚染の疑いあり。該当商品を至急回収し、廃棄処分すること。絶対に販売してはならない。接触した場合は直ちに保健所へ連絡されたし。
症状:高熱、痙攣、攻撃性の異常な亢進』
私の手が震えた。
これだ。
ゾンビ化の原因は、この汚染された冷凍食品だ。ロット番号BX-2847。
私は通知書の日付を見た。三日前。つまり、この店は回収指示を受けていたのに、実行していなかった。
デスクの引き出しを開けると、さらに書類が出てきた。店長から本社への返信メールのコピーだ。
『回収は困難。該当商品は既に一部販売済み。残りは冷凍ケース最奥に配置し、セール対象から外した。大事にはならないと判断』
私は歯を食いしばった。隠蔽だ。この店長は、汚染を知っていて隠した。
ドアを叩く音が激しくなった。ゾンビたちが、もうすぐ突破してくる。
私は立ち上がった。通知書を握りしめ、部屋の反対側にある従業員用の裏口へ向かった。
裏口を開けると、薄暗いバックヤードに出た。段ボールの山、業務用冷蔵庫、そして――。
「助けて……」
小さな声が聞こえた。
段ボールの陰から、若い女性が現れた。スーツを着た、おそらく二十代半ばの会社員だ。顔は青ざめ、肩で息をしている。
「あなたは……」
「お願い、助けて。あの人たちが……おかしくなって」
彼女は怯えていた。だが、目は正常だった。まだ感染していない。
私は一瞬、躊躇した。
彼女を連れて行けば、動きが鈍くなる。二人分の音を立てる。見つかる確率が上がる。
でも、見捨てることもできなかった。
「ついてきて。音を立てないで」
私は彼女の手を掴んだ。
バックヤードを抜け、私たちは冷凍食品の倉庫へ出た。巨大な冷蔵室が並んでいる。
そして、その一つに、赤いテープが貼られていた。「要廃棄」。
私はその扉を開けた。中には、段ボール箱が積まれていた。箱には「雪素食品ミックスベジタブル」と印刷され、側面に「BX-2847」のロット番号が記されていた。
「これだ」
「何が?」女性が聞いた。
「感染源。この冷凍食品が、すべての原因だ」
女性は箱を見つめた。「じゃあ、これを……」
「破壊する」
私は箱を持ち上げ、床に叩きつけた。パックが割れ、凍った野菜が散乱する。
次の箱、その次も。片っ端から叩き割った。
その時、倉庫の入り口から、呻き声が聞こえた。
ゾンビたちが、追いついてきた。
「走って!」
私たちは冷蔵室を飛び出し、売り場へ戻った。ゾンビたちが、後ろから迫ってくる。
私は棚を見回した。冷凍食品コーナー。そこに並ぶ商品の中から、汚染されていないものを探す。
「雪素食品ミックスベジタブル」を避け、別の冷凍食品を掴む。カレー、パスタ、ピザ。次々と手に取り、迫ってくるゾンビに投げつけた。
不思議なことが起きた。
汚染されていない商品が当たると、ゾンビたちは明らかに怯んだ。まるで、何かに弾かれたように。
「効いてる!」女性が叫んだ。
私は理解した。汚染された商品と、そうでない商品。ゾンビたちは、汚染源であるBX-2847に引き寄せられ、それ以外のものに触れると拒絶反応を起こす。
ならば、使える。
私は飲料コーナーに走り、ペットボトルを両手に抱えた。女性も、缶詰を掴んだ。
「投げろ!」
私たちは商品を投げつけた。缶詰、ペットボトル、レトルト食品。ゾンビたちは次々とよろめき、後退する。
私たちは出口へ向かって走った。途中、調味料の棚から瓶を取り、床に叩きつけた。ソースやケチャップが飛び散り、ゾンビたちの足を滑らせる。
あと少しで出口だ。
だが、その時、目の前に店長が現れた。
彼の胸には、名札がついていた。「店長 田村」。
田村は、他のゾンビとは違った。動きが速く、目には狡猾な光があった。
「お前……隠蔽した張本人か」
私は叫んだ。田村は、喉の奥から唸り声を上げた。
私は最後の武器を探した。近くの棚には、米の袋が並んでいた。五キロ。重い。
私はそれを持ち上げ、全力で田村に投げつけた。
袋は田村の胸に直撃した。田村はよろめき、背後の冷凍ケースに激突した。ガラスが割れ、中から商品が飛び出す。
そして、割れたケースの中から、あの冷凍食品――BX-2847が転がり出た。
田村は、それを掴んだ。
次の瞬間、田村の体が痙攣し始めた。口から泡を吹き、床に倒れ込む。
汚染源を直接掴んだことで、何かが起きたのだ。
他のゾンビたちも、動きを止めた。まるで、統率を失ったかのように。
「今だ!」
私たちは出口へ走った。自動ドアは、まだ開いていた。
外に飛び出すと、冷たい夜風が顔を撫でた。
私たちは駐車場まで走り、ようやく立ち止まった。
「助かった……」女性が膝をついた。
私は振り返った。店の中では、ゾンビたちが彷徨っていた。だが、もう追ってこない。
「あなた、よく気づいたわね。あのロット番号」
「偶然だ」私は言った。「たまたま、事務室に書類があった」
「でも、あなたがいなければ、私は……」
彼女は涙を浮かべた。私は何も言えなかった。
ただ、私は知ってしまった。
この異常事態には、必ず理由がある。感染源、ロット番号、汚染経路。それを特定すれば、対処できる。
私は、その方法を知る者になった。
女性は立ち上がった。「あなたの名前は?」
「……田中」
「私は斉藤。斉藤香織」
彼女は手を差し出した。私はそれを握った。
「田中さん、これからどうするの?」
私は遠くの街を見た。ビルの窓から、赤い光が漏れていた。あそこでも、何かが起きている。
「行く。他の場所も調べる」
「私も一緒に行っていい?」
私は彼女を見た。彼女の目には、恐怖だけでなく、決意があった。
「危険だぞ」
「一人より、二人の方がいいでしょ」
私は頷いた。
私たちは歩き出した。夜の街を。もう、以前の世界には戻れない。でも、それでもいい。
私は変わった。
ただの会社員だった私が、今は、この狂った世界の真相を暴く者になった。
ロット番号BX-2847。その情報を知ったことで、私は戦える。
他にも、感染源がある。それを特定し、破壊する。
それが、私の使命だ。
店の中から、まだ呻き声が聞こえてくる。でも、それは遠くなっていく。
私たちは、新しい世界へと踏み出した。
恐怖はある。でも、それ以上に、希望がある。
真実を知る者だけが、生き残れる。
そして、人間が人間として生きられる場所を、取り戻す。
夜空には、満月が浮かんでいた。
私たちは、闇の中を歩き続けた。




