新宿のカフェにて
新宿三丁目。
夕方と夜の境目にあるこの街は、まだ人の流れを失っていなかった。
仕事を終えた人間たちが、駅へ、店へ、それぞれの帰路へと散っていく。
騒がしさはあるが、歌舞伎町ほどの雑音はない。
“日常”が、ぎりぎり保たれている時間帯。
シエラは、その流れの端に立っていた。
スマホを取り出し、画面を見る。
表示されている時刻は――19:00。
一度だけ確認して、顔を上げる。
きょろりと周囲を見渡す仕草は、
待ち合わせに少し早く着いてしまった人間の、それにしか見えない。
服装は小綺麗だった。
派手すぎず、地味すぎない。
新宿の夜に溶け込む、おしゃれで可愛い装い。
耳には、片側だけワイヤレスイヤホン。
もう片方は外し、街の音を拾っている。
『……来たみたい』
りんの声が、低く、短く届く。
位置情報は、すでに捕捉済み。
仕事を終え、帰路についた男が、
この新宿三丁目を通過するタイミングを――今。
シエラは、特別な反応はしなかった。
ただ、何でもないふうを装って、
視線をほんの少しだけ動かす。
人の流れの中に、
ひとつだけ、歩調の違う背中があった。
――天城 恒一。
仕事帰りのその姿は、目立たない。
だが、どこか街と噛み合っていない。
ここから先は、予定通り。
シエラは、一歩だけ踏み出した。
「すみません」
仕事帰りの人波の中で、
シエラは声をかけた。
「このカフェ、探してて……
東京、まだあんまり慣れてなくて」
天城は、一瞬だけ足を止める。
「ああ……この道をまっすぐ行って、
右に曲がって。
あとは道なり」
「……ありがとうございます」
ほんの一拍、間を置いてから。
「あの。
もしよかったらでいいんですけど……
案内してもらえたりしますか?」
一瞬だけ、沈黙が落ちた。
人の流れは止まらない。
背後を通り過ぎていく足音と話し声が、二人の間をすり抜けていく。
天城は、シエラを見た
「……わかりました」
短く、そう答える。
「いいですよ」
それだけ言って、歩き出す。
振り返らないが、歩調は自然と相手に合わせられていた。
シエラは、ほっとしたように小さく息を吐き、
少しだけ距離を空けて後をついていく。
◆
夜の新宿三丁目を抜け、
案内された通りに角を曲がり、道なりに進む。
数分もしないうちに、目的の店が見えてきた。
「ここです」
天城が、入り口の看板を指さす。
「……あ、ほんとだ」
シエラは、安堵したように声を上げた。
「ありがとうございます。
助かりました」
一礼してから、少しだけ言葉を探す。
「……あの」
一拍。
「もし良ければなんですけど。
案内してくれたお礼に、奢りますし……
少しお話ししませんか?」
天城は、即答しなかった。
店の入り口と、シエラを交互に見る。
「いや……」
一瞬、断るかと思わせてから。
「奢られるのは、さすがに申し訳ないですね」
そう言って、ドアに手をかける。
「それなら、俺が出しますよ」
シエラは、わずかに目を見開いた。
「……いいんですか?」
「案内しただけですし」
「ありがとうございます」
素直にそう言って、シエラは微笑んだ。
二人は並んで、カフェの中へ入っていった。
店内は、夜の新宿にしては静かだった。
照明は落ち着いていて、外の喧騒はガラス越しに遠ざかっている。
カウンターで注文を済ませる時、
シエラは迷う様子もなくメニューを指した。
「カフェモカで。
ホイップ、多めでお願いします」
甘さを隠す気はない。
むしろ、堂々としている。
天城は、その様子を一瞬だけ見てから、
簡潔に言った。
「ブラックで」
それだけだった。
注文を終え、席に戻る。
シエラはスマホを伏せてテーブルに置き、
両手を膝の上に揃える。
「……こういうお店、よく来るんですか?」
雑談の入りは、軽い。
「いや。
仕事帰りに、たまに」
「へえ……大人ですね」
深い意味はないように言って、
シエラは笑う。
ほどなくして、ドリンクが運ばれてきた。
テーブルに置かれたカフェモカは、
見た目からして甘い。
ふんわりとしたホイップクリームに、
チョコレートソースが細くかけられている。
ブラックコーヒーは、その隣。
飾り気のない、ただの黒。
対照的すぎる二つだった。
「……甘そうですね」
天城が、ぽつりと言う。
「はい。
甘いの、好きなんです」
シエラはそう答えてから、
ストローで一口、カフェモカを飲んだ。
天城は砂糖もミルクも入れず、
ブラックを一口含む。
表情は変わらない。
シエラは、その様子を横目で見ながら、
何でもないふうに続けた。
「……ブラックって、苦くないんですか?」
天城は、カップをテーブルに置く。
「苦いですよ」
言い切りだった。
「でも、俺はブラックが好きなんで」
「へえ……」
シエラは自分のカフェモカに視線を落とし、
ふわりと乗ったホイップをストローで少し崩す。
「じゃあ……」
「あたしも、飲んでみてもいいですか?」
天城が、一瞬だけ動きを止めた。
「……え?」
聞き返してから、
自分の手元のカップを見る。
「俺の、ですけど」
「はい」
シエラは、迷いなく頷いた。
笑顔だった。
天城は、わずかに眉を寄せる。
「……もう、口つけてますよ」
一言確認を入れる。
