⑤義兄さん、おむつはどこですか!?
「はぁ……」
鈴村探偵事務所。
主人と来客が去った事務所内でトモエの溜息が浸み込む。
義兄であるオキトを様子を見るついでに本家に連れ戻せ。
そう指示を受けて上京してきたまでは良いが、この状況は何のだろうか。
ゆりかごの中のユウリをあやしながら頬杖を突く。
「まったく。お前のお母さんは誰なんでしょうね?」
そもそも本当に義兄の子供であるかは妖しいが、霊を帯びると青白く輝くのは一族の血を引いている可能性が非常に高い。
他の兄弟の可能性を考慮してみた。
長男。兄ケイゴ→女より男の方が好み。×。
次男。兄レツ→二次元至上主義の引きこもり。×。
義兄。妾の子オキト→脳みそ下半身の猿。〇?
「――碌なヤツがいない!!」
日本における三大祓い師の一族「真那桐」。
東北一帯を統べる家系の末裔がこの体たらく。
まともなのはもう自分だけなのだと、想像して涙を流す。
手を伸ばしたユウリの五本の指。
自分の人差し指と同じくらいの小ささ。
このまま母親が出てこなかったら、おそらく本家に引き取られるのだろうか。
そこで思考が一瞬停止する。
義兄含む、実兄たちの今の状況を鑑みるに、原因は本家にあるのではないだろうか。
確かに祓い師としての責務を負うべく、幼少より厳しい訓練が課される。
それが今の状況を招いているとしたら。
トモエは「あ」と「う」しか言葉を発する事ができないユウリの頭を撫でる。
本家と壮絶な喧嘩別れをしてもなお、買われ続けるその実力を持つ義兄。
「お義兄ちゃんの、子供かぁ……」
もし、本当に母親が見つからなかったら。
その時は自分がこの子を導こう。
例え、本家が文句を言ってきても。
絶対に兄のようにしてなるものか。
そう決意した。
赤ん坊の仕事とは、泣く事である。
先ほどまで笑顔だったユウリが、次第に険しい顔となり、やがて泣き出した。
困惑するトモエが一つの結論にたどり着く。
先ほど変えたばかりのおむつをめくり、確信。
「……おしっこ」
消沈しながらゆりかごの中からおむつを探す。
探す。
……探す。
その手が止まり、肩が震える。
「あー、もう! 義兄さん! おむつはどこですか!?」
ユウリの鳴き声とトモエの絶叫が事務所に響く。
「あ、うんちも……。あー……」
トモエの泣きそうな声。
その壁には一枚のチラシ。
『どんなお悩みも即解決! 鈴村探偵事務所! 何でもご相談ください!』
誰か、彼女の悩みを聞いてあげてください。
「……臭いが、凄いですね」
鼻を劈くような異臭がマンションの廊下に立ち込める。
その臭いは、明らかに雪奈の部屋から漏れ出ていた。
「おそらく、先ほどまでの異界がこの異臭に蓋をしていたのでしょう」
「異界が、蓋ですか?」
オキトは雪奈の問いに答えずに、預かった鍵で扉を開ける。
強烈な異臭とは裏腹に、虫などは湧いていなかった。
「呉葉は外の警戒を。この手の異界は内部からは出れない事が多い」
「しばらくして扉を開ければ良いって事ですね。かしこまりました」
異界化した自室に恐怖を覚え、オキトの服の裾を掴む。
「大丈夫ですよ。こう見えてもプロなんでね」
雪奈の震える手にそっと触れて、室内へと進む。
間取りは縦長の1K。
キッチンフロアを通り、仕切りとなる扉を開けて居室へ。
テレビ。テーブル。ベッド。
飲みかけのペットボトルに化粧品。
そして、姿見の鏡。
霊を凝らしても異常も異変も見当たらない。
「……ふむ」
オキトの視線の先には室内干しの下着類。
……ピンク。やはり、でかい。
などとは口に出さずに、考える振りをする。
キッチンで足を止めている雪奈の下に戻り、異常が無かった事を伝える。
「そうなると、やはり……」
オキトの言葉に雪奈が同意する。
浴室に接続された洗面所。
異臭の、中心。
「そういえば、この異臭は、異界と関係あるんですか?」
唐突に雪奈が疑問を口にする。
「そうですね。結構多いですよ」
「色々な異界があるんですか?」
キッチンに置かれた冷蔵庫を開ける。
やはり、中の食材は腐っていなかった。
「前に私が体験した異界は、常に夕方の世界でしたが、そこは逆に無臭でしたね」
「無臭、ですか?」
言葉の代わりに煙草と禁煙パイポを取り出す。
「異変を感じない場合、こういうのを使って、異変を作ってみるんですよ」
