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⑥義兄さん、どうして朝帰りなんですか!?

 ――異界。


 かつて、世界大戦のおりに飛び火した人類共通の敵。

 異界から生まれた不浄。

 そしてそれは今もなお、世界に対して「是」と「非」を問い続け――。

 数多の犠牲の下、そういう話は、今では注意書きの一行で済まされ、

「東京」は「倲京」へと名を変え、今に至る。


「ありがとうございます、御田村さん」

「……はい?」

「貴女“たち”のおかげで、俺たちみたいな吐き出し者が食いっぱぐれない」


 軽口を叩きながら、後頭部の痛みを抑制する。


「それはどうも」


 雪奈はオキトの時間稼ぎに気付くことは無かった。


「ところで、どうですか? 今の、……ご気分は?」


 数少ない、不浄を浄化した者たちは一様に語る。

「それ」を受け入れてしまった時だ、と。

 意識は世界と接続され、万能感に満たされる。

 まるで、自分が世界となり溶けだしたかのような――。


「さぁいこぅでぇす!」


 雪奈の赤い眼が見開かれ、空間に渦が生まれる。

 そこから伸び出てきた、蛸の腕のような触手がオキトを襲う。

 後頭部の痛みがアドレナリンで忘れ、思考がようやくフル回転を始める。

 体内で霊を練り、白髪が青白く輝きだす。


「ここは狭すぎる。こっちで戦いましょう」


 ベランダを乗り越えるように飛び出す。

 雪奈の認識外は即死という異界のルール。

 だがオキトは垂直に切り立つ、マンションの壁に立っていた。

 通常ではあり得ぬ光景。

 だが、ここは雪奈が作り出した異界。

 それを熟知したプロフェッショナルが世界の構造を逆手に取る。

 まだ雪奈が不浄に侵食されていない頃。

 何度もベランダから下を見下ろしたのだろう。

 認識すれば、世界に繋がる。

 例え、それが異界であろうと。

 オキトは、雪奈の認識を足場として利用した。

 相手の心理や認識を物理的な法則に変換する「真那桐」の能力。

 その、鱗片だった。


 電流のように迸る霊。

 黒い瞳の奥に輪のように光が灯る。

 痛みは既に感じず、その代わりとなる耳鳴りが周囲の音を置き去りにする。

 侵食を増した雪奈が這い出るようにオキトと視線を合わせる。

 完全にオキトを、異物として処理する事を決めたようだった。

 姿勢を低くし、下半身に纏った黒い触手の先をオキトへと向ける。

 その触手に絡み取られれば、異界の深層へと引きずり込まれ、二度と元の世界に戻れない。

 自身の能力を正確に把握した雪奈が唇を舌で湿らす。

 唸り声を上げながら、集中力を頂点へと運んでいく。

 発射。

 その言葉が相応しい程に一斉に無数の触手をオキトへと解き放つ。

 オキトは微動だにせず、二本の指を拳銃のように象る。

 迫る触手がオキトの全身を包む。


「どう!? 「世界の底」を見せてあげる!」


 勝った。

 あとはこのまま、押しつぶすだけ。

 それで異物は排除され、再び世界は閉じて終わる。

 はずだった。

 勝利を確信した笑みが、次第に崩れていく。

 いくら力を込めて押しつぶそうとも、まるで――。

 そこにもう一つ。

 異界が存在しているかのような、巨大な塊を感じた。


「……この程度で、世界の底?」


 青い光が触手の隙間から洩れ出す。

 黒い触手が焼け落ちる皮膚のようにボロボロと崩れていく。


「なっ? ――どういう事!? 何で!?」


 困惑する雪奈が捉えたのは、闇の中で光るオキトの瞳。

 両目の輪が雪奈を指し穿つ。

 恐怖した雪奈が身動ぎ、逃げようと踵を返す。

 それを逃す程、オキトという祓い師は甘くはない。

 二本の指で作った銃で雪奈に照準を定める。

「世界の底なら、見てきたぜぇ。……とっくになぁ!」

 青白く光るオキトの霊が、全ての触手を祓い消す。

 舞う黒の中に、輪のように光る目。

 雪奈にはそれが回転しているように見えた。

 口角を上げたオキトが、思いっきり息を吸い込む。


「――バン!」


 それは広く、あまねくを意味する言葉。

 閉じた世界をこじ開ける言霊。


 まっすぐに放たれた光の弾は雪奈の横を掠めて、偽りの青空へと吸い込まれた。

 それを、雪奈はただ見ていた。

 静寂。

 何も起こらないと思った矢先。

 地響きのような音。

 直後に青い空にひびが走り、世界が砕けていく。


「……あ。あぁ」


 全能感を砕かれ、力なく倒れ込む。

 異界を構成していた雪奈の精神が暗転した事で、オキト達の足場はただの壁へと化す。

 認識という力場を失い、世界の崩壊とともにオキトも落下していく。


「――呉葉! 来い!」


