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④義兄さん、一体どこに行ったんですか!?

 ――その違和感に気付いたのは、およそ三か月前なのだという。


 いや、それまでも家と会社の往復などの外出時に、視線や付けてくる気配を感じていた。

 しかし、仕事の繁忙期というのもあり、中々気が回らなかったというのが正しいのかもしれなかった。

 そして、三か月前。

 家から帰ってメイクを落とそうと洗面所の鏡を見ると、右下に黒い汚れが付いていた。

 触ってみると固くこびり付いていた。

 その時は錆かと思い、傷をつけないように軽くこすって汚れを落とした。

 その日の夜の睡眠中、ワンルームマンションの玄関から、人の気配がして目が覚めた。

 急に騒ぎ立てると、逆上した犯人による殺人、というワイドショーを思い出し、寝ているふりをしてやり過ごす事にした。

 生々しい息遣い。傍を通る足音が鮮明に瞼の裏に突き刺さる。

 朝日が差し込む頃、気付くとその気配は無くなっていた。

 頭を抱えながら、洗面台に立つと、右下に黒い錆が再び付着していた。

 何だと思い、顔を近づけると、左上に、人間の目があった。

 咄嗟に振り向くが、誰もいない。

 恐怖で腰が抜けてしまい、しばらく立ち上がる事は出来なかった。

 主だった異変はそれっきり。

 恐怖の根源。

 それは自分を覗いていた顔に、心当たりがあった事だ。

 だが、誰だったのかが思い出せない。

 スマホの中の写真や学生時代の卒業アルバムを漁ってみるも該当はなし。

 あの目は誰か。

 でも知っている目だった。

 それが、堪らなく怖かった。

 それから、その家には一度も帰っていない――。


 お客様相談シートに、メモをしながらオキトが考えを巡らす。


「つまり、それ以降、鏡を見るとその顔を思い出す、と?」


 話を終えて真っ青となった雪奈が、顔を手で覆いながらゆっくりと頷く。

 見たのは一度だけ。

 だが、その恐怖は実体の無いストーカーとして脳裏に刻まれる。


「――鏡の中の追跡者、か」


 ボールペンのノック部分を軽く口に当てながら、思案する。

 なるほど、確かにそれだけだと警察などの公的機関はまず動かない。

 不浄の可能性が高いが、一度のみというのがネックだ。

 せいぜい「お疲れでしたね」で終わる事案となっているのだろうと思った。

「御田村さん、もし可能であればなんですが」

 オキトは短く前置きして、静かにボールペンをバインダーに挟みこむ。


「これから、貴女のご自宅に入らせていただけませんか?」

「……え? これから、ですか?」

「ああ、私一人で、という訳ではありませんのでご安心を。女性の「助手」を同行させます」


 ガチャリという音が聞こえて、トモエがパーティションの奥から顔を出す。

 そこには既に誰もおらず。

 トモエは義兄の事務所で知らない赤ん坊と二人きりにさせられた。


「……に、義兄さん! 一体どこに行ったんですか!!?」

 トモエの絶叫に、ユウリは面白そうに笑っていた。


 雑居ビルの間の月極の駐車場へ向かう途中、雪奈が足を止める。

「あの、探偵さん。その助手さんというのは、妹さんの事ではないんですか?」


 コートから禁煙パイポを取り出し、口に加える寸前だったオキトは、大丈夫と口角を上げる。


「……今から呼び出しますんで」


 敷地内に入り、車のアクアの前に立つ。

 両手で狐の頭を象り、崩して窓へと転ずる。


「――来い。呉葉(くれは)。仕事の時間だ」


 空間が波を打つ。

 目の前の景色が波紋のようにたわむ光景に雪奈が絶句する。


「探偵さん、あなたは、一体――」

「言ったでしょ? 古い祓い師の家系だ……ってね」


 どこからともなく、コンと木槌を叩いたような音が薄く響き渡る。

 オキトのその命令に従い、狐の面を付けた黒髪の女が姿を現す。


「こんばんは。オキト様。命令に従い参上致しました」


「御田村さん、彼女は私の助手の呉葉(くれは)。まぁ式神のようなものだと思ってください」

「こんばんは。御田村様。宜しくお願い致します」


 呉葉が深々と頭をさげ、それに釣られて頭を下げる。


「さぁ、狭いですが、早く車の中へ。まずは現場を確認させてください」


 後部座席を開き、雪奈に搭乗を促す。

 静かにドアを閉めると、呉葉が小声でオキトに、


「あ、オキト様」

「分かっている。コンビニのおでんの巾着を買い占めてやる」

「話が早くて助かりますぅ」


 るんるんとした雰囲気で、助手席へと入り込んだ。


 都内から車を走らせて一時間程。

 県境付近の駅前のオートロックのマンション。

 外見や内装は綺麗な雰囲気で、独り身の女性が好んで契約しそうな賃貸物件だった。

 そこの七階の角部屋が雪奈の部屋だった。

 エレベーターに三人が入り、⑦ボタンを押す。


「そういえば、家に帰れない三か月はどちらへ?」

「この話を持ってきてくれた上司の家にしばらく。その後はマンスリーを契約していました」

「その間、鏡に異変は?」

「……いえ」


 アナウンスと共に戸開し、少し寒々しく感じる廊下を進む。


「こっちです」


 雪奈が乗り場を右に曲がろうとするが、二人の足が動く事は無かった。


「……呉葉」

「そうですね。これは中々……」


 そう言いながら、たわんだ空間から弓を取り出す。


「あまり得意じゃないのですが」

「構わん。気休めでもいい」

「え、気休め以上はできますけど」


 その様子を困惑した目で雪奈が見守る。


「御田村さん、私の後ろへ」


 オキトの真剣な表情に気圧され、素直に従う。

 呉葉は周囲を警戒しながら弓の弦を張り直す。


「あ、あの、何が、見えているん……ですか?」

「理由はわかりませんが、ここは、もう貴女が知っているマンションの七階ではありません」

「……それって、どういう事ですか?」

「オキト様。まずはこの廊下を駆逐します」

「許可する。やれ」


 その言葉に反応した呉葉が、弓をしならせる。

 キリキリという音が聞こえそうな程の力で引き絞り、指を離した。

 弦が空間を高速で撃ち付ける音が響き、耳を劈くガラスが割れた音と強烈な腐臭が辺りに充満した。

 それは雪奈の部屋へと吸い寄せられるような風を巻き起こしながら、あっという間に消えていった。


「え? ……え!? な、何があったんですか?」

「……私と呉葉の目には、この廊下が別の姿に見えていました」

「別の、……姿?」


 オキトの瞳の奥に宿る仄暗さ。

 箱から新しいパイポを取り出し、肺の深くまで吸い込む。


「……異界」


 そのたった一言に、雪奈は心臓を掴まれたような恐怖を覚えた。

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