「今回は異臭という事だから、不要と言う事ですか」
そうですね、と言いながら禁煙パイポを口に加える。
「……ただのヘビースモーカーの方だと思っていましたが」
「それも否めません」
不安感を解消する為の軽口のつもりだったが、少し刺激が強かったのだろうか。
それっきり俯いてしまった。
洗面台に立つ。
そこには割れた鏡に軽薄そうな男が立っているだけだった。
「……」
オキトは、口に加えたパイポを手に取り、踵を返して出入口となる扉を見る。
ドアは、在る。
少しだけ考え込み、再び口に加えてバスルームの扉を開けた。
異臭の原因。
「……やっぱり」
その直後、後頭部に鈍い衝撃が走り、床に叩きつけられた。
視界が白くなり、激痛で声を出そうとして、息だけが漏れた。
ガタンという音と共に電気が付き始める。
雪奈がブレーカーを上げたのか。
否。
異界が再び回り始めたのだと、オキトは認識した。
霞む視界の中で、襲撃者の顔が結像する。
そこには顔面の半分が黒く染まった雪奈の姿があった。
無表情で立ちすくみ、右手には大きな金づち。
「不浄に、……侵食されていたのは、……貴女でしたか」
「それにしては無警戒でしたね」
その言葉にオキトが笑う。
「言ったでしょう? 所詮探偵なんて、事件解決の為の橋渡しだと」
そう言って胸ポケットからスマホを取り出す。
そこには録画状態の画面。
「さっきまで、霊安に直接映像を届けていました」
もう圏外になってしまいましたが。と言葉を継ぎだす。
「ここまで仕事が早いとは、……思いませんでした」
バスタブの淵に手を掛け、よろめきながら立ち上がり風呂の中を見る。
そこには沈められた男の死体。
それが、異臭の正体だった。
雪奈に体当たりし、玄関へと雪崩れ込む。
だが、そこには在ったはずのドアノブが消えていた。
「ここまで予想通りかよ!」
踵を返し、居室へと向かう。
そこには先ほどまでの夜ではなく――。
清々しい程の昼間の風景が窓ガラスに映っていた。
後ろから地鳴りのような低い音。
振り返ると居室全体が波打つように、異物であるオキトを吐き出そうとしていた。
はじき出されたオキトは、ベランダの手すりに右手を掛ける。
後頭部の痛みで思った以上に力が入らない。
異界にはルールがある。
一つ。出口は入り口のみ。
一つ。安全圏は“認識された場所”だけ。
一つ。不浄を倒しても、世界は消えない。
この場合、雪奈が認識していたのは室内と、ベランダから見える光景のみ。
このまま落下する、別の部屋に移動するという行動は、二度と正常の世界に戻れない事を意味する。
ましてや不浄に侵食された雪奈を殺す事は、殺人に問われる。
それが例え正当防衛だとしても、社会的信用は失墜する。
「これだから、不浄を取り込んだ異界は厄介なんだ!」
左手を掛けてベランダに着地する。
「というか、呉葉は何やってんだよ!?」
頭があった位置に包丁が霞める。
雪奈が残った顔を黒い手で覆うと不浄へと染まり、赤い眼でこちらを笑う。
「……探偵さん。私、今どうなっていますか?」
その問いに、オキトの瞳孔が開く。
人に寄生した不浄。
それが今の雪奈。
「おそらく痴情のもつれで、勢い余って殺してしまった絶望と後悔に、不浄が吸い寄せられたんでしょう」
「……不浄?」
「簡単に言えば、妖怪や怪異と言った類です」
「……それって」
オキトは味が薄くなったパイポを手に取る。
未だに響く後頭部の痛み。
それを深呼吸で、和らげる。
再び息を吸い込み、不浄に染まった雪奈へと視線を戻す。
「……倲京の半分を呑みこんだ、黒い異形。その鱗片が、貴女に癒着しているんです」
その言葉に歩みを止め、居室にある姿見鏡を見て、足を止めた理由を探る。
映っているのは、人か不浄か。
どうしてこうなったんだろうという、明確な後悔。
雪奈はそう結論付けた。
まだ戻れる。
――だが。
この、世界と混然となった感覚を捨てて?
「……ふ、ふふ」
雪奈が笑いだす。
その笑いは次第に大きくなり、異界という閉じた空間に木霊する。
そして大きく溜息をつき、開き直ったように髪をかき上げオキトを見る。
「……なぁんだ。私、とっくに戻れないじゃない」
倫理か感情。あるいは両方。
目覚めた悪意がオキトを襲う。