「気にしません」
即答だった。
「一口だけですし」
そう言って、
シエラはカップに手を伸ばす。
天城が止める様子はなかった。
ただ、その動きをじっと見ている。
シエラはブラックコーヒーを一口含み、
すぐに表情をしかめた。
「……っ、にが」
思わず、素直な声が漏れる。
その瞬間だった。
天城の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
意識しなければ見逃す程度の変化。
けれど、確かに――笑った。
シエラは、それを見逃さなかった。
「……あっ」
指を立てる。
「今、笑いましたよね?」
天城は一瞬、間を置いてから、
視線を逸らすでもなく答えた。
「……そうですか?」
「しましたしました!」
シエラは身を乗り出す。
「絶対、
“お子様だな”って思いましたよね?」
ぷくっと頬を膨らませる。
天城は、否定するように首を振った。
「そんなことはありませんよ」
「ただ……」
言葉を探すように、少しだけ視線を落とす。
「なんだろう……
かわいいな、とは思いましたけど」
一瞬、空気が止まった。
「……ほら!」
シエラはすぐに反応した。
「やっぱり子供だと思ってるじゃないですか!」
むすっとした顔で、
カフェモカを両手で抱える。
「失礼です!」
天城は、思わず小さく息を吐いた。
否定しようとして、
でも言葉が追いつかない。
代わりに、
抑えきれなかったものが、表情に滲む。
シエラは、少し間を置いてから口を開いた。
「そういえばお名前聞いてませんでしたね。お名前聞いてもいいですか?」
天城は一瞬だけ戸惑ったようにしてから、短く答える。
「天城です」
「天城さん、って言うんですね、あたしはシエラと言います。」
「シエラさんていうんですね。」
お互いその呼び方を一度、口の中で確かめるようにしてから、
シエラはスマホを取り出した。
「天城さんって、
こういうの、見たりします?」
画面に表示されているのは、
ダークトーンのキービジュアル。
剣を持った主人公が、崩れた街の前に立っている。
――『裁刻のレクイエム』
天城の視線が、画面に落ちる。
「……それ」
「俺、好きなアニメですよ」
シエラの顔が、ぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
身を乗り出して、
嬉しそうに続ける。
「いいですよね!
ダークファンタジーなんですけど、
主人公がちゃんと悪を捌いてくれる感じで」
言葉が少し早くなる。
「悪役が成敗されるの、
見ててスカッとするし……
はっきりしてるのが好きで」
天城は、コーヒーを一口飲んでから、
小さく頷いた。
「分かります」
声音が、さっきより柔らかい。
「俺も、
ああいうスカッと系、好きなんですよ」
少しだけ、間。
「……正しいことをした人間が、
ちゃんと“英雄”になる話」
ぽろりと、こぼれるように。
「俺もさ。
こういう英雄になれたら、って思うんだよ」
シエラは、何も言わずに天城を見た。
視線を逸らさず、
ただ、じっと。
天城は、はっとしたように笑う。
「……ははっ」
「俺、何話してるんだろ」
照れ隠しみたいに、肩をすくめる。
シエラは、その様子を見て、
ふっと口元を緩めた。
「天城さんって、
そんな顔、されるんですね」
「……え?」
「なんか」
少しだけ、首を傾げる。
「結構、かわいいかもです」
天城の動きが止まった。
耳まで、分かりやすく赤くなる。
「……それは」
言葉が続かない。
シエラは、
何事もなかったようにカフェモカを一口飲みながら、
その反応を静かに観察していた。
◆
店を出ると、夜の空気が一段冷えていた。
新宿三丁目の喧騒はまだ残っているが、
さっきまでいた店内より、少しだけ現実に戻された感じがする。
シエラは、立ち止まって振り返った。
「今日は、天城さんとお話しできて楽しかったです」
飾らない言い方だった。
礼儀でも、誘いでもない。
ただの感想。
天城は、少しだけ言葉に詰まった。
「……」
一瞬、迷うような間。
それから、意を決したように口を開く。
「……もし良ければ」
シエラが首を傾げる。
「二件目、行きませんか?」
「……?」
天城は、慌てて言葉を足した。
「俺が奢りますよ。
この近くに、バーがあるんで……
よかったら、そこでご一緒しませんか?」
シエラは、一瞬だけ考える素振りを見せた。
「……あたし」
視線を落としてから、正直に言う。
「お酒、弱くて。
ほとんど飲めないんですけど……
それでも、いいですか?」
天城は、すぐに首を振った。
「大丈夫です!」
少し、声が弾む。
「無理に飲まなくていいですし。
……その」
一拍。
「シエラさんと、もう少し話したくて」
シエラは、その言葉を聞いて、
ふっと小さく笑った。
「ふふ……」
「わかりました」
顔を上げる。
「じゃあ、
案内、よろしくお願いします」
天城は一瞬、きょとんとしてから――
気づかれない程度に、拳を小さく握った。
「……はい」
短く答えて、歩き出す。
並んで歩く二人の背中が、
ネオンと街灯の境目へと溶けていく。
夜の新宿に、二人の男女が消えていった。
続く