 オキトの号令に従い、呉葉がベランダから飛び出す。


「申し訳ございません、遅れました!」


 呉葉がオキトを抱きかかえるように回収する。

 壊れた異界が収縮を開始する。

 このままだとここに永遠に閉じ込められてしまう。


「謝罪はいらん! このまま彼女も助けろ!」

「かしこまりました! 巾着はコンビニ二件分です!」

「それで構わん!」


 呉葉は中空に見えない足場を作り、意気揚々と跳躍。

 雪奈の服の襟を掴んで、マンションのベランダへと着地した。

 次第に狭まる室内。

 出口となる入口までの居室も面積を縮めていく。


「呉葉! 封印解除!」


 その言葉に返事は無く、代わりに呉葉の姿が大きな狐へと変身する。

 オキトは首元を掴み、呉葉は口に雪奈を噛み掴む。


「全力で駆け抜けろ!」

「――はい!」


 歪み、捻じれる床に鋭い爪が突き刺さる。

 その視線は開いたままの玄関口へ。

 姿勢を低くし、全身に霊を張り巡らせる。

 そして、後ろ足を蹴り上げた。

 次の瞬間、オキトの視界が反転。

 文字通り一瞬でマンションの廊下部分に到着。

 目の前には、今まさに異界に呑みこまれていく室内が。

 渦を巻きながら、収縮し崩壊していく異界が終わっていった。


 パトカーのサイレンが、遠くから聞こえてきた。

 霊安がもうすぐこちらに来るのだろう。

 再び、鼻を劈く腐敗臭に意識が流れる。

 鼻を摘まみながら、扉を閉じたのだった。

 気を失っている雪奈を抱きかかえ、少し疲れた表情で一階のエントランスまで下りてくる。

 オキトは白んで来た空を見上げながら、懐から一本の煙草を取り出す。

 それを呉葉が指先から火を出して、点火する。


「……ふぅ」


 深く吸い込んだ紫煙を、短く吐き出す。


「あ、今の火でコンビニの巾着、三件分でーす」

「……高くない?」


 もう少しだけ、遠慮してほしい。

 煙草のチリチリと音が朝日に重なる。


「……うぅ」

「気付かれましたか?」


 冷え込む朝の空気に、オキトは自分が羽織っているジャケットをそっと雪奈の肩に掛けた。

 自分にはお礼を言う資格すらない、と自嘲する。

 男の浮気で逆上し、殺してしまった。

 それを隠すようにバスタブに沈めたが、日に日に漂う腐臭に頭がおかしくなった。

 その頃なのだろう。

 オキトのいう「不浄」に取り込まれたのは。


「……もうお気づきだと思いますが、鏡の染みは最初からあったんですよ」

「……はい」


 力なく項垂れる。

 男の目のように見えたのは、最後まで残っていた罪悪感。


「私は、……それから逃げたんですね」

「異界が先か、不浄が先か。……どちらにせよ。この後の調査は霊安がやってくれます」


 肩に掛かったジャケットの裾を握りしめる。

 冷えた空気に混ざって香水の匂いが鼻先を掠めて消えた。

 自分はこれから裁かれると、改めて認識する。

 当然だ。殺人を犯してしまったのだから。

 だが、自分自身でも分からない事が一つあった。


「探偵さん、私はなぜ……」

「ストーカー被害として第三者に解決を依頼したか、ですか?」


 雪奈は黙って頷いた。

 オキトは少し紫煙を肺に吸い込み、身体を温める。


「……探偵は、解決はしません。言ったでしょ。橋渡しだって。だからそれは警察や霊安の領分です」


 その言葉に雪奈が目を伏せる。


「でも、一つだけ言えます」

「え」

「不浄に取り込まれる人は大体二種類」 

 ――善人か極悪人か。

「……私は、前者だと思います」


 オキトの言葉に雪奈は俯き、それっきり顔を上げようとしなかった。

 徹夜明けで疲れ切った身体に寄りかかる肩が一つ。

 オキトは、それを跳ねよけようとはしなかった。


 そういえば事務所にトモエとユウリを置いたままだった。

 このままだと朝帰りだと思われるかもしれない。

 いや、流石にホテルかどこかに帰っているだろうと、勝手に結論付けた。

 ふとスマホがlimeの着信で震える。

 震え、続ける。

 恐る恐る画面を覗き見ると、トモエからのメッセージが百件越え。


「……まじか」


 雪奈に気付かれないように小声でつぶやく。

 おそらく先ほどまで異界という圏外に居た為だろう。

 一晩中送られたメッセージが一挙に押し寄せた。

 焦る手でスクロールをする。

 最後のメッセージはたった一言。

『刺す』

 どこの太宰(文豪)だよ、と手が震えた。


 二台のパトカーが到着した。

 これから状況を説明しないといけない。

 だが、後に控えている地獄を考えると、今はただ座り込み、朝空を見上げるしかできなかった。

